縁期暦紀 巻ノ九
花集め ― 天狗 ―
花が咲く。花が枯れる。花が咲く。花が枯れる。時はこれを繰り返す。時が止まった俺には、花が咲く時は来ないのだと思っていた。
城の中庭で鞠をつく綾子を拐かしてきたのは、綾子がまだ七つの頃だった。はじめは城から聞こえてくる手鞠唄に心惹かれた。空から中庭に声の主を認めて降りていくと、小さいながら整った顔立ちと立ち姿の美しい少女がいた。
連れ去って、どうしようかなどと考えてはいなかった。ただこの美しいものを手元に置いておきたいと言う欲求がめらめらと燃え上がり、厄介なことになるぞと警告をする理性を退けて、気がついたときにはこの腕に綾子を抱きかかえて飛翔していた。綾子がぽとりと愛用の鞠を落としてきたことにも気がつかないほど、俺の意識は腕に抱えた存在に持っていかれていた。
勢いで拐ってきてはみたものの、隙間だらけの俺のあばら屋には飯炊きの土間と布団ひとつ敷くくらいがせいぜいの座敷しかついていなかった。座敷とて、畳は黒ずみ、柔らかく足を呑み込むようなものだった。この美しい少女を置いておくには粗末に過ぎる。
が、連れてきてしまったものは仕方ない。俺は少女を座敷の奥に座らせて向かいにあぐらをかき、しばし、泣きもせず正座だけはして俺と向かい合い、ただ茫然としている少女の姿を観察した。
色目も鮮やかな朱色の着物に赤い帯を結び、髪をおかっぱに切り揃えた姿は、まるで市松人形のようだった。横一文字に整えられた前髪が縁取る顔は陶器を焼いたように色白く、こぼれ落ちそうなほどの黒目は不安に満ち溢れてはいるが、くりっとしていて愛らしい。桜色の唇は柔らかく両端を結び、鼻筋はすっきりとしており小さな鼻の頭がつんと生意気そうに上を向いている。頬は大福のように柔らかそうでほの赤い。片手で握りつぶしてしまえそうな細い首は頭と胴を繋ぐにはいささか華奢すぎるかもしれない。
「綾子をどうするつもりですか」
娘が綾子という名だと知ったのも、綾子が俺に向かって口を開いたのもこのときが初めてだった。可憐な見た目にふさわしい透き通った細く玲瓏とした声だった。
この声をもっと聞きたいという思いがわきあがり、俺は口を噤んだままでいる。すると、期待通りに綾子は俺を睨み上げ、少し苛立ちの混じった声で先を続ける。
「綾子を殺すのですか。父に金子を要求するのですか。それとも綾子を辱めるつもりですか」
最後の言葉は思ってもみなかった言葉だったので、俺はいささか前のめりに綾子を凝視した。単に早熟なのか、こんな小さな子供でも殿様の子供となるとある程度のことは教えられているものなのか。
綾子は胸元に手を差し入れると、繻子に包まれた短刀を抜き出し、勢いよく鞘を払った。ぎらりと刀身が鈍い光を放つ。
綾子は躊躇いなく自分の首元に短刀の刃を当てた。
「待て。俺は何もする気はない。ただお前を側に置いておきたかっただけだ」
綾子が本気で自害しようとしているのが伝わってきて、俺は少し慌てたのか、思わず本音が漏れた。
綾子は意味がわからないというように小首を傾げる。
「殺さないのですか?」
「殺さない」
「父に金子を要求しないのですか?」
「貧乏ではあるが、特に金に困っているわけでもない」
「綾子を……」
「指一本触れる気はない」
後でこの言葉を後悔することになるのだが、今はこんな小さな子供にそんな気が起きるわけもなかった。ただお気に入りの人形や置物を側に置いておきたいという子供じみた欲求と同じ思いがあるだけだった。俺の場合、単に選んだものが口を利き、自分の意志で動くことができるというだけだ。
綾子の目に探るような色が浮かぶ。大きな黒目に赤ら顔の鼻の長い天狗の面が映し出されている。両目の穴だけはぽっかりと虚空で、綾子からは俺の眼の色など窺いようもないはずだった。それどころか口も頬も眉もこの天狗の面に覆われているのだ。俺の表情など何一つ綾子には読み取ることはできない。
それでも綾子は決めたようだった。しばし幼い顔は思案に暮れていたが、やがて意を決したようにおもむろに桜色の唇を開いた。
「綾子をここに留め置きたいとおっしゃるのなら、ひとつお願いしたきことがございます。あなたは天狗。類い稀なる神通力で空を飛ぶこともできれば、千里を見通すこともでき、病や気候を操ることも容易いと聞きました」
小さい頭でこの短時間でそれもこの状況で思案した割には、綾子の出してきた交換条件はいかにも一国の姫らしいものだった。
「俺に何をしろって?」
「そのお力で阿波見の国をお守りください。千里を見通し、近隣に流行り病が起これば風を操り病の伝染を防ぐのです。日照り続きの日があれば、雲を呼んで雨を降らせてくださいませ。それができぬと言うのなら、綾子は今ここで自害して果てまする」
人形のような華奢な顔に姫として育てられた矜持が宿っていた。それもまた美しく変化する蝶のように目映く色彩を放つ。
置物としての価値しか見いださないままに拐かしてきたが、綾子は幼いながら俺が見てきたどの女よりも美しかった。
「わかった。約束しよう。阿波見の国に病や飢饉が起こらぬよう、目を配ろう。だからその短刀はもう必要ないな? お前が死んだら、俺はあてつけにお前の国を滅ぼすこともできるんだ。自分の身と引き換えにしても阿波見の国を守りたいんだろう? その身は傷つけぬよう、大切にすることだ」
綾子は神妙な面持ちで頷き、持っていた短刀を俺に寄越した。
「いい子だ。あとは好きにしてろ。飯は一日二回。材料は俺が集めてくるから、料理はお前が作るんだ。いいな?」
綾子は素直に頷いたものの、任せた結果は悲惨だった。なにせ城の奥で手塩にかけて育てられた姫君だ。包丁ひとつ、擂り粉木ひとつ握ったことがないときた。結局その夜は教えながら俺が全部つくった。翌朝の飯炊きも、味噌汁のための水汲みさえも綾子は一人ではできなかった。
これではまるで花嫁修行をさせるために連れてきたようなものだ。おまけに、綾子は包丁で野菜を切れば全てがどこかで繋がったままになり、米を研がせれば半分以上の米粒を米汁と共に流してしまうという有り様だった。どれだけ食材があっても足りはしない。いっそ綾子にはなにもしないでいてもらおうかとも思ったのだが、綾子は子供だからなのか強情で、一度始めたことをやめようとはしなかった。
そうこうしているうちに一月二月たつと綾子は一人で米が研げるようになり、三月も経つと野菜の切り方も大分こなれてきた。
