縁期暦紀 巻ノ十三 姫鏡 ―魔鏡―

 わたくしは、代々 あづま 家にお仕えしている姫鏡と申す者でございます。東家の姫君たちは、代々わたくしにその美しい姿を映し、御髪を整え、白粉をはたき、紅を塗り、彩豊かな単衣を幾重にも重ね装うのでございます。
 姫君たちは婚礼を上げ次の娘を生みますと、その娘にわたくしを与えます。東家は代々女性ばかりが生まれるらしく、娘たちは皆跡取りと結婚する娘を生むのです。平安の貴族の世では女は実家で暮らし、男が通ってくるのが常でしたから、わたくしはいつも同じ部屋に置かれてたくさんの美しきものを映してまいりました。淑やかな姫君も、気丈な姫君も、優しき姫君も、癇癪持ちな姫君も、皆わたくしの前で素顔をあらわにすると、自らに問いかけ、慰め、励まし、時に涙し、また雅やかな立ち居振る舞いをする美しき姫君に戻られるのです。
 東家の姫君は代々肌が透けるように色白で、上気するとほんのり頬が赤く染まります。目はくりっと丸く、特に少女期は闊達な光を宿している方が多いのも特徴です。手足も皆さま華奢で、殿方の手にかかれば親指と人差し指で軽く掴めてしまえるほど細いのです。唇も上下ともにふっくらとしており、艶やかな紅を塗れば殿方が思わず吸いつきたくなるようななまめかしさを放ちます。黒髪は椿油を梳きこまずとも艶やかで、歩けば淑やかにうねり白に緑に光を射返します。櫛を持った侍女はもちろん、夜伽に撫でさする殿方もその指に吸いつく髪の感触を至上のものとされておりました。
 わたくしの居が歴代の姫君様のお部屋から移されましたのは、そんな雅やかな世の中からきな臭い世の中へと移行しようとしていた頃のことでございました。
 六代目の姫君が婿を取るのではなく、安治あじと申す城持ちの元に嫁がれることになったからでございます。姫君はそこで歴代の姫君方がそうされてきたように殿方に身を預け、一人の赤子を生み落されました。
 その姫君は、過去七代とお姿を映してきた姫君の中でも群を抜いて、いえ、比べることすらおこがましいほど美しく妖艶で、奥深い知識を瞳の奥に秘め、また幼いながらに所作一つ一つに唇から指の先まで不相応な色気を宿した姫君でございました。鞠つく手つきも、紅を引く小指の動きも、目線の流し方も、一体どこで覚えてきたのかと思うほど早熟で、細く華奢な首筋は吸いつきたくなるほど白く錦の着物の合間から伸びていました。背を過ぎて膝近くまで伸ばした黒髪もまたたおやかで滑らかに櫛を通します。
 姫君が初めてわたくしを覗き込まれたのは、姫が二つか三つの時だったかと思いますが、儚さを伴う美しさの萌芽はその頃からすでに芽生えており、十二となってはどこか気だるそうな気色さえ浮かべながらわたくしに映るご自分の姿を眺めてらっしゃったのでございます。
 さぞやよき殿方と娶せられ、お幸せな一生を過ごすものと、わたくしはその頃、世間知らずにもまだ頑なに信じていたのでございます。
 そういえば、この姫君は何歳になってもわたくしに言葉を掛けては下さらない方でございました。ほかの姫君は、言葉を覚えますればまず、自分を映すわたくしに向けて何事かを話しかけようとします。即ちご自分でご自分にお声をかけていらっしゃるのですが、そのうちもう一人の親友に話しかけるように日々の雑事や愚痴などが混ぜ込まれるようになっていきます。しかしどの姫君も、娘を生んだ暁には穏やかな笑顔で「娘を守っておくれ」と初めてわたくしに言葉をかけて次の代へと譲っていくのでございます。
 しかし、この姫君の母上、六代目の姫君は、わたくしを七代目の姫君に譲る際、苦悩した表情でわたくしを覗き込まれたのでした。
