twende
清水 菜穂子
1 動機
トゥエンデの活動に関わってから5、6年が経つ。ある程度の量の古着や文具が集まり、送料が貯まっ
たら送る、という事を年に数回行っている。送料を賄うためのフリーマーケット、正月明けのカレンダー発 送、お話し会、料理講習会もある。フリマは、お客さんとの会話にかけ引き的な要素があり、結構楽しん でいる。全ての活動に参加できているわけではないが、動ける時にやれる範囲で、細々と関わりを持ち 続けてきた。
日本からの物資の輸送は、送料が安いので船便を利用している。アフリカまでは3ヶ月位かかるらし
い。先方に届いてからも、バザーで資金を稼ぎ、手こぎ三輪車等を作るのには時間がかかる。
だから、先方から反応が返ってくるのが遅くても仕方がないと思っていた。でも、ここ1年位ほとんど連
絡が来ない。私たちが送った物は一体どうなっているのだろう? 県内外からいろいろな物を提供してく れた人がいる。顔を会わせる機会はめったになく、綿密なやりとりが無い状態が通常とは言え、きっと気 になってることだろう。物資を提供してくれた人達に、何らかの情報を発信しないといけないだろう。そう 思っていた。
また私達は、送りやすく集めやすい古着等を中心にしているが、先方ではそれをどう受けとめるている
のか、他の物がよいのか、この先もずっと物を送るだけでよいのか等々、トゥエンデは今後どうすればよ いのか、それを現地を実際に訪ねて考えたかった。
もう1つは個人的な理由。アフリカに足を踏み入れてみたかったから。大学で社会学・民族学を学んだ
事や、兄一家が海外に長く滞在している事もあり、海外旅行といえばメキシコやネパールなどへの観光 的ではない旅が多かった。でもアフリカは未踏の地。暑いのは苦手とは言え、この機会を逃す手は無 い。
もちろん、休みをとりやすい職場だという事も大きい。夏場は休みも返上で働かなければならないが、冬
場は比較的ひまになる。休日が忙しい(=ツアー期間中は冬休みなので超多忙)という相方には申し訳 ないが、行くなら今だ!
2 花巻から大阪へ
海外旅行は初めてではないが、今回は場所が場所だけに、何があるか分からないし、何が起こっても
不思議でない。また、中東情勢も怪しいしテロの噂もある。Kさんのように遺言書までは書かなかったが、 「これでお別れかもしれない」と内心覚悟を決めて玄関を出た。
12月18日、一戸町奥中山を朝8時前に出発。小雨。雪はなかったが渋滞だと困るので高速道路を南
下。石鳥谷の相方の実家に車を置き、花巻空港まで義父母に送ってもらった。
集合時間まで時間があったので空港内をうろうろ。花巻空港へは、見送りに来たことはあったが、自分
が利用するのは初めてだ。年末が近いせいか、思ったよりたくさんの人がいる。
一番慣れているはずのHさんグループが一番遅く、なかなか来ない。"はじめっからこれか〜"と先行き
が不安になる。いやいや、ここでそんなに慌てても仕方がない。ここはアフリカにならってポレポレ(スワヒ リ語でゆっくりの意)気分で悠然と待とう。と思いきや、集合時間ぎりぎりに到着。一安心。
機内では、後ろに空席があったので窓際へ移る。富士山や北アルプスの山々、大阪城らしき城も見え
た。
大阪では昼過ぎから夜8時の集合時間まで、半日フリーである。以前から行きたいと思っていた国立民
族学博物館(以下、民博と略す)へ直行。アイヌ関係の企画展が終わったばかりだったのは残念だった が、サービスコーナーでカンガ(東アフリカの布)についての本を発見。嬉しくて3冊も買ってしまった。お 土産のメインをカンガにしようと思っていたので、これで事前学習ができる。ちなみに、戦前は日本からも アフリカへカンガを輸出していたと知ってびっくり。今はインド製が多いそうだ。
余談になるが、民博内のレストランの「白いカレー」はおすすめ。見た目はさほど白くないのだが、聞け
ばヨーグルトやココナッツミルクが入っているとか。まろやかで、辛いものが苦手な私でもおいしく食べら れた。ナンとサフランライスの両方がついているのも嬉しい。他に赤いカレーと緑のカレーもあったのだ が、どちらも激辛なそうだ。
関空では、集合時間から出発まで3時間以上あるので、当初はさんさ踊りの特訓をする予定だった。し
かし、車椅子5台分の運賃免除について「聞いてない」と言われたり、予想よりチェックインに時間がかか り搭乗口に着く頃にはぐったり。夜遅いこともあり、そのまま機内の人となった。
3 ドバイ
12月19日、現地時間で6:45着。さわやかな朝の雰囲気のドバイ空港。でもさすがに暑い。カーディガン