綾子は、朝と夕は飯炊きに追われていたが、家事も手馴れてくると昼間は何もすることがない。縁に座ってぼんやりと軒下から先に広がる青空を見上げている日が増えた。これといって俺に話しかけるわけでもない。俺も特に話しかけることもなく、黙って市で売るための薬草をすりおろしていた。しかし、物思いにふける時間が増えるにつれて綾子の表情は次第に曇り、故郷の城への郷愁に染まることが多くなった。
「寂しいのか?」
俺はある日声をかけてみた。綾子は声に出して返事もしなければ、首を振ることもしなかった。俺の声など届いていないらしい。一抹の寂しさを覚えながら、俺は作った薬丸を持って市へ出かけた。
市では店を構えて人々に直接薬丸を売るわけではない。この天狗の面をかぶっていては、どんなに利く薬を売っていようが一目顔を見ただけで人々は逃げ散っていく。仕方がないから昔からの知り合いの薬問屋二、三件に頼んで、俺の作った薬丸を金に変えてもらっていた。
もらった金子を胸にしまいこんで、市の中を駆け抜ける。ゆっくりしていては人目につきすぎる。だが、その日は一つ目に止まったものがあった。
赤い鞠が売っている。店先にころころと十近くの色とりどりの鞠が転がされていた。
俺の脳裏には、綾子を攫ってきた日、綾子が鞠をついていた姿が甦っていた。
「これをくれ」
俺は得たばかりの金子を一部崩して赤い鞠に変えた。
綾子は喜んでくれるだろうか。俺の持ってきたものなど、触れたくもないと思うだろうか。一目見ただけで顔を背けられてしまうだろうか。
「綾子、綾子」
山の斜面を一息に駆け上がり、俺は家の庭に飛び込んだ。綾子はまだ軒下の縁に座ってぼんやりとしていた。その目が、素早く俺の手に抱えられた赤い鞠に吸い寄せられる。
やっぱり子供なのだ。好きなものへの好奇心は抑えられない。
俺は綾子の前に赤い鞠を差し出した。
「土産だ。城ではよく鞠をついて遊んでいただろう?」
綾子は膝立ちになると、俺の差し出した鞠に触れようと両手を差し出した。が、その手は鞠に触れる前に止まってしまった。
「どうした?」
「この鞠は……綾子のように盗んできたものですか?」
俺は思わずぐっと口を引き結ぶ。
「その顔は、そうなのですね」
綾子はきっと俺のことを睨み上げる。
「違う。薬丸を売った金で市で買ってきた」
綾子に顔を背けられる前に俺は答える。綾子はいぶかしむように俺の顔を見つめていた。
「本当ですか?」
「本当だ。だから今日はいつもよりも懐が寂しい」
つり銭を通した束を見せると、綾子はしばし俺を見つめた後ぷっと吹き出した。大福のような頬がふんわりと緩む。黒目がちの目が三日月をひっくり返したように和らぐ。桜色の小さな唇の端がにっこりと引き上がる。
「ありがとう」
大輪の花が咲き開いたかのようだった。これまでの鬱屈とした想いを振り払うかのように、すがすがしい花の笑顔だった。
綾子は赤い鞠を受け取って庭へ駆け出すと、早速鞠の感触を試しはじめた。
「あんたがたどこさ、ひごさ、ひごどこさ……」
鞠つく姿は規則的な流れの中に躍動感があり、手鞠唄を口ずさむ声は鈴のように澄んで軽やかだ。水を得た魚のような綾子の姿に、俺の胸につかえていたものもゆっくりと融けていく。
それから綾子は毎日昼間は鞠をつくようになった。
「あんたがたどこさ」
いつの間にか俺もその唄を口ずさんでいる。それを聞いては、綾子はおかしそうにくすくすと笑った。俺は天狗の面で顔が隠れているのをいいことに知らない振りをして薬草をすりつぶす。
「その薬は何の薬?」
鞠を与えてから快活さを取り戻してきた綾子は、俺のしていることにも興味が向いてきたようだった。
「腹下しを止める薬だ。蓬をすりおろして作る」
教えてやると、綾子はすぐに庭先に生えていた蓬の葉を摘んできた。
「綾子もやってみたい」
予備のすり鉢と擂り粉木を出してやると、綾子は熱心に蓬をすりつぶしはじめた。
蓬だけではない。繁縷も薺も、人参も、いろんなものを摘んできてはすりおろして遊ぶようになった。その度に俺はこの薬草は何に効く、と教えてやった。
「天狗さんは誰から薬の作り方を教わったのですか?」
天狗さん。綾子が初めて俺のことをそう呼んだ。名前は教えていないから無理もない。天狗の面をかぶり、怪しい術を操り、背中に生えた翼で空を飛ぶ。俺は天狗以外の何者でもない。
「俺を育ててくれた山伏からだ。俺は坊さんと呼んでいた」
子どもの頃の記憶が一つ二つと甦り、くすぐったいような嬉しいような、それでいて最後には悲しい気持ちになった。
「坊さんは今はどちらに?」
「死んだよ。俺が殺した」
綾子はびくりと肩を震わせて後ずさった。怯えた目で俺を見ている。
「腹が減ったな。夕飯の時間だ」
俺が言うと逃げるように綾子は炊事場へと転がっていった。
せっかく近づけたと思ったのに、すぐに台無しになる。上手くいったと思ったのに、裏目に出る。綾子という綺麗な人形を側において置ければそれでいいと思っていた。なのに、くるくると動き回る様を見ていると眺めているだけでは足りなくなる。笑うのだと知ってからは、もっと笑顔を見てみたいと望むようになる。心があるのならば、その心までもほしくなってしまう。
綾子はただの子供だ。くるくるとその心は変わる。表情も膨れたり笑ったり怒ったり泣きべそをかいたり、落ち着かない春の天気のようにめまぐるしく変わっていく。はじめこそ無表情だったのに、赤い鞠を与えてからはここに居場所を見つけたようにのびのびとしはじめていた。親元に帰すことを考えなかったわけじゃない。だが、何度返そうと思っても綾子が笑うと手放すことが惜しくなってしまうのだ。いつしか、俺は綾子の笑顔を記憶に集めることが生きがいとなっていた。
どうしたら綾子の笑顔が見られるのか、俺はそればかり考えるようになっていた。綾子の喜びそうなものを手当たり次第買ってきてみたこともあったが、逆にお金を無駄遣いするなと綾子にたしなめられた。珍しい砂糖菓子を買ってきたときは綾子も喜んでくれたが、そう毎回市に下りていくわけにもいかない。そのうち、綾子は土産は何もいらないと言ってきた。
親元に帰してやることもできない。土産を買ってくることもできない。俺が綾子を喜ばせてやれることといえば、薬草作りの傍ら、庭に咲く小さな花々の名前を教えてやることくらいだった。