「月葉(つきは)を隠しておくれ」
 悲しみと嘆き、失望と不安とがないまぜになった一言でございました。
 その一言を残して、六代目の姫君は手早くわたくしを絹の布帛に包み、七代目の姫君の胸元に差し入れてしまったのでございます。わたくしは、六代目の姫君の言葉に従って暗がりへと身を潜めた姫君のまだ蕾すらついていない胸元で温もりを感じながらも、早まっていく鼓動に焦燥感と居心地の悪さを感じておりました。やがて辺りは騒々しくなり、阿鼻叫喚の中に六代目の姫君の悲鳴が響き渡りました。震える七代目の姫君はぎゅっとわたくしを着物越しに握り、恐怖に耐えておられるようでした。
 隠すとはどういったことなのか、わたくしにはさっぱり理解できませんでした。わたくしはありのままの姿を映すものです。どんな姫君たちも、わたくしの前では本心と素顔を曝け出し、心を緩めて再び戦へ向かうがごとく美しく装うのでございます。
 わたくし自身も、語る言葉を心のうちに持ってはおりますが、姫君様方にお掛けする声も口も持ってはおりません。わたくしはいつも、ただ姫君たちを見守るだけでございます。この時も、わたくしは何も新しい女主人に言葉をかけて差し上げることができなかったのでございます。
 嵐のような一夜が過ぎ去って、わたくしは二か所目となる新たな居室に据え置かれました。そこは、清川と申す一代にして城持ちとなった荒くれ者の城の一室でございました。清川は平安末期に下級武士として血腥い仕事を生業としていたようですが、時代の転機が味方したのか剣がものをいう時代に移り変わる波に乗り、一代で成り上がった殿様でございました。その清川が安治の城に夜襲をかけ、一夜にして姫君を覗き安治一族を滅ぼしてしまったのです。
 七代目の姫様がおひとり生かされたのは、この荒くれ者の殿様の目に、少女には過ぎる妖艶さが留まったからでございました。十三にして初潮もまだ迎えていないというのに、姫君にすっかり魅了された殿様は側室としての部屋を与え、早々にその身をわがものとする日を決めてしまったのです。その場で無体な扱いをされなかったのは、まだ幸いというべきだったのでしょうか。
 それは、月葉さまのお輿入れの日取りが正式に決まった夜のことでございました。
 姫様はわたくしに掛けられた覆いを取り払い丁寧に畳んで傍らに置くと、化粧をはじめるでも髪を梳くでもなく、はじめて、ただじっとわたくしを見つめられました。
 揺れる蝋燭の炎に月葉さまの影がゆらめき、何故だかわたくしの胸は穏やかならず波立つようでした。
「月葉」
 はじめてお聞きした姫様の声は、今まで耳にしてきたどの姫君の声よりも低いものでございました。姫君の声というのは大概軽やかで明るく弾んでいるものでございますが、七代目のこの姫君の声は、暗く打ち沈み、しかも怪しげな色は残しつつも声変わりした少年の落ち着かぬ喉元を思わせるようでした。
 そのせいでしょうか、わたくしはありもしない心の臓が飛びあがるような痛みを感じ、わたくしを見つめるその姫君から目を逸らせました。
 否。
 逸らすことなどできませんでした。
 袖から伸びた白い手がわたくしの頬に添えられ、わたくしの顔は少し斜めに上向かされました。じっと見つめる黒い瞳がぬばたまのような漆黒の闇を携えてわたくしの上に舞い落ちてきます。梅の実のような赤い唇がそっとわたくしに触れ、生温かい息がわたくしの顔を曇らせます。
「冷たいね、お前は」