と長袖シャツを脱ぎ半袖になる。一人旅のうら若き(?)日本女性がおり、「4日程滞在します」との事。他 に家族連れも何組かおり、UAE(アラブ首長国連邦)は最近リゾート地として売れ始めている、との話を実 感。
意外と小さい空港で、インフォメーションを探して歩いていたら、建物出口まで来てしまった。警備の青
年に聞いてから引き返すと、Dubai Governmentのカウンターがあった。白くて裾の長いアラブ服を着たこ このおじさんがとても親切で、我々をバス乗り場まで案内してくれた。アラブに対する印象が一気に良くな る。
市内のバスセンターで1回乗り換えて(ここでも、運ちゃんが次のバスまで案内してくれた!)、有名なジ
ュメイラモスクへ。でも工事中で、しかも訓練か何かなのか、警察と消防のような車と人がたくさんおり、 割と険悪な雰囲気で「早く帰れ」と言われ、見学可能日ではなかったこともあり、中に入ることができなか った。空港の案内所のおじさんは「今日も見学できる」って言ってたはずなのに。
この日は金曜日。イスラム世界では休日になるので博物館やお店も休み。他に行くところもなし、地図
で見ると海が近いようなので、ぶらぶらと歩いて海岸へ。海水浴客が結構いる。気持ちの良い砂浜で、 ヤシの木陰で休んだり、水は冷たいが裸足になって海に入ったり、おもいおもいに過ごした。
帰りは3台のタクシーに分乗して空港へ。車も街並みもきれいで、発展している街という印象を受ける。
空港内で昼食。初めて生のマンゴージュースを飲む。ネクターのようにどろどろと濃厚だがおいしい。出
発までの待ち時間に搭乗口付近でさんさ踊りを練習する。やっている本人たちはそれなりに楽しく、且つ 真剣に踊っているのだが、周囲の人間からは"この人達何者?"という奇異の目で見つめられる。ここで めげてはいけない。タンザニアで素晴らしい岩手の文化を披露するための練習なのだから。
ドバイからナイロビへ。機内で1時間待つ。ナイロビに着いた時には明るかったが、発つ頃にはすっか
り暗くなっていた。飛行約1時間でいよいよタンザニアの首都・ダルエスサラームへ到着(長いので以下ダ ルと略す)。
機外へ出たとたん、むわっと暑い。荷物をカートに積んでロビーへ。ざわめきと熱気、そしてちょっと怖
い雰囲気。荷物を持つ手に力が入る。夜だったのでなおさら過剰に反応してしまったのかもしれない。
ダルのホテルは、独立前からの建物だそうだ。部屋に入り、さっさとシャワーを浴びる。お湯が出るの
がありがたい。エアコンは、音がうるさいのと、元々入れて寝るのは好きではないので消した。むし暑か った。
4 ダルエスサラーム
12月20日、7時に朝食。果物(ここではパパイアとバナナ)、オレンジジュース、トーストした食パン2枚。
コーヒーまたは紅茶。少し物足りなかったが、紅茶をお代わりしておなかを満たす。
団長の元教え子のマイバさんの案内でダル観光へ出発。道々、つたない英語でいろいろと話す。普段
はダルにいるが、国立公園でレンジャーのような仕事をする時もあるとか。密猟者がいるので、かなり危 険を伴なうらしい。ダルのような街と田舎とどちらが好きかと聞いたが、どちらとも答えは返ってこなかっ た。
マイバさんが通っている、Seventh-day Adventist Churchという教会へ向かう。教会はまだ建設(改装)
中で、あと500万シリング(日本円で50万円位、以下シルと略す)費用がかかるとのこと。我々も寄付する ことにした。キリスト教信者のTさんの10万シルを筆頭に、それぞれ1万〜2万シル位を出す。
教会に着いた時には既にミサは始まっていた。そーっと空いている席に座る。神父さんのお説教と聖歌
隊(?)のコーラス。4部位の合唱になっていて、そのハーモニーが素晴らしい。再びお説教が始まる。結 構長い。いつまでここにいるのかなーと思い始めた頃、私たちが紹介された。
団長がスワヒリ語で挨拶。日本人が自分たちの国の言葉を話すとは思っていなかったらしく、とてもうけ
ている。団長以外も次々に名前を紹介され、手を振って挨拶。一人一人に拍手や歓声を戴く。メンバー の紹介が終わると同時に、会場のどこかで誰かが「○*※△ アーメン!」と節をつけ音頭をとって歌い 始めた。次第に皆がそれに和して歌が大きくなる。教会中の人たちが私たちを歓迎して歌ってくれてい る。
突然涙があふれてきた。皆が温かく私たちを見つめている。私はキリスト教信者ではないが、宗教に関
係なく受け入れてくれているような気がした。
国立博物館の駐車場にバスを停め、向かいの建物の中で昼食をとる。学食らしい。
博物館は、国立というのがはばかられるほどお粗末だった(タンザニアとしてはかなり立派らしいが)。