綾子は花が好きだった。繁縷も蒲公英も、桜も梅も好きだった。特に好きだったのは薺だった。白い小さな可憐な花がかわいらしかったというのもあるだろう。だが、薺の葉をいくつか折ってでんでん太鼓のように振ってみせると、しゃらしゃらという音に耳を澄まし、けたけたと笑った。三角の三味線の撥のような葉が揺れる様もまた気に入ったらしい。薺がたくさん咲いている原っぱに連れて行ってやると、大はしゃぎで駆け回っていた。
「天狗さん、ちょっと目をつぶって頭を下げて」
薺に蒲公英に蓮華、白詰草。それらが咲きそろう原っぱが綾子のお気に入りだった。何度となくせがまれて連れて行っては、綾子は楽しそうに花冠を編んでいた。今も横に座って蒲公英と白詰草を編みこんだ花冠を一つ作り終えたところだった。
言われたとおり、頭を軽く下げると、綾子はわざわざ下から俺を覗き込んだ。
「ちゃんと目もつぶった?」
「つぶった」
そう答えると、頭の上に何かが載せられた感触がした。
顔をあげて、頭に乗せられたものに手を伸ばす。
「とっちゃだめ」
「綾子、お前何を……花冠?」
綾子の手にはあったはずの花冠がなくなっていた。
「俺に?」
まさか、と思いながら聞いてみると、綾子ははにかみながらこっくりと頷いた。
俺に、花冠。
天狗の面をかぶったこの俺に、花冠。
端から見れば滑稽な絵面だったことだろう。市松人形のような少女と、赤い天狗の面をかぶった俺が花畑で頭に花冠を載せているのだ。想像しただけで頭がおかしくなりそうな光景だ。それでいて、当の本人にとってはこの上ない幸福な時間ときている。
花冠を頭に載せた俺を見て、綾子はくすくすと笑った。綾子が笑うならいいか、と俺は花冠を載せたままにする。
ああ、そうだ。綾子が喜ぶのなら、これから毎日一輪ずつ野の花を贈ろう。野の花ならば、無駄遣いをするなと詰られることもないだろう。
それから俺は、毎朝綾子の枕元に摘んできた野の花を一輪ずつ置いて置くようになった。綾子ははじめこそ枕元に置かれた野の花を不思議そうに見つめていたが、何も聞かずににっこりと微笑み、朝起きると一番に野の花を胸に押し抱くようになった。特に好きな花が置かれていた日は機嫌がいい。薺を置いておくと、ほぼ確実に葉を手折って遊び、遊び終わると家の中で見つけたらしい古びた冊子にはさみこんでいた。
次第に俺は綾子を攫ってきたことも忘れそうになっていた。綾子がここにいるのが当たり前になっていた。初めから綾子はここにいて俺と暮らしていたのだと、都合のいい真実をでっち上げては、それを信じ込もうとするようにさえなっていた。
綾子が阿波見の国の姫だということを思い出したのは、綾子と過ごす三度目の春のことだった。
「お帰りなさい。お薬は売れましたか?」
綾子はいつものように俺のことをあばら家で迎えてくれた。だが、俺はその日は市で仕入れたものを土間に投げ出すと、急いで一本杉のところへと向かった。
薬問屋が漏らした噂によると、隣の加智の国で飛ぶように万能薬が売れているのだとか。在庫が足りなくなって加智の国の薬問屋が阿波見の国の薬問屋まで買い求めに来たそうだ。
一本杉のてっぺんまで駆け上がり、東の加智の国を見渡す。見えたのは道端で高熱に喘いで座り込む貧しい長屋の人々だった。富裕層でもそれは変わらない。寝込む場所が家の中になったというだけだ。道端に転がった死体にはすでに犬や鴉が肉をついばみに来ていた。加智の国だけではない。加智の国に接した阿波見の国の東端でも病は蔓延しはじめていた。
「天狗さーん、どうなさいましたー?」
綾子はこんなところまでついてきていたらしい。家からそれほどはなれていないとはいえ、随分足が速くなったものだ。
「加智の国で流行り病が蔓延している。阿波見の国にも少しばかり入り込んでいる」
杉の木を降りた俺が言うと、綾子ははっと顔をあげた。
「天狗さん、約束を覚えていますか?」
約束?
尋ね返しそうになった言葉を呑みこんだ。
「そうだったな。綾子はそのためにここにいるんだったな」
近隣に流行り病が起こったら、風を操って病の伝染を防いでほしいと、確かに綾子は攫われてきた時にそう言った。
綾子はちゃんと自分が俺に攫われてきたことを覚えていたのだ。
俺は忘れようとしていたというのに。
「そういえばお前は逃げないな。俺がいない間、いくらでもあのあばら家から逃げ出す機会はあっただろうに」
「綾子は逃げません。綾子が逃げたら、天狗さんに阿波見の国を守ってもらえなくなりますから」
綾子はしばらく見せなかった一国の姫らしい威厳を纏って俺を見上げた。改めて俺は綾子が姫という高貴な血筋を持っていることを思い出す。ただ顔のつくりや姿が美しいだけじゃない。そんな血筋のよさも綾子の美しさを形作っているのだ。
俺は溜息をついた。俺の幻想や望みなど、綾子の前ではくだらない欠片に過ぎない。
「来るか、綾子?」
俺が手を差し伸べると、綾子はちょっと小首をかしげ、すぐに意味がわかったらしく俺の腕に飛び込んできた。
俺は綾子を抱えてもう一度杉の木の上に立った。
「加智の国はあっちだ」
森の向こうを指差すと、綾子は首をめぐらせてほうっと息を一つついた。
「綾子には森しか見えません。天狗さんはあの向こうに加智の国が見えるのですね」
「見える」
俺は片手に八手の葉を大きくした団扇を構え、加智の国に向かって大きく一振りした。ごうっと音をたてて見えない風が森を駆け抜けていく。その風が加智の国を抜けて海へと渡っていったのを見届けて、俺は団扇をしまう。
「たった一振りだけですか?」
「病を払うなら、一振りだけで充分だ」
「本当にこれでもう阿波見の国は大丈夫なのですね?」
「俺が信じられないか?」
綾子は驚いたように俺を見上げた。信じたい。でも信じていいのか。迷っている顔だった。
俺は綾子を抱いたまま杉の木を蹴って翼を広げた。風に乗って阿波見の国を渡り、加智の国との境の村へと向かう。
その村では突風に天変地異でも感じたのか、人々が外に出て空を見上げていた。さっき病に道端に倒れていた人々も、高熱にうなされていたのが嘘のように起き上がり空を見上げている。
雲ひとつない空の下、生ける者も死した者も、犬も鴉も時を止めて何が起きたのか懸命に察しようとしていた。
「貴方は、本当に神通力をお持ちなのですね」
病を祓うは神にも通じる力。隣の国まで一つ羽ばたけば辿りつけるこの翼もまた人にあらざる者が持つもの。
「その力で、国を手に入れようと思ったことはないのですか?」
綾子の言葉は俺が考えもしないものだった。
「国を? 綾子一人の心もままならないのに?」
思わず俺は笑い出した。