 姫らしくもなく不敵に微笑む姫君にどう答えたものか、わたくしは姫君の目をじっと見つめ窺うことしかできませんでした。それでも見つめれば見つめるほどわたくしの胸は高鳴り、月葉としての命を授けられたかのように顔に血が上り頬を赤く染めていきます。どうしてこんなにも想い乱れるのか、身を捩られるような感覚に息づまるような苦しさと幸福を感じながら、わたくしは姫君の手から頭に愛撫を受けておりました。優しく触れられて、わたくしは自分がどんな形をしていたか、どんなものだったかを思い出すのです。それでも再び唇を添えられると、途端にこの不自由な身も心も月葉となろうと躍りだすのでした。
「お前には見せておかなければならないね」
 そう言って姫君は、やはりその夜初めて、わたくしの前で袖から腕を引き抜き、衣を脱いで見せたのです。蝋燭の炎だけが頼りの薄暗い部屋の中、その方の上半身は大層白く輝いて見えました。当たり前です。毎日女だけが閉じ込められるこの部屋の中で書を読むか双六遊びに興じるしかすることのない生活を送ってきたのですから。日の光など無縁な生活をしてきたのですから。それなのに、その身にはいくつもの切り傷や擦り傷、中には抉られたような痕すらついておりました。醜く蚯蚓腫れに引き攣った火傷の痕は、本来なだらかな双丘を描いているはずの胸元をただ真っ平らに焼き尽くしておりました。
 ――その胸は……?
 かの方の昏い光が宿った黒い瞳に、狼狽えた表情で胸元から目を逸らせないでいるわたくしが映っておりました。
「お前の前の主の死に様を知っているかい? 焼き討ちされた城の中で私を抱えて逃げ惑い、私の目の前で清川の殿様に犯されて最後には刀で突き殺されて死んだんだよ。私はね、今でもその光景をよく覚えているよ。この目裏にしかと焼きついて離れない。いや、離すものか。忘れるものか。ああ月葉。お前はついにあの時の母上とそっくりに育ったね。上品で美しく、物を知らない憐れな女。そう育ててきたのはお前だろう? その身に映す姿は己を気高く美しく保たせる。お前に映る姿こそが絶対。美しく装い、美しく紅を引き、妖艶に微笑い、男を誘う技を磨きたくさせる。お前は女のための鏡。女を磨かせるための鏡。物知らぬ姫を育てるための鏡。己すら誘い惑わすほどに映る者に美を求めるもの。お前は今までそうやって代々東家の姫君を養育してきたのだろう。東家は姫しか生まれぬ女腹。平安にあっては美しき着物を纏い、蝶や花を追いかけ、婿が通ってくるのを待っておればよかったかもしれないが、時代は変わったのよ。――月葉、お前は母上を守れなかった」
 ぎらりと残忍な笑みがかの方の顔を覆っておりました。少女らしい無垢さと男を知り尽くした婀娜のある女の妖艶さとが見事に結びついたお顔でした。
 身を切るような恐怖感に苛まれつつも、わたくしはかの方から目を離すことができませんでした。むしろますます魅入られ、もしこの身に腕があったなら迷わず差し伸べていたのにと歯噛みする思いでした。
「月葉」
 優しくとろけるような声でかの方はわたくしに囁きました。
「お前の時代は終わったのよ」
 膨らんだ喉元から絞り出された声は、すでに女の物ではありませんでした。
「見ておいで。私の嫁入りを。私の初床を。お前のくれた清らかさと妖しさで見事あの清川の爺に引導を渡して見せよう。のう、月葉。さすれば私に力を貸してくれるね? その身を以て私に力を与えてくれるね?」
 ――ええ、はい……勿論でございます……
 甘い吐息に蕩けるように目を閉じると、かの方は再び優しく口づけなさいました。その形を写し取り、自在に操ってわたくしもかの方の唇を吸い返したいと切望しましても、この身は熱に浮かされ頬を赤く染めた月葉という名の初心な少女の顔しか映し出せずにおりました。
 かの方は嗤いなさりました。
 瞳に映るわたくしの姿を愛おしそうに見つめ、何度も何度も唇を寄せられました。