日頃、博物館内で仕事をしている私にとっては、嘆かわしくて仕方がない。鳥類の剥製は羽が抜け落ち てボロボロ。魚類はビンの中でホルマリン漬けになり、脱色してしまい従来の色がわからない。農耕具等 もそのまま地面に置かれているので、埃だらけでさわり放題(=壊れ易い)。さわれることはいいことだ が、保存方法としては問題。
でも、子ども達がワークショップで作成したとおぼしき展示があったり、生きた魚が水槽で泳いでいた
り、現代美術っぽい企画展が開かれていたりしたのは救い。
博物館の門の前で、ヤシの実を売っていたので買って食べてみる。何の味とも言えない。強いて言え
ば、より淡白で弾力性が無いナタデココ。中の汁も極めて水に近い。少し甘味があるかな。売り子の兄ち ゃんは、最初150シルだと言った。手持ちが500シル札しかなかったので、それで支払った。そしたらお釣 りをくれないのだ! ねばって300シルは返してもらったが、残り50シルは、「小さいお金が無い」と言われ 返してもらえなかった。私がけちなのか、金持ち外国人と思われてぼられたのか。でもその場を離れた ら、次の客に「今の日本人は、おつりを寄越せ、寄越せとしつこかった」(多分)と言ってるのが背中から 聞こえた。
マコンデ村へも行く。マコンデは素晴らしい芸術品だと思うが、人間が絡まりあったような彫刻は、実は
あまり趣味ではないので購入せず。でも黒檀製品は何か欲しかったので、後日アルーシャに向かう途中 の土産物屋で皿を買った。
マコンデ村の敷地内に中国人系のカップルがでかい車で乗り付け、そのまま一周して出ようとしてい
た。でも基本的に車が入れる場所ではないので、通り抜けられず、倒木を無理やり引きずって強引に出 ていってしまったのには笑った。バックすればいいのに。
マイバさんに頼んで、カンガを買いに行く。間口1間、奥行き3間程のこじんまりした店に、天井から床ま
で所狭しと布が吊るされている。どれも色鮮やかできれいだ。目移りしてしまうが、中から10枚ほど選ぶ。 1枚といっても同じ模様の布が2枚つながっている。こちらの人は、真中から切り分け、1枚をスカート、もう 1枚を上着のように、あるいはスカーフのように巻いてセットで着ている。1枚(セット)で2200シル。手が込 んだ模様だと3千シル位。これでメインのお土産は買えた。ひと安心。
ホテルに戻り、浴衣に着替え(一応、正装のつもり)夕食会場へ。マイバさん以外の人を待つ間、住所
の交換をしたり、日本の唄を歌ったり、墨と筆でマイバさんの名前を「舞波」と半紙に書いてプレゼントし たりして時を過ごした。
途中で顔を見せてくれたジェトロ(日本貿易振興会)の奥所長は、自身も盛岡事務所にいたことがあ
り、奥様も岩手出身とか。おまけに相方を知っているらしい。どこでどのような縁がつながるのか不思議 なものだなーと思う。
このレストランは料理も豊富だし、バイキング形式で食べたいだけ食べられるのは良いのだが、唯一そ
して最大の難点は、アルコール類を置いていないこと。仕方がないのでジュースを頼む。
遅れてやってきた団長の元教え子達のうち、ラザロさんは2週間後に結婚の予定。その準備で忙しそ
う。結納金は今は現金だが、昔は牛1頭だったらしい。マニャマさんは免許をとるために自動車学校に通 っている。個人会計士なので会社に職を探しているそうだ。マイバさんをはじめ、教え子たち(と言っても 30代)が皆、それぞれにがんばっている様子に、とても嬉しそうな団長の姿が印象的だった。
5 タボラへ
12月21日、いよいよメイン目的地へ。ホテルを出る前に通り雨が降る。雨季に入ったのだと感じる。明
るい日の光の中で見ると、ダルの空港ものんびりとしている。入国の時に感じた怖い雰囲気は夜のせい だったのか、それとも私が次第にタンザニアの空気に慣れてきたのか。
タボラへの飛行機は双発プロペラ44人乗り。機体にキリンの絵が描いてあってかわいい。ちなみにキリ
ンはタンザニアの"国の動物"なので、殺すと死刑らしい。
ところで、チケットには一応、座席番号が書いてあったのだが、機内にはそれらしき表示が全く無い。
聞けば自由席だとのこと。私たちは最後に乗ったので、まとまって空いている席が無く、バラバラに座る。 ちょっと不安。
隣りは4〜50代に見えるおばさま。このまま無言でいるのは耐えられないと、しばらく経ってから、勇気
を出して話しかけてみる。どこへ行くのか、と聞くと、キゴマと答える。難民関係の役人らしい。難民を意 味する英語refugeeが、何回聞いても分からず(相手が悪いのではなく私の語学力があやしいため)、前 の席のYさんに携帯電子辞書を借り、彼女に単語を入力してもらった。その後、何回もいろいろな言葉を 入れて楽しんでいる。「小さいのにGreatだ。」と気に入った様子。