国など、誰が望もう。国を、そこにいる人々を従わせたいと思ったことなど一度もない。強いて言うなら、滅ぼしたいと思ったことはあるかもしれない。だが、今はそうしなくてよかったと思う。感情のままに阿波見の国を滅ぼしていたら、俺は綾子に出逢うこともなかった。
その日の夕餉は、おかずが一品多かった。綾子なりの感謝の表し方だったのだろう。俺はありがたく、綾子の覚えたての漬物に箸をつけた。
それからしばらくはまた流行り病も飢饉もない年が続いた。あったと言えば、一度日照りが続いた年もあったが、すぐに雲を呼んで雨を降らせ、飢饉には至らなかった。それを除けば、今までにないほど平穏な日々だった。成長期を迎えた綾子はどんどん大きくなっていく。すくすくと背が伸びるものだから、市に行くたびに女物の反物を買ってくる羽目になる。それを綾子は自分の手で着物に仕立てる。顔立ちからも幼さが抜け、ぽっちゃりと大福のようだった頬も柔らかさはそのままに引き締まっていった。髪も腰ほどまでに伸び、市松人形のようだった愛らしさは、今は舞姫のようなたおやかさに変わっていた。あどけなさが抜けた分、より美しさに磨きがかかったのではないだろうか。時折、このあばら家の中で綾子の周りだけが別の世界のように感じることがある。それでも、綾子は俺にとってはまだ子供の域から出てはいなかった。
ぽかぽか陽気に誘われて縁に寝そべり転寝をしていたのは、ようやく厳しい寒さだった冬が行き、春らしい日差しに植物達の芽ばえの匂いが風に混ざりはじめた頃だった。近くに俺の着物を縫う綾子の気配を感じながら、俺はうとうとと気持ちよくこの世と眠りの世界とを行き来していた。だから気がつかなかった。綾子が着物を縫いながらも何度も俺のことを盗み見ていたことなど。迷った末に、俺の天狗の面に手をかけたことなど。
悲鳴を押し殺すような、息を呑む音を聞いて俺は目を覚ました。
綾子は俺の顔を覗き込んだまま、黒目がちの目を大きく見開いていた。その顔がやけに明るく見える。春の明るい日差しのせいではない。いつもは面の下から穴を通して見ていた顔だったというのに、今は面の影も視界を遮る穴も見えなかった。
綾子の目には、俺でさえ滅多に目にすることのない俺の素顔が映っていた。
慌てて俺は綾子に背を向け、袖で自分の顔を隠す。
「面を返せ」
片手を綾子の方に伸ばすが、一向に取った天狗の面を返す気配はない。
「綾子!」
ついには叱りつけてみたが、綾子は動じた風もない。
「なぜ、天狗のお面などつけているのです?」
「なぜ? 見ればわかるだろう。こんな顔をしているからだ!」
「綾子と同じ、人のお顔ではございませんか」
おそるおそる振り返ると、綾子はきょとんとした顔で俺を見下ろしていた。
俺は跳ね起き、綾子の手から天狗の面を奪い取る。
「この顔がお前と同じ人の顔だと?」
綾子の目には明らかに洞となった俺の右目が映っていた。
改めて正面から俺の顔を見せつけられた綾子は、上げそうになった悲鳴を手で口元を覆って呑みこむ。
「ほら見ろ。恐いだろう」
「いいえ! いいえ、天狗のお面をかぶっている貴方よりは怖くありません」
俺から天狗の面を引き剥がしてしまった綾子は、罪悪感からか必死だった。
「無理をするな。手が震えている。人は自分の理解を超えるものに出会えば、必ず臆病になる。今まで出会った奴らはみんなそうだった」
「これは……違います。恐れているわけではありません」
ぎゅっと震える手を別の手で握り締めて、綾子は挑むように俺を見つめてきた。そして、俺が天狗の面をつけようとすると、俺の手を握って止めさせた。
「綾子」
困ったように見ても、いつもは聞き分けのよい綾子は首を振るだけだった。
俺は溜息をつく。
「小さい頃から鼻が高いことを指差して天狗と呼ばれていた。この面と変わらないだろう? 髪は金色、目は藍玉。肌は寒さも熱さもすぐに赤く現れる白蝋色。薄気味悪いと近所の奴らはみんな俺のことを遠巻きにしていた」
「お父さまとお母さまは? お父さまとお母さまは守ってくださらなかったのですか?」
「村八分にされて、飢饉でも食べ物を分けてはもらえないような家だった。親父は生まれる前からいなかった。どうやらお袋に手を出したことが知られて村から追い出されたらしい。おふくろは俺が三歳の時に飢えて死んだ。俺は村人達に山に追いやられて、山で修行している坊さんに拾われた」
「薬の作り方を教えてくださった方ですね」
「そうだ。坊さんからは仏教のこと、山を駆ける走法、食べられる草のことを教わった。だが、山に食べられる草も何も生えない年があった。夏になっても寒くて霰が降るほどだった。俺と坊さんは腹が減って腹が減って……坊さんはついに、山に住む鹿を罠を掛けて殺して俺に食わせてくれた。坊さんも鹿の肉を食べた。泣きながら食べているうちに、すすり泣く声は唸り声となり、顔は真っ赤に晴れ上がり、目は血走り、鼻は長く伸び、背からは僧服を破って翼が生えた。がしゃんと杖の石突を岩に一突きして、坊さんは立ち上がり、よだれのこぼれた顔で俺を見下ろした。殺されると思った。このままじゃ俺が坊さんに殺されて喰われるって。案の定、坊さんは錫杖を振り上げると俺に向かって振り下ろした。この目はその時に潰されたものだ」
「痛かったでしょう」
話を聞いただけなのに、綾子はもう泣き出しそうだった。
「痛かった。だが、分かっていたのに避け切れなかったのが悔しかった。信じてたんだ。最後の最後で、きっと止めてくれるって。でも、坊さんは止めてくれなかった。とっさに身をよじったから片目だけで済んだんだ。そうでなきゃ、今頃頭をかち割られて死んでいた」
「かわいそう」
綾子はうっすらと蕾が膨らみはじめた胸に俺の頭を抱き寄せた。子供の乳臭い匂いがする。母親の乳と日向のお日さんの、目が眩みそうなほど安らかで穏やかな匂い。思わず目を閉じれば、死んだおふくろが微笑みかけてきそうだった。
「離せ」
「いや。天狗さんが死ななくてよかった」
「馬鹿だな。俺は綾子を攫ったんだぞ? 親から引き離したんだぞ? ただ……手元に置いておきたい衝動に駆られて。迷惑だろ。こんな奴に心なんか分けてやる必要、ないんだよ」
「天狗さんは綺麗です。この髪も、片方しかない青い目も、血の気が赤く透けて見える白い肌も、この高い大きな鼻も、天狗さんはとても綺麗」
なんでこんな子供に慰められてんだよ。なんでこんな子供の言葉に、初めて自分の居場所見つけたような安心感抱いてんだよ。馬鹿だろう、俺。