「月葉。お前はそうやって最後の夜に私を誘惑しようというのだね。身も重ねられないというのに。でも、そうだね。私の理想がお前なのだから、母に似るも道理、私が誘われるも道理。そうだろう、月葉?」
 わたくしはいつから女になっていたのでございましょう。わたくしはいつから、月葉という名の生を与えられていたのでございましょう。
 その名は、この姫君のお名前であったはずなのに。
「さあ、月葉、あいつが来るよ。私が契ったのはお前ひとり。かわいい月葉、わたくしに力を貸しておくれ。その身を刃に代えてでも」
 見慣れているはずの口元に浮かぶ淫靡な微笑に、わたくしは見慣れぬものを見出しました。それは、男の笑みでした。初床を迎える姫君を誘惑し、身を寄せるよう優しく宥めすかす殿方の笑みです。
 そうです、一度火に覆われたであろう胸の傷は女としての乳房を焼いたのではありません。元からこの姫に胸のふくらみなど生じようはずもなかったのです。近頃隠すように絹の巻かれた喉元は、火傷の痕が残っていたわけでも瘤が生じていたわけでもなく、殿方としての喉仏が隠されていたのです。
「女の月葉はお前にあげる。私は三日月を刃に今宵いよいよ母上の仇を討つのよ。のう、月葉。お前にだけ私の本当の名を教えてあげよう。月の刃と書いて『月刃』というのだよ。我が東家を滅ぼした憎き清川に復讐するためだけにお前に身を映し、女を磨いてきたのよ。分かるだろう? 女腹の東から男の子が生まれるは不吉。それを恐れて母上は私を姫として育てようとしたが、結局、東は滅びてしまった。私にできるのは、家を再興することでも清川の子を産んで鼻を明かしてやることでもなく、因果なこの身であの男を籠絡し、清川を滅ぼしてやることだけよ」
 わたくしははじめて、姫君方が何度かお話してくださった背筋の凍る思いというものを体験したように思います。かの七番目の姫君は滅びをこそ望んでいらっしゃるようでした。それも自分ごと滅ぼしてしまうおつもりだということが、嫌になるほどありありとお顔に現れていました。
 なんとおかわいそうな姫君でしょう。
 なんと哀れな幼い殿御でしょう。
 もしわたくしに口があればお諫めすることも叶いましたでしょう。
 もしわたくしに腕があれば、思いとどまるように抱きしめて差し上げることができたでしょう。
 もしわたくしに腕と足があれば、なよやかなその身体を抱きかかえ、ここから逃げることもできたはずですのに。
 一体、今までどれほどの注意を払ってこの身体をお隠しになってきたのでしょうか。わたくしの前でも衣を脱いで見せなかったのは、不意に誰かに見られることを厭うたからなのでしょう。しかし、幼い頃からここまで成長されるまで、どなたもこの方が男の子だと知らずに育てることなどできましょうか。ええ、そうです、最近めっきり見かけなくなりましたけれども、乳母の広重(ひろえ)はどこへ行ったのでしょう。自ら喉を掻き切って一命を取り留めた後、七番目の姫君の乳母となったあの女は。
 月刃様は自ら何かを思い出したように絹の上から喉のふくらみをそっと撫でられ、思い出すように遠くを見られました。
「それでこそ、広重にも面目が立つというもの」
 呟いた声が、もはやあの方がこの世のものではないことを物語っておりました。
 殺されたのでしょうか。それとも自害なさったのでしょうか。月刃様の秘密を守るために、世話の必要がなくなった途端に姿を消されたのは、つい最近のことでもないような気がいたします。姫君でありながら自ら着物を誂え袖を通す変わった七番目の姫君。いえ、変わっていると申しましても、傾き滅びた東の家にあっては、もはや侍女すらも置けなくなっていたに違いありません。