タボラは緑の中にあった。とても意外だった。知識としては、アフリカにも様々な気候があることは分か
っていたが、でも私の中のアフリカのイメージはサバンナだったのだ。ガイドブックに載っていた「タボラは 炭の産地」にも納得。最も、今は雨季だから緑があるが、乾季にはイメージ通りの乾いた大地になるらし い。良い季節に訪れたと思う。
飛行機を降りると空気が違う。日差しは強いが風が吹き抜ける。暑さが苦手でダルの蒸し暑さに辟易し
ていたのでとても嬉しい。タボラの滞在が気持ちの良いものになりそうな気がしてくる。
カリムさんとTDFT(後述)の車2台、タクシー1台の計3台に分乗し、Tanzania Public Service Collage(長
いので、以下、現地での通称ウハジリとする)敷地内の官舎へ。現協力隊員の梶田さんのお住まいだ が、本人は居らず。翌々日の交流会までには帰ってくるだろうと思っていたが、定期健康診断でひっかか ったらしく、とうとう最後まで会えなかった。とても残念。
タボラ滞在中、官舎には団長、Mさん、私の3人の内誰か2人が日替わりで泊まる事になった。また、あ
ちこちを訪問する際の出発地、昼食・夕食場所、次の行動までの休憩場所等、ベースキャンプとして大い に活用させてもらった。もし官舎が無かったらこんなにくつろいではいられなかったと思う。本当に感謝感 謝。
カリムさんからタボラ滞在中の日程を聞いた後、皆でタボラホテルへ移動。メンバーのほとんどはこの
ホテルで過ごすのだ。思ったよりもずっと立派なホテルだ。
ホテルのレストランで昼食をとる事にしたが、14時頃に注文し、やっとありつけたのは16時を過ぎてい
た。注文の時に「時間がかかります」とは言われたが、こんなに遅いとは…。きっと注文を受けてから、鶏 をしめて、米をといで、野菜とかを買いに行ったんだ、と噂する。ホテル側もさすがに申し訳ないと思った のか、後でオーナー自ら謝りに来たらしい。
食事を待つ間、同席のカリムさんと話す。日本へ来たことがあること、夏に沢内へも行ったこと、祖父の
代にエジプトからタンザニアに移ってきたこと、イスラム教徒であること、自分の今までの活動を振り返っ て本を執筆中であること等を伺う。ポリオのために片足が悪く歩行は不自由ではあるけれど、車を改造し て自分で運転もするし、NGOの活動も精力的にこなしている様子。素晴らしい人なのだと思う。
初日は私と団長が官舎泊。団長は体調が悪くすぐにベッドに入った。悪いことに夜11時過ぎから明方3
時半頃まで、隣りのディスコの音楽ががんがん。
官舎に隣接しているし、おまけに部屋の窓は壊れていて素通しなので直接音が響いてくる。気のせい
か震動まで伝わってきているような気がする。
クリスマス時期なので皆、帰省してきており、お祭り気分でどんちゃん騒ぐそうだ。私だって楽しいのは
好きだし踊るのも好きだけど、眠れないのは困る。気が滅入ってくる。
6 公式訪問
12月22日、7時起床。機内食の残りのパン、昨日の昼食の残りのカレー、マンゴー、紅茶で朝食。県庁
や病院等の公的な機関を訪問するので、襟付きシャツが望ましいとの事。事前研修で「公式訪問するか も」と聞いてはいたが、荷物になるしいいや、と勝手に判断し持ってきていない。団長から白い半袖ブラウ スを借りる。ちなみに団長は、プレゼント用の古着の中からかわいいワンピースを見つけ、それを着る。 スカート姿は普段めったに見ないが似合っている。
まず最初は官舎のあるウハジリ。校長先生が校内を案内してくれる。パソコンルーム等を見て30分ほ
どで次の訪問地へ出発。
移動は主に車を使用。カリムさんの車1台だけのことが多く、我々11人とカリムさん、TDFTのメンバー、
時にはカリムさんの愛娘のマナミも入ったりして最大時で14人。
日本では7〜8人乗りのランドクルーザーなのだが、詰めれば入るものだと感心してしまう。日本ではで
きない経験だと思い、以後、好んで荷台に乗った。
すし詰め状態で警察署の前を通過した時には、さすがに"まずいんじゃないの?"と思ったが、身を隠
そうにもこれ以上隠れる場所もなく、運転手は全く気にせずに走っている。ノー プロブレムらしい。
県庁を訪問。自己紹介と来訪目的などを説明。先方からは「ブルンジ、ウガンダ、コンゴ等からの難民
を受け入れている。自分たちも貧しいが、難民をできるだけサポートしたい。」等の話を聞く。ここも30分 ほどで次へ。
Kitete Hospitalという病院へ。お互いの自己紹介と病院および福祉局の説明を受ける。その後、理学
療法室、入院棟等を見学。元理学療法士のOさんは、病院の唯一人の理学療法士の青年と一生懸命に 話していた。