俺は綾子の細い腰に腕を回して、背中の着物を両手に握りしめた。ぼろぼろと零れだす涙は綾子の着物に押しつけた。
「綾子。……天狗さんじゃない、ハリス。ハリスって言うんだ」
「ハリス? 外国の人だったの?」
「父親がそうだったらしい。海を越えてやってきたキリスト教の宣教師だったと村の奴らが噂してた。おふくろは望んで俺のことをを生んだわけじゃなかったらしい。だから俺が父親にそっくりだと言っては泣いて俺のことを……」
「ぶったの?」
綾子には子どもの頃の俺が見えているかのようだった。
「どこ? 頭? お腹? 背中? 腕? ほっぺた?」
綾子は順番に手を当てていき、最後に俺の頬を両手で包み込んで顔を寄せた。綾子の真ん丸い黒目が気遣うように俺を覗き込む。
「怖くなんかありません。ハリスには綾子がずっと側におります。ハリスが喜ぶなら、綾子はいくらでも笑うから、だから、ハリスもお面なんかかぶらないで綾子に笑顔を見せて」
俺は綾子を攫ってよかったのだろうか。こんな年端もいかない子供の言葉に救われて、天にも昇る気持ちを味わうことになるなんて、あの時誰が想像しただろう。
「綾子、家に帰りたいか?」
綾子は首を懸命に横に振った。
「でも寂しいだろう? 綾子はどこからどう見ても城の奥で大切に育てられたお姫さんだ。こんな何もないところに連れてこられて、さぞかし怖かっただろう?」
「はじめは。でも、ハリスが鞠を持ってきてくれた。毎朝一輪ずつ綺麗なお花を届けてくれた。綾子、ちゃんと全部取ってあるのよ。押し花にして紙にはさんでとってあるの。待ってて、今持ってくるから」
綾子はするりと俺の腕を離れて座敷へと上がっていった。
俺は空になった両の腕の空間をまじまじと見つめる。この腕の中にいた綾子は、大分大きくなったとはいえまだとても小さくて、少しでも力を入れれば抱き潰してしまいそうだった。仮面の小さな覗き穴から見る綾子の姿はどこか翳りを帯びていたが、今、日の下で見た綾子は子供ながら凛として美しく、育ちのよさから気品さえも漂い出ており、俺に向ける目は慈愛の聖母のようだった。
「ハリス!」
とたとたと軽い足音を立てて綾子が古びた冊子を手に座敷から戻ってくる。
「ほら、見て。ちゃんととってあるでしょう? はじめてもらった蓮華も、菫も白詰草も連翹も、桜も桃も山吹も芝桜も、牡丹も芍薬も春紫苑も蒲公英も。今朝もらった薺の花だって、ちゃんととってあるのよ」
ぱらぱらとめくると、多少色褪せてしまってはいるが懐かしい花々が、確かにそこに一つ一つ残されていた。
俺はどんな顔をして綾子のことを見ればいいのか分からなかった。ただ、早く城に返してやらなければと、そればかりを思った。ここにいても、綾子の美しさを愛でるのが俺だけでは綾子があまりに憐れだ。城にいればそろそろ嫁に出されてもおかしくはない歳。いつまでもこんなところにいていいわけがない。
その夜、俺は初めて綾子に嘘をついた。
「綾子、お前のお袋さんが病に倒れたらしい」
綾子は蝋燭の灯火一つでもそれと分かるほど顔色を変えた。
「連れてってやるよ、城に」
立ち上がった俺が手を差し伸べると、綾子は泣きそうになるのを堪えながら首を振った。
「綾子は帰りません。綾子が帰ったら、貴方は阿波見の国を守ってくださらなくなる」
「そんなことは……」
「それに! それに、綾子はハリスのことを一人にはできません」
確固たる意思の宿った目で訴えかけられると、俺の意思の方が鈍りそうになる。今すぐにでもまた抱きしめたくなってしまう。指一本触れやしないと約束をしたのに、これ以上約束は破れない。
「おふくろさんに会わせてやるのは一時だけだ。一目会わせてやったら、すぐにまたここに連れ帰る」
「本当? 約束してくれる?」
「ああ、約束する。だから、早くしろ」
綾子は俺の手を掴んだ。俺は綾子を抱きかかえ、星の綺麗な空へと羽ばたいた。
月の光が煌々と照らしつけ、俺と綾子の影を地上に落とす。城に忍び込むにはあまりに条件の悪い夜だった。それでも俺は人目につかない場所を選んで、綾子を初めて見た城の奥庭に降り立った。
綾子は六年ぶりに見る生まれた場所を感慨深げに見回していた。
「ここで待っていてくださいませね」
心を固めると、綾子は俺にそう言いおいて中へと駆け込んでいく。もちろん、見つからないように足音は忍ばせている。
俺は綾子が母親の部屋に入っていったのを見届けて城を離れた。抱えるものを失った手は、やけに寂しい。だが、これでよかったのだと自分に言い聞かせる。俺にとっては夢のような時間だったのだ。夢は覚めなければならない。いつまでも眠っていることはできないのだから。たとえ目覚めた現実が味気ないものであっても、この六年間充分に俺は幸せだったのだ。この先どれだけ生きることになるのか、見当も付かないが、もう二度とこんな夢を見られることはあるまい。
一気に駆け抜けて戻ったあばら家は、真っ暗でうすら寂しい場所になっていた。
それからしばらくは、俺は綾子の枕元に花を置いていた頃の癖が抜けなくて、早朝に目が覚めた。隣に綾子の寝顔がないことを確認しては溜息をつく。
手放したのは自分なのだ。これでよかったのだ。
何度言い聞かせようとも、俺の心は城にいる綾子を迎えに行きたいと翼を羽ばたかせようとする。あまりにも聞き分けのない心に根負けをする形で、俺は寝床の中で阿波見の城に目を飛ばした。綾子の穏やかな寝顔を見られればそれで満足して自分もまた眠りにつけるだろうと考えたのだ。
だが、城のどこにも綾子の姿はなかった。それどころか城は物々しい雰囲気に包まれ、明るく燃える篝火の中で兵達が鎧の音も高らかに城の中を走り回っていた。
まるで戦争でも始まらん勢いだ。
俺は衛士達のやり取りに耳を澄ます。
「綾子様はいたか?」
「いや。だが、綾子様でなくても逃げ出したくはなるだろう。六年も神隠しに遭われていたというのに、せっかく帰されてきてみれば、一月もしないうちに輿入れさせられるだなどと」
「それも正妻とはいえ加智の国の後家だろう? 殿様とは四十も年が離れているというじゃないか。側女だけでも二十人はいるというのに、ひどい話じゃないか。あんなにお美しいのにかわいそうにもほどがある」
「だがなぁ、あの美しさだからなぁ。神隠しに遭っていた間、何もなかったと、お前思うか?」
「なっ、滅多なことを言うもんじゃない」
「俺だけじゃないよ。一番疑っているのはうちの殿様だ。何かが分かってしまう前に、早めに嫁に出してしまいたかったんじゃないか?」