 ふと、遠くからちりーん、ちりーんと鈴の音が涼やかに響き渡ってきました。
「さあ、来なさった。何人目の妻になるのかは知らないが、この奥殿にひしめく女どももこれで解放されよう」
 昏い笑みを口元に閃かせて、月刃様はわたくしを真正面から挑むように睨み据えました。乱れた首元をなおし、女としての身支度をすっかり整えられると、一言、「見ておいで」とわたくしに優しく微笑みました。
「おお、月葉、月葉。会いたかったぞ」
 入ってきたのは、十代の月葉さまを妻として迎えるにはどう見ても年の釣り合いが取れぬ白髪の好色そうな狒々爺でございました。
 月刃様はよく躾けられた淑やかな姫君として、ついと両手をついて深々と頭を垂れて今夜夫となる爺を部屋に迎え入れました。
 すでに部屋の奥には枕を二つ並べた布団が一つ、敷かれております。清川の殿様はそれを見て口元に暗い悦びの火を灯しました。それに気づかぬはずはないのに、月刃様は顔色一つ変えず、穏やかな面持ちで酒の準備を始めます。
「どうぞ」
 月刃様が清川の殿様の腕にしなだれかかり、赤く漆の塗られた銚子を傾けると、清川の殿様はいよいよ見るのも苦しくなるほど目元までいやらしく眦を下げ、盃に注がれた透明な酒を一息に呷りのけました。
「お前も飲むがいい」
 己の使った盃を月刃様の華奢な手に握らせ、片手でなみなみと酒を注ぎやると、試すように清川の殿様はじっと月刃様を見つめました。
 月刃様は静かに盃に注がれた透明な酒の水面を見つめておられます。
「どうした。飲めぬか? 毒でも入れておったか?」
 洒落にならないことを言って、清川の殿様は豪快に笑い飛ばしました。その声のうるさいことといったらありません。しかし、次の瞬間、殿様はすっと目を細め、試すように、あるいは煽るように月刃様を見据えました。
「飲まぬのか?」
 それは老獪な爺の顔でした。曰くつきの若い娘をからかい、貶め、手籠めにする過程を楽しもうとする卑劣な爺の顔でした。
「頂戴いたします」
 月刃様は静かに視線を受け止めると、清川の殿様がそうしたようにやはり一息に盃を飲み干されました。と、見る間に蝋燭の薄明かりでもわかるほどほんのりと月刃様の顔は赤らみ、上気したかと思いきや、急転直下、どす黒く土気色に染まっていきました。
「ぐっ……」
 月刃様は息詰まり、己の着物の胸元を両手で掴み、絞るように握りしめました。
「ほう、どうした。自らの用意した酒の毒にやられたか? 儂は何ともないぞ」
 その言葉通り、殿様は月刃様の投げ出した盃を拾い、自らの酌で二杯目を飲み干します。
「思えばおぬしの母も気の毒な女だったのう。儂に刃を向けるなどという無意味なことさえしなければ、今頃お前を儂にとられることもなく、命をとられることもなく、何番目かの側室として、うまくすれば舌先三寸でお前を守ることができたかもしれぬのに。まこと、頭の足りぬ女よのう。それとも、お前を穢されることよりも、自身が儂の妾(そばめ)になることの方を厭うたのかの。いかにも心の弱そうなあの女ならありそうなことよ。己の誇りを守ることに執心して、結局何も守れなかったのだからのう」
「っがっはっ……」
 今のが聞こえていたのか否か、月刃様は返す言葉もなく呻くと片手で首元を抑えてごろりと床に転がり、身体を強張らせながら身悶えしはじめました。その手は右に左に宙を掻き、まるで何かを探しているよう――ちらと、月刃様とわたくしは目が合いました。月刃様の目は正気でございました。三日月のように研ぎ澄まされた鋭い刃を光に代えて目に宿しておいででした。
 ――わたくしはここです。ここでございます。