昼食をとるために病院から官舎へ一旦戻る。初めて街中を歩いた。治安が悪いので一人で出歩くなと
言われていたし、クリスマスで皆お金が必要な時期だから狙われ易くて危ないとも言われていた。移動は ほとんど車だったし、歩く機会がなかなかなかったので、何を買ったわけでもないがうきうきする。
ウハジリは敷地の周囲をぐるりと鉄条網で囲われており、門は閉められ、警備員が常駐する。官舎の
主の梶田さんは、危ないから敷地から出るな、と言われているらしい。これはものすごくストレスだ。(団 長は、ホテルや他の家に比べて窓から泥棒が入る心配が少ないから、安心して眠れていい、と言うが …)
振り返って考えると、日本は安全だと思う。昨今、治安が悪くなってきて通り魔や無差別殺人などが出
てきたとは言え、基本的には、1人で外を歩くことができる。自由に行動できるというのは本当にありがた いことなのだ。
昼食の準備がまだできていなかったので、待つ間にミーティングを行った。各自、印象深かったこと、ツ
アーに対しての要望などを話す。事前研修では、できるだけ毎日ミーティングを行い、感じたことなどを振 り返っていこう、と決めていた。が、疲れていたり体調が悪い人がいたり、次の予定があったりして、ミー ティングらしい話し合いはこの日だけになってしまった。
午後から、団長の赴任先であったMilambo Secondary Schoolへ。休暇中なので先生も生徒もほとんど
いなかったが、敷地内をぐるりと案内してもらった。給食の調理室や食堂(兼ホール)、寄宿舎、造成中の 教室等も。敷地のところどころに丸くぽっかりと穴があいており(水が溜まりやすくて良いらしい)、30cm程 の苗木が植えてあったのが印象的だった。何の木なのかな。
官舎への帰路にあるというので、CHAWATA(チャワタ)にも寄る。明日きちんと訪問することになってい
たので挨拶を少しだけ。さらにカリムさんの家にも寄る。立派な家だ。ここも後ほど来る予定だったし、夕 方になり疲れてきていたので、奥さんに挨拶し、水などを飲ませてもらい、皆で歩いて帰る。
官舎で夕食。山羊肉の汁かけご飯、青菜の炒め物、カチュンバリ(トマトと玉葱のサラダ)、マンゴーと
バナナ。タボラ滞在中、汁かけご飯は官舎での食事の基本メニューだったが、感心したのはいつも中身 が違うこと。大きめの白身魚、揚げた小魚、じゃが芋、トマト、豆等、毎食違うおかずだった。
団長が赴任時にお世話になっていたママが作ってくれるのだが、ママは基本的にスワヒリ語しか分から
ない。でも、Sさんはベジタリアンなので肉類は要らない、というのもすぐに憶えてくれた。
ママには洗濯物も頼んだ。当方はスワヒリ語は挨拶程度だし、普通に考えれば会話が成立するはずは
無いのだが、日本語で話してもママは雰囲気で感じ取ってくれるらしい。素晴らしい能力だ。
今日はMさんと私が官舎に泊まる。皆がホテルに帰った後、雨が降ってくる。蚊帳の中に蚊が1匹いる
らしく、プーンと耳元でうるさい。明かりを点けて探してみてもいないので、虫除けスプレーを塗って寝床に 入る。今日もディスコは絶好調。やはり眠らせてはくれないらしい。
7 チャワタへ
12月23日。5時頃にアザーン(イスラムのお祈りの声)が響いてきたので目は覚ましていたが、寝床でご
ろごろし6時起床。ママが来ると聞いていたので(ママは官舎からは徒歩1時間くらいの郊外に住んでい る)、来たら朝食を作ってもらおうと待っていたが、なかなか来ない。官舎は水(夜は断水)は出るが、ガ スはない。ちなみに電気はつく。小型の灯油(ホワイトガソリン?)ストーブと、炭の火鉢はあるが火の起 こし方が分からない。機内食のクラッカー、チョコレート、マンゴーで済ませる。
ウハジリの校長が訪ねてきた。今夜の交流会の飲み物の話らしい。チャワタから何人、学校から何人
と、細かく出席者の人数を計算している。さらに、人数×1人3本のビールまたはジュースで、合計○本。 ビール1本が○シルだから、全部で○シル。とても細かく計算している。会場が自分の学校の体育館だ し、ホストだから当り前と言えば当り前だけど、あまりに熱心に計算しているので、"何だかなー"と思って しまう。しかもその代金は私達が出すそうだ。うーん…。
交流会はこちらから持ちかけた話しだし、食べ物や飲み物を充分に出すことがタンザニアのしきたりだ
そうだ。
車組と徒歩組に分かれ、10時前に官舎を出発。今回のツアーの最大の目的である、チャワタ訪問。チ
ャワタの主要メンバーがずらりと並ぶ。それに対してこちらもずらり。チャワタの概要については、前述の タンザニア日記に詳しいので省くが、トゥエンデの活動の説明とメンバーの自己紹介の後、いくつかやり とりがあった。