冗談じゃない。
俺がその場にいたならそう叫んでいたことだろう。
事実、俺は一人あばら家で叫んでいた。
「冗談じゃない!」
怒りに体がうち震える。
指一本とて触れないと誓ったのだ。やましい気持ちで綾子の身体に触れたことなど一度もない。
綾子。
綾子はどこだ。
俺は家を飛び出した。
月明かりが煌々とさしていた。青白く浮かび上がる山の木々の間を抜けて、一本杉を駆け上がる。ざっと一望すると、いつもなら夜闇に馴染んでいる遠くの城が今夜は篝火を纏って明るく輝いていた。その分町や里は月明かりがあるというのに真っ暗に沈んで見える。ちらちらと城の周りを行きかっているのは衛兵達だ。
俺は城からこの山までの道のりを目を皿にして探し回った。綾子は帰ってくるつもりだ。この山を目指しているはずだ。自惚れだと律する自分はいなかった。ただ、あの城からこの山の上まで来るのは、この夜闇の中綾子の足ではとても無理だ。どこかで倒れて野良犬たちの餌食にされていなければいい。そればかりを心配して目を山の麓に差し向けた時、山の入り口からさほど入っていない杉の木の下に倒れている綾子の姿を見つけた。
杉の木を蹴って空を翔る。
「綾子! 綾子!」
ぐったりと目を閉じている綾子は、美しい黒髪もほつれ、一月もたっていないのに頬はこけ、手足は今にも折れてしまいそうなほどがりがりになってしまっていた。足には草履が片方引っかかっているだけ。桃色の着物は裾に泥がついてめくれ上がっていた。
「ハリス……?」
相変わらず手足に力はこもらないが、うっすらと綾子は目を開けた。
「そうだ、俺だ!」
「ここまで来れば、きっと見つけてくれると思ってた」
安心したように綾子は微笑む。手足には力が戻ってくる。
「綾子」
「ハリス、お母様は元気だったわ。だから綾子は戻ってきたのです」
「加智の国への嫁入りが決まったと聞いた。綾子のなすべきことはここにいて天狗の助力で阿波見の国を守ることじゃない。加智の国に嫁ぎ、両国の関係を安定したものに……」
「ハリスはそれでよいのですか!? ハリスは綾子がいなくても寂しくはなかったのですか? 綾子は寂しかった。朝起きても誰も枕元に花を置いておいてはくれないのです。ご飯の支度をしなくても、勝手に決められた献立でご飯が出てくるのです。綾子は自分で漬けた漬物が食べたいのに。ハリスの喜ぶ顔を見ながらご飯が食べたいのに、城では一人で御膳とにらめっこしながら食べなければならないのです。着物だって、ハリスが買ってきてくれた反物で作った赤い牡丹の振袖を着たいのです。綾子は、嫌です。ハリス以外の人の元になど嫁ぎたくありません!」
胸に飛び込んできた綾子を、俺はどうしていいか分からなかった。いや、真っ白になった頭の中で唯一つ、抱きしめたいという思いだけが強く浮かび上がっていた。
「だめだ。城に帰るんだ、綾子。六年前、お前を攫ってきた俺が悪かった。本当にすまない。綾子の心まで捕らえるつもりはなかったんだ」
「嘘つき! 綾子の心がほしいとずっと言っていたくせに! ハリスは嘘つきです。城でも、待っていると言ったのに待っていてはくれなかった。お母様はすごく元気でいらした。ハリスは嘘つきです。だからもう、貴方の言葉など信じません」
綾子を抱きしめようとした腕を最大限の力で引き戻し、そのかわり綾子の肩を後ろに押しやって綾子の身体を引き離す。
「飽きたんだ。もう綾子のことは飽きたんだ。西の津留の国にお前よりも美しい女を見つけた。今度はその女を攫ってこようと思っている」
さすがの綾子も一瞬鼻白んだが、すぐに頬を紅潮させて俺に殴りかかってきた。
「信じません。そのような今拵えたかのような戯言、誰が……」
綾子の大きな目からはついにぼろぼろと涙がこぼれ落ちていた。
「本当にもう、綾子のことは必要ないのですか?」
手を止めて、綾子は俺を見つめた。
必要ないと。せめて、「そうだ」と言えれば綾子は大人しく俺の嘘を信じ、城に帰っただろう。だが、俺は綾子の泣き顔にこれ以上耐えきれなかった。
桜色の唇は涙に濡れてしょっぱかった。
「ほら、やっぱりハリスの言葉は嘘なのです」
「綾子をここに連れてきたとき、指一本触れないと約束したな。破っても、いいか?」
「もう破っているでしょう? そのかわり、もう一度約束してくださいませ。もう二度と綾子のことを離さないと、誓ってくださいませ」
「誓う。もう二度と綾子のことを離さない。だから、俺の妻になれ」
綾子はにっこりと微笑んだ。
「ほら、やっぱり綾子が必要ではありませんか」
その夜は、本当に夢を見ているようだった。腕の中の綾子が消えてしまうのではないかと目が覚める度に確認しては、綾子が起きてしまうのも構わず胸に抱きしめた。綾子も同じだった。
「離さないで下さいましね」
そう囁いては俺の胸に頬を寄せた。
明け方、俺は一輪の花を摘んできた。綾子の大好きな薺だった。それを綾子の枕元に置いた時、外で物々しい足音が聞こえた。
鬨の声とともに家に数多の矢が突き刺さる音がした。間もなく、隙間だらけの壁から炎の舌がべろりと内側を舐めた。
「綾子、起きろ!」
揺さぶると綾子は目をこすりながら身体を起こした。が、すぐに家の中が異様に明るいことに気がついた。外から聞こえる男達の声に身を硬くする。
「見つかったか」
「綾子がここに戻ってきたから……」
「綾子のせいじゃない。綾子をここに連れてきたのは俺だ。綾子」
「はい」
「俺と一緒に来るか?」
「はい」
嬉しそうに微笑んだ綾子を俺は抱き上げ、翼を広げ、床を蹴って天井を打ち破る。想像していたこととはいえ、飛び交う矢が二本、肩と背に突き刺さった。
「ハリス!」
綾子が悲鳴を上げる。
「大丈夫だ」
綾子に矢が当たらぬようより深く抱きしめて、俺はさらに空高く舞い上がる。
「おい、いたぞ! 綾子様だ!」
「天狗もいるぞ!」
「放て! 撃ち落せ!」
「綾子様には当てるな!」
怒号が飛び交う中、目標を見出した兵達の矢は一本、二本と俺の身体を貫いていく。さすがの俺も目眩がして高度を落とす。その隙にさらに次の矢が翼を射抜く。
「くっ……そ……」
俺は片手に八手の団扇を取り出した。これで風を起こし、矢も兵達も一払いしてくれる。そう思った時だった。
「お兄様」
腕の中の綾子が呟いたのだ。綾子の視線の先にいたのは二十五、六の鎧を纏った男だった。
綾子の兄諸共あの小ざかしい兵士達を吹き飛ばしてもいいのか?