 ああ、どうしてわたくしは動くことができないのでございましょうか。
 この身に手も足も顔も胸も腹も、すべて備えておりますのに、なぜわたくしは自らこの手を、足を動かすことができないのでございましょうか。
「月葉……」
 月刃様が呼んでおられます。
 行かねば。
 わたくしはあの方のお役に立つと決めたのです。あの方のために生きると決めたのです。たとえこれが最後の命となろうと、もはや八人目の姫君に会い見えることが無かろうと、わたくしは――いいえ、月刃様の目にはしかと八人目の姫君のお顔が映っておりました。わたくしです。わたくしが八人目の姫君なのです。美しさだけを競い、ただ姫君たちの密やかなお話に耳を傾ける以外、何もできぬこのわたくしが。
「くっ、くっ、くっ。苦しむ様も母親譲りよの。見苦しいわ」
 唾を吐き捨て、清川の殿様は苦しみ悶える月刃様の上に跨り、月刃様の上半身の着物をはだけさせました。膨らみひとつない白い胸に無残に残る赤く灼き攣れた痕。殿様は興を削がれたように白けた顔をなさいましたが、気を取り直されたのか下卑た笑みを浮かべてその白い胸に、首筋に顔を埋められました。
 抱き上げられ、人形のように身体を貪られはじめた月刃様は、仰け反った瞬間に再びわたくしを見ました。口元からは赤い血が滴りはじめていました。手が宙を舞います。指先がわたくしに向けられ、おいでと誘います。
 わたくしは動くことのできない重い身体を厭い、疎みながらもただ見つめることしかできません。いいえ、本当にわたくしは動くことができないのでしょうか。わたくしは東家八番目の姫、月葉。この手も、口も、足も、月刃様のためのもの。
 そう思った瞬間、身から何かが削げ落ちていくように急速に身体が軽くなりました。
 泡のように漂うよりもしっかりとした足取りでわたくしは無垢の床を踏みしめておりました。手には先ほどまでわたくしそのものであった鏡を携え、さすがに茫然となさっている月刃様と、事にいそしみ気づく様子もない殿様の前に立ちます。
 そのお二人の前で、わたくしは鏡を持っていた両手を開きました。
 鏡はまっすぐに落下し、派手な音を立てて大小さまざまな大きさに割れ砕けました。
 途端、わたくし自身の身に悲鳴すらも上げられぬほどの激痛が駆け巡りました。
 視界はちかちかと雷光を受けたかのように瞬き、頭も手も足も、胸も肩も腹も、髪の毛先に至るまで、業火にくべられたが如き焼きつくような痛みが走りまわり、とても正気ではいられなくなりました。
「月葉、よくやった」
 心が砕け散る、そう思った時、わたくしは月刃様のお顔を映しておりました。
 満足げな暗い悦びを宿した目が、きりりと心願成就に向けた男の目になりました。
「お使いくださいませ」
 わたくしの身体からは痛みが引き、何もないどこまでも白い平らかな野が心の裡に広がっていきました。
 さすがの清川の殿様も異常な事態に気づき、ばらばらになったわたくしと、その一部を手にした月刃様を見、驚きの表情を浮かべられたかと思うと怯懦に駆られ、月刃様の上から飛び退りました。
「続きはよろしいのですか?」
 先ほどまでの毒にあてられた顔色は演技だったのでしょうか。口元から垂れる赤い血すら偽物に見えるほど、月刃様は嬉々として立ち上がり、後ずさる清川の殿様に飛びかかりました。倒れる殿さまの手があたって燭台が倒れ、障子へと燃え移ります。
 部屋一面が赤々と燃え盛る最中、赤に、黒に、立場が逆転した月刃様と清川の殿様の顔が陰影も露わに照らし出されます。
「女子のくせに怪力な……!」