Q:トゥエンデは障害者のグループか? A:No
Q:トゥエンデは障害者と近いのか? A:No
今回はたまたまメンバーの中にいたが、普段活動している中にはいないので。
Q:リハビリのボランティアが欲しい。A:チャワタに問題があったばかりなので派遣は難しい。JICAからも
ダメと言われている。もっとしっかりとした組織にならないと無理だと思う。
Q:文化面でのボランティア(伝統的な太鼓を教える等)も欲しい。A:上記に同じ。
Q:前のリーダーがミシンやタイプライターを全部持って行ってしまったので、女性用の何かが欲しい。A:
ミシンを送る事は以前にも検討したことがあるが、重いし精密機器なので輸送や修理が難しい。機械を 使わないですむ女性の仕事は何か無いか? チャワタ側のA:野菜も作っているが、手足に障害があり 水を運んだりするのが大変。
他に、スポーツのグループがあるのでボール等が欲しい。義足等がほしい、全く無いよりは中古でも構
わない。サッカーボールやユニフォーム、楽器、子供用の三輪車(手こぎ三輪車の事と思われる)が欲し い、等。
アメリカやドイツからの援助を受けていた事、以前にリハビリの協力隊員が派遣されていた事などか
ら、チャワタ側は、それと同等のものをトゥエンデに要望しているのだと感じた。私達は日本の一地方の 岩手の小さなグループであること、認定を受けているような公的な団体ではないこと、専門技術を持って いる人間はいるが派遣をできる程の組織力は無いこと、等を説明。
チャワタからは「できる範囲でやってくれればいい、気持が大切。」との言葉を戴いた。
話し合いの後、作業場を見学させてもらった。率直に言うと、汚い。誰かも言っていたが、作業に入る
前にまず掃除が必要ではないだろうか。もしかしたら日本人的な考えなのかもしれないが、そう思ってし まった。壊れた車椅子等が壁際に積まれていたが、利用されている様子はない。全部が使えなくても部 品だけでも組み替えて使えばいいのにと思った。溶接や加工の技術面で難しいのかもしれないが。やろ うと思えばできるのかもしれないし、技術面や資金面で滞っているだけなのかもしれない。でもそのような 事を抜きにして、活動が活発に行われている、運営がうまくいっているという印象は、残念ながら受けら れなかった。
記念撮影の後、近くのホテルでバイキング式の昼食をとる。昼食後に移動しようと車に近づいたら、す
ぐそばに少年が立っていた。背がすらりと高かったので14,5才に見えた。擦り切れた短パンに裸足。彼は 何も言わずに手を差し出した。物乞いらしい。今まで、煩いくらいに付きまとう物乞いはたくさんいたが、 静かにじっと見つめられるとかえって迫力がある。でも何も渡さずに出てきてしまった。
8 TDFT(Tabora Development Foundation Trust)
午後から、カリムさんが現在活動しているTDFTの事務所を訪ねる。ボランティアとスタッフ合わせて18
人で運営しているとの事。
「この辺りは遅れている地域なのでリハビリ等の施設が少ない。都市と村の生活は違うが都市の豊か
な生活を村にももたらしたい。村の食べ物や水などをきちんとしたい。歌や踊りのビデオを作って売り資 金源とすることを計画中。他の県のチャワタともリハビリのプログラムを一緒に行っている。エイズを排除 してしまう人もいるがここではいっしょに働いている。水や食べ物が良くないと障害をもった子どもが生ま れることが多いので改善するサイクルを考えている。リハビリが必要になってしまう理由を考えて行動し ている。」等々、TDFTの考えを聞かせてもらった。
こちらからも、主に障害について質問させてもらった。ポリオ、小児麻痺、目が見えない、耳が聞こえな
い、アルビノの5つが主な障害で、結核もある。複数の障害をもって生まれる子もいる。村では蛇に噛ま れて障害をもつ子もいる。たまにマラリアで脳に障害が出ることもある。
血縁の近い同士は結婚してはいけない、と宗教の中にあるので、血が濃いことに起因する障害は少な
い。出生届の義務が無いので、知らない間に死んでいるケースがある。エイズの親から生まれたため、 生まれつきエイズの子どもが出始めている。障害者の女性が襲われてエイズをうつされることがある。
TDFTとトゥエンデの関係について。NGOであるため政府の援助を得たり研修の機会がないので、トゥエ
ンデと技術的なやりとりができるとうれしい。岩手の人がJICAや大使館で働くことがあれば、TDFTを紹介 して欲しい。ホームページ作成に挑戦している、等。