一瞬の迷いが命取りになった。
綾子の兄が放った矢が、綾子を抱える俺の腕に深く突き刺さった。
「ぐっ」
思わず綾子の身体を取り落としそうになって、慌てて急降下して綾子を抱きしめなおす。だがそれも束の間、高度を下げた分、俺は遠慮なく放たれる矢の格好の的になった。次々と突き刺さる矢の痛みに、綾子を抱きしめたまま俺の身体はくるくると円を描きながら落ちていく。地に落ちる衝撃だけは綾子に与えまいと、背から落ちる。
「ハリス! ハリス!」
俺は綾子を矢面から庇うために兵士達に背を向け、折れた翼で綾子を両側から覆いこんだ。
「綾子の側にいてくださいませ。綾子の側なら、城の者たちもこれ以上矢を射かけられはしないはず」
綾子は自ら盾になろうと俺の腕から抜け出そうとする。
「行くな、綾子。俺にこれ以上約束を破らせるな」
離さないと約束した。もう、二度と離さないと約束した。
「お前が綾子を拐した天狗か」
綾子の兄が俺の背中に向かって大音声を投げつけた。刺さった矢羽がびりびりと震え、傷を抉る。
思わず俺は綾子を抱きしめた。
「二十五年ほど前、この山の麓には隠れキリシタンの里があった。そこには日本で暮らす外国人のためにという名目で南蛮の宣教師がやってきていた。里には熱心な信者の娘がいて、のちにその娘は宣教師の子供を産んだ。それがお前だ。そうだろう? 似非天狗」
知らない。そう言えたらどんなに良かったことか。
「南蛮人と隠れキリシタンの不義の子供が、どうやって神通力を得たかは知らないが、お前が生まれてからこの二十三年間、飢饉に流行り病、果ては城の姫の神隠し。我が阿波見の国はお前が生まれてからというもの、平穏を乱されつづけている」
「違うわ、兄上! ハリスは阿波見の国を守ってくれていたのよ? 隣りの加智の国で病が流行っていた時も、風を一吹きして阿波見の国を守ってくれたわ。日照りが続いた二年前には雨雲を呼んで阿波見の国を潤してくれたわ。全て綾子は見ておりました!」
「綾子、この男が何をしたかは関係ない。阿波見の国に天狗がいるということ事態が、この国の凶事なのだ」
「そんな……! そんな、そんな……! ハリスは何も悪くございません。ハリスは何も……」
「死ね、似非天狗」
綾子の懇願も虚しく、綾子の兄は俺に刀を突きたてようと大きく振りかぶったようだった。
「俺は、やっぱり嘘つきだな」
俺は綾子を腕の中から突き放した。直後、綾子の兄の刀が背中から胸へと貫通した。
それからどれほどの月日が過ぎたのか。寒さに身震いすると、冷たい雪が頬を滑り落ちていった。枯葉の上には雪が降り積もり、しかしは真っ白に染まっている。のろのろと身体を起こすと、目の前には黒く焼け崩れた家の残骸があり、葉をなくした木々と厳しい寒さの中直立する杉の木立とが見えた。鳥の鳴き声一つ聞こえない山の中はいやに静かで、墓の中にいるのと変わりない息苦しさを覚えた。
俺は刺されたはずの胸と背中の傷を確かめた。だが、指先に引っかかる傷跡は何もない。数多の矢を受けていたはずだが、腕にも足にも矢傷は残っていなかった。
夢だったのだろうか。
綾子を取り戻したことも、いや、綾子を城から攫ってきたことさえ夢だったのだろうか。綾子の存在さえも、俺の描いた幻だったのだろうか。
いや、そんなはずはない。そんなはずは。
俺は周りの雪を掻いてみた。雪の中からは湿った枯葉に混ざって幾つもの矢が現れた。
「ほら、夢じゃない」
家が焼けて崩れているのだって、あの晩の火矢のせいだ。
じゃあ、俺は何故死んでいない?
あの時、確かに心の臓を貫かれたと思った。吹き出す血の多さに敢え無く大地に頬をつき、そのまま起き上がることができずに事切れたものだと思っていた。
最期に見た綾子の悲愴な顔が目裏に焼きついていた。
「ああ、あんな顔をさせちまって。ごめんな」
ここで一人ごちたところで声が綾子に聞こえるわけもない。綾子は無事だろうか。あの後、お前の兄はお前にひどいことはしなかっただろうか。
ふらふらと俺は立ち上がり、周りを見渡した。翼が使えることが分かると、一本杉のところまで駆けていった。
季節は春からすっかり冬になってしまっていた。里も町も降り落ちた白い雪に覆われている。人々の声も活気は無く、寒さのために口が閉ざされがちになっている。もしかしたら季節は一巡りどころかもっとしてしまっているかもしれない。だとしたらもう綾子は生きていないかもしれない。
絶望に駆られそうになった時だった。
城の方から赤子の泣く声が響き渡った。今まさに母親の腹から出てきたばかりの赤子の声に違いなかった。
俺は声のした場所に目を凝らす。そこは城の奥も奥、殿様の妻子が過ごすところよりも離れて、半分地下に埋もれた座敷牢があった。中には元気よく泣く赤ん坊と、赤い着物に包まれたまま気を失っている女の姿があった。
「綾子……? 綾子!」
俺は一本杉を蹴り、冬の寒空に飛び出した。途中、小川の土手の雪の溶けたところから顔を出す薺に気づいて一本摘み取り、城の座敷牢の中に忍び込む。
「綾子! しっかりしろ、綾子!」
泣き喚く赤ん坊はまだへその緒がついたままだった。そのへその緒を断ち切り、乾いた布で血を拭き取り、側にあった産着に包んで綾子の前に差し出す。
「綾子、目を覚ませ、綾子!」
ようやくうっすらと綾子は目を開けた。
一体何年が過ぎてしまったのだろう。綾子が子を産む年になっているなんて。
「お前の赤ん坊だ、綾子!」
やつれた綾子は眩しそうに赤ん坊を見つめた。
「髪が金色ね。ハリスと同じ金の色」
その言葉に、俺は思わず赤ん坊を取り落としそうになった。赤ん坊の頭をよく見れば、坊主だと思っていたものが実は金色の髪のために目立たなかっただけだと気づく。
「ハリス、やっぱり生きていたのね」
おずおずと伸ばされる綾子の手を握ると、生きているとは思えないほど冷たかった。
「遅くなってすまなかった。俺も一度は死んだと思ったんだが、なぜか目が覚めたら辺り一面が雪景色で。ああ、でも綾子の喜ぶ花を見つけてきたよ。ほら、薺の花だ」
薺の花を一輪綾子の手に握らせると、綾子は嬉しそうに目を細め、くるくると花を回した。
「天狗は死なないって聞いたことがあるわ。輪廻の道から外れているから、ずっとずっと永く生きつづけるって」
俺は、死なないのか……?