 あれだけ肌を貪っておきながら嫋やかな少女とばかり思っていたのでしょう。月刃様にのしかかられて身動きの取れなくなった清川の殿様は、顔色を赤に青に変えながら抜け出そうと暴れますが、首筋にわたくしの刃をあてがわれますと歯を食いしばり、唇を噛みしめて月刃様を睨みつけました。
「一つ、教えて差し上げましょう。母上はわたくしを見捨てたわけではございません。わたくしが女好きの貴方に手籠めにされるわけがないと知っていたのです」
「なん、だと……?」
「まだ気づきませぬか。わたくしは女ではございません。東家最後の男でございます」
 鮮やかにそう言い放つや否や、月刃様はわたくしを清川の殿様の首に突き立てました。そして深々と中を抉り、真一文字に引いていきます。
 血飛沫が飛び立ち、わたくしも月刃様も赤く穢れていきました。
 赤い泡を吹きながら、それでも清川の殿様は生きています。
「武士とは、なかなか死なぬものよな。情けだ。最後に女の道具ではなくお前たちの道具で楽にしてやろう」
 月刃様はわたくしのかわりに、清川の殿様が来て早々に預けた武士の刀を床の間から掴みとり、すらりと鞘から抜き放ちました。
 磨き上げられた刀身に明々と照らされる月刃様の姿は、仏教に伝わる阿修羅のごとき美しさでございました。
 清川の殿様は最早悲鳴どころか呻き声すらあげられず、己の刀の錆となったのでございます。
 しかして、この騒ぎに気付かぬ城の者たちではございません。
 早々に物々しい気配とともに足音が近付いてまいります。室内はぐるりと炎に包まれ、逃げ道はございません。
 軽く息を弾ませた月刃様はわたくしの欠片を全て拾い集め、手布に包みこみました。
 いくつものわたくしの欠片に月刃様の少し気の抜けたお顔が同じように映っておりました。
「月葉」
「はい」
 何でございましょう。
 わたくしが問いかけを発する前に、月刃様はわたくしの上に大量の血を吐きだしました。
 視界が真っ赤に染まり、月刃様のお姿がよく見えません。
「月刃様、月刃様」
 月刃様がお倒れになった拍子に、わたくしも全身を投げ出され、四方に散りながら赤い炎と焼き焦げていく天井を、あるいは血を吸った薄畳を映す羽目になってしまいました。どこを探しても月刃様のお姿はございません。
 ああ、せめてひとかけらだけでも月刃様のお姿を――
 赤い手が映りました。
 少女のそれと見紛うばかりの華奢な手でございました。
「ここだよ、月葉」
 月刃様は優しく囁かれ、わたくしを口元に寄せたかと思うと、吐息を感じる間もなく首元へと導いたのです。
「おやめください、おやめください! そのようなこと、わたくしは――」
 一つになどなれないと思っておりました。
 まさかこのような形で貴方様の身体に触れることになるとは思いもしませんでした。
 押し出されてくる生温かな血を吸って、わたくしは夢のような甘さに酔っておりました。ばらばらになっていた身体は次第に血が通い繋ぎ合わされていくかのように、手足の先まで温もりを帯びていき、渦巻く炎が発する熱風が長く膝下まで伸びた髪を揺らすのが分かりました。
 わたくしは鏡を持って立っておりました。
 足元には魂の抜けた月刃様の身体が横たわっておりました。
 わたくしは、己の鏡で胸元を確かめました。
 月刃様と同じ着物がはだけた白い胸元にはなだらかな双丘がありました。
 顔立ちは月刃様とうり二つでございましたが、元の男が持つ妖しさはなくなり、ただ清冽に美しいだけの女がそこにおりました。
 わたくしは胸元の襟を掻き合わせ、亡くなった月刃様を一瞥してその部屋を後にしたのでございます。

 さて。
 次は、どこの姫を愛でに参りましょうか。

〈了〉
(201512310008)