TDFTの資金源は、アメリカのNGO「CARE」からの援助、チャリティーでディスコをやり入場料を貰う、田
舎でビデオを上映し入場料を貰う、教会からの援助もある、村で井戸を掘る際は村人と資金を折半す る。
普及活動のためにOHPやスクリーンが欲しいとも言われた。船でダルまで運んでもらえれば受取ること
ができるそうだ。
ちなみにチャリティーディスコはウハジリの隣りとの事。それって毎晩眠れない元凶のディスコ? うー
ん、文句が言えなくなってしまった。TDFTの主催はたまにしかないらしいけどね。
事務所から車で少し離れた郊外に、集会所があるというので連れて行ってもらう。屋根がかかっただけ
の簡単な造りの建物が一棟。ここで、周辺のお母さんたちに生活改善の講習会等を行っているそうだ。 同じ敷地内に、中身は何も無くがらんとしている元教会の建物と、草ぼうぼうの広い土地があった。整備 をしてトレーニングセンターを作る構想だそうだ。
理念もスタッフも事務所のOA機器も充実している。アメリカからの援助だという車はエアコンばっちりの
新品。全体的にしっかりしているという印象を受けた。
9 交流会
官舎に戻り夕食。皆、浴衣に着替えて交流会に臨む。会場はウハジリの体育館。夜6時開始と聞いて
いたが、人影はまばらだ。まあ、こんなものかな。こちらも大分アフリカン・タイムに慣れてきたらしい。
交流会は、本当は地元の学生と一緒にできると良かったのだが、何せ今は休暇中。生徒たちは自分
の地元に帰ってしまっている。なので、会場であるウハジリの先生やその家族、今回訪問したチャワタや TDFT、Milambo Secondary Schoolのスタッフや先生方が来てくれた。
ステージに太鼓を運んでいる一群がいる。おそろいの緑のシャツ。きっとこの人達がダンスチームだ。
若手が多いがなかなかやりそうだ。4、5種類の太鼓が並んでいる中で、さんさ太鼓に使えそうな物が1つ あった。紐がついているので首に掛けられるし、打面が両面にある。バチらしい木の棒もある。よしっ、借 りよう! つたない英語で「私たちの出し物の時にあの太鼓を貸して欲しい。」と頼んでみると快く了承し てくれた。
ラッキー!これで伴奏がつけられる。踊りは何とか練習できても笛や太鼓は難しいと、盛岡市の商工会
議所から入手したさんさのお囃子のカセットテープを持参していた。夏祭りのパレードで2回しか叩いたこ とのない私だが、テープの音だけより生の音が少しでもあった方が臨場感も出ていいだろう。ふふふ、や る気が出てきたぞ。
実は、タンザニアに来る前に「交流会で先方からはプロのダンスチームが出るらしい。」と聞いていた。
あせった。どうしよう、対抗できるほどの技は、私たちには無い。さんさ踊りは地元の踊りとは言え、皆が 皆盛岡出身ではないし、振り付けもうろ覚え。それでも、交流会なのだから、やはり日本の伝統文化をタ ンザニアに紹介しなければ、と頑張った。事前研修でも空港でも練習した。でも、"プロが相手じゃ負ける なー、きっと"とちょっと憂鬱な気持ちだった。だが、太鼓が借りられると分かって、一気に盛り上がってき た。これで何とかなる!
飲み物を貰ってくつろいでいると、突然ドコドコドコっと激しい音が。ええっと思うが、前振りもなくいきな
り始まった。マイクは使っていないのにすさまじい音量、そしてスピード。太鼓もさることながら踊りも凄 い。ぐるぐるとすばやく回転する腰、脳天から突き出てくるような声、足を踏み鳴らし身を翻す。男女各4、 5人が手に鍬や鉄炮などを持ち、ムワンザ地方の農耕の踊りと歌、お客様を歓迎する時の踊りと歌、等 を次々に披露。その迫力に圧倒される。
ほかにも、中国雑技団のようなアクロバットを見せてくれる。体がやわらかい。フィギュアスケートのビー
ルマンスピンのように足が上がる。立っている人の肩に一人立ち、その上にもう一人立つ。サーカスを見 ている時のようにはらはらどきどきする。中に一人、小学生位の少年がおり、大人と同じように堂々とパ フォーマンスをこなしている。会場からは大きな拍手。
出し物は、先方とこちら側が交互に行うことになっていた。まずは先方のパフォーマンス、次に私たちの
歌、太鼓&踊り&歌、私たちのゲーム、太鼓&踊り&歌、最後に私たちの踊りの順番。予告も無くいき なり始まったパフォーマンスが一段落したので、ホストである校長先生が私たちを紹介してくださり、いよ いよ出番。
最初は「上を向いて歩こう」。坂本九さんの名曲だ。ピアニカで伴奏をつけて歌う。続いて「見上げてごら
ん夜の星を」。いずれもしっとりとした良い曲なのだが、日本語のせいか、テンポが遅いせいか、会場の 反応はいまいち。まばらな拍手。よし、これならどうだ!と3曲目はとっておきの「マライカ」。アフリカで大 流行した歌だそうで、私たちもスワヒリ語で覚えてきた。これなら皆知っているだろうし盛り上がるに違い ない、と思ったが、案に相違し、割れんばかりの拍手とはいかなかった。かなり昔の流行で、今の人たち はあまり知らなかったらしい。意気込んでいただけにちょっと淋しかった。
そんな停滞した空気を振り払うかのように、再び太鼓グループの熱演。そして私たちの番。事前研修で
「交流会では何をやろう」と随分話し合ってきた。日本文化の紹介はもちろんだが、せっかくだから一緒 に楽しくできるものもやりたい。言葉を使わなくても、人数が多くても構わない、道具をできるだけ使わなく てすむ、そんなゲームをやろう。幸いなことに、ボーイスカウトで活躍しているTさんがいる。彼のアイディ アを中心に、ネタをいくつか用意しておいた。
まずは知恵の輪のようなロープくぐり。グループ対抗の競争にする。日本人は、ずるをしないように見
張る審判員に3人、あとは1人づつグループに入る。なぜか一番先頭に並ばせられた。事前にこっそりと 輪の解き方を聞いてはいたが、うまくできるか心配だ。ずーっと解けなかったらゲームが終わらないし盛 り下がる、どうしよう。ぴーっ、ホイッスルが鳴った。前方に置かれた輪に向かって走る。浴衣と草履だか ら走りにくい。着いた。手にとった。1つめの輪を左手に持ち、次の輪を重ねて…。何とか解けた。走って 戻って次の人にバトンタッチだ。と思いきや、スタートラインに戻る前に、次の人が走り始めてる。おいお い、ちょっと待っててよ。ルールは説明したはずだけどなあ。あれっ、あそこのグループは人数がどんど ん増えている。同じ数じゃないとグループ対抗にならないし、1着を決められないではないか。うーむ。
ま、いっか。皆楽しそうにわいわいとやってるし、勝ち負けを決めても賞品が出るわけではない。何人で
も好きなだけ飽きるまでやってもらおう。あっという間に時間が経ち、ゲームは1つだけで終了することに なった。
再びの先方のパフォーマンスの後、また我々の番。団長が太極拳を披露。会場はしーんと静まりかえ
り、おしゃべりもせずに見入っている。ゆるりとした動きなのだが、そのしなやかさと張り詰めた静けさ は、タンザニアの人達にとっては新鮮なものだったに違いない。
終わるといよいよさんさ踊り。壇上で輪になり、統一さんさの2番「七夕くずし」を踊る。カセットテープの
お囃子は、練習時よりもテンポが早い。ついていけなくなるのではと不安があったが、気分が昂揚してい たためか、先の太鼓のリズムに引きづられたのか、皆ノッテイル。興奮していたので、会場の反応がどう だったのか覚えていないが、それなりの拍手はもらった気がするし、何よりも"やった"という自分たちの 満足感が大きかった。
ここまでで交流会は終了の予定だったが、アンコールに応えて太鼓グループが、更にパワーアップした
芸を披露してくれた。彼らはプロではないが、あちこちに招待されて結構評価されているらしい。Kさんな どは「これだけ素晴らしいのだから、日本に連れてきて公演すれば、よいタンザニアの文化紹介にな る。」と。
集合写真の後、あちこちで「俺も写してくれ」「あなたも一緒に入って」と写真の撮り合い。また、ゲーム
で使う予定だった風船と団扇を、集まってくれた人たちにプレゼント。
あらたまった終了の挨拶は無く、ざわざわとそこここで賑やかな笑い声がはじける。お振る舞いのビー
ルで酔っ払ってしまった人もおり危ないので、早く帰った方がいいと、カリムさんやママにせかされ、後ろ 髪をひかれつつ会場を後にした。
9時をまわった時刻で、私の感覚ではまだ宵の口なのだが、「夜遅くなったから」と、ママとピウス(ママ
の孫)が家には帰らず、官舎に泊まることになった。この時間では、現地の人にとっても危険なようだ。
今日の泊まりはMさんと私。ママと少しスワヒリ語で会話(?)し、疲れていたので早めに床に入る。今日
もディスコは賑わっている。
10 イプリ、動物園、Ms.Nusura
12月24日、6時半起床。晴れ。ママにお湯を沸かしてもらい、昨夜の残りのご飯と合わせておかゆにす
る。寝不足気味であまり食欲は無いのだが、Mさんお手製の唐辛子味噌をのせて食べる。食がすすむ。 この唐辛子味噌には随分お世話になった。昼食や夕食時には他のメンバーも「おいしい、おいしい」と食 べ、とても好評だった。
9時過ぎにカリムさんが迎えに来てくれる。車で少し郊外へ。インド人の神父さんが、ストリートチルドレ
ンの孤児院を運営しているのだ。私たちはイプリと呼んでいたが、後で聞くところによると、それは村の名 前とのこと。親がエイズや障害のため面倒を見てもらえなかったり