そういえば坊さんも言っていたことがある。天狗は人の道から外れた者。人の輪廻の輪に還ることはできず、何者も救済することのできない存在なのだと。神に通じる力を得るとはそういうことなのだと、坊さんは言っていた。
綾子がいなくなってしまったら、俺はこの先ずっと一人なのか? 綾子と出会う前は一人でも寂しいなどと思わなかった。怖いなど、辛いなどとは思わなかった。それが普通のことだったから。でも今はだめだ。綾子がいない世界など考えられない。
「綾子、山に帰ろう」
「ええ、帰りましょう。帰って三人で暮らしましょう」
嬉しそうに微笑んでみせているのに、綾子からはどんどん生きている気配が失われていた。綾子の周りはすでに血溜りが出来上がり、布団のみならず畳をも血が赤く侵食している。こんな時、血止めの薬を持っていれば重宝しただろうに、あいにく俺が持ってきたものは道端で摘んだ薺だけだった。
「ハリス、その子のことお願いね。いつか、綾子もまた二人に会いに行くから、その時は、三人で暮らしましょうね。花を摘んで薬を売って、鞠をついて、たまにはあの一本杉にも連れて行ってくださいましね」
「縁起でもないことを言うな。その夢は今生叶えるものだ。来世など……」
「赤ちゃん、この薺をあげるわね」
綾子はうわ言のように言って、赤ん坊の前に俺のあげたばかりの薺を差し出した。何も知らずに赤ん坊は差し出された薺を握りしめる。
「お母さんから、最初で最後の贈り物、よ……」
綾子の腕から力が抜け落ちる。
「綾子! 綾子! 綾子!」
あとはもう、どんなに呼んでも身体をゆすっても綾子は目を開けなかった。かわりに、俺と赤ん坊の声を聞きつけた衛士たちがどやどやと騒ぎながら近づいてくる。
俺は綾子の身体を背中に負うと、赤ん坊を抱えて外に出た。今度は矢に当たるようなへまはしなかった。一息に空を駆け抜け、なじみのあばら家のあった山も飛び越え、もっと遠く、誰も俺たちのことを知らない場所へと向かった。
「ととさまー、ぺんぺんぐさー」
三歳になった息子の至は、雑草の生い茂る原っぱの中に目ざとく薺を見つけると、手折って耳元でしゃらしゃらと鳴る葉の音を楽しんだ。
世間は幕府が倒れ、維新だなんだと騒がしいらしいが、この山の上では幕府も政府も関係がなかった。至が熱を出したり吐いたりさえしなければ、まずまず平穏な日々だ。
「至、そんなにぺんぺん草ばっかり摘んでどうするんだ」
「かかさまのお墓にあげるのー。かかさまはぺんぺんぐさがだいすきだったから、お側でしゃらしゃらーってしてあげるのー」
至は俺と綾子の子にしては多少のんびりしているところがあったが、鈍いわけではない。昔住んでいたあばら家の焼け跡から綾子の押し花の冊子を見つけてからは、毎日自分で摘んできた花をその冊子に集めるようになった。中でも薺は特にお気に入りで、二日にいっぺんは薺が押しはさまれている。
「かかさまが至にその花をあげた時のことを覚えているのか?」
冗談で尋ねたつもりだったのに、至はこくんと頷く。
「かかさま、まだこないねー。三人でくらすってやくそくしたのにねー」
生まれて間もなかったはずなのに、俺は至の言葉にどきりとさせられる。
「でも、ととさまもかかさまのことずっと待たせたんだから、こんどはととさまが待つ番だよねー」
時々、至は綾子の腹の中にいた時のことを語りだす。綾子が座敷牢から見た綺麗な瑠璃色の鳥の話だとか、毎晩俺が枕元に花を置いていた話だとか、その花を押し花にした冊子があることだとか。驚くほどその記憶は鮮明で、普通だったら薄気味悪く感じたことだろう。だが、俺にとっては俺の知らない綾子を教えてくれる大切な存在だった。
綾子の墓石の側で薺をくるくる回している至は見るからに無邪気で、天狗である俺の血を引いているとは到底思えない。だが、俺と同じ金色の髪も藍玉の瞳も背中から生えた翼も、この国にはない異形のものだった。できることなら至にはずっとここにいてほしい。山の外に出たら、きっとその姿を理由に傷つけられることだろう。せっかく純粋に生まれついたのに、傷ついていく姿を見せられるのは親としてやるせない。
「あ、ととさまー、かかさまがきたみたいー」
ふと、綾子の墓の前で薺で遊んでいた至が顔をあげて立ち上がった。
「綾子が、来た?」
「うん。山の入り口に、女の赤ちゃんが捨てられていったのー。迎えにいこー」
至の奴、千里眼まで持っているとは。
至はもう空に飛び上がっている。
「ととさまー、なずな、忘れちゃだめだよー」
「分かってるよ」
俺は薺を一本摘み取り、大地を蹴ると、よろよろと飛んでいた至を小脇に抱え、山の入り口まで降りていった。
果たして、至の言うとおり、そこには篭に入れられた赤ん坊が泣きもせず、すやすやと寝息を立てていた。
「かかさまー、なずなー、あげるー」
至は赤ん坊の頭の側に持っていた薺を一本添えた。
不意に赤ん坊が目を覚ます。俺を見て、小さな小さな手を伸ばす。俺はその手に摘んだばかりの薺を握らせてやった。
赤ん坊はにっこりと微笑んだ。
俺はその赤ん坊を、薺と名づけた。
〈了〉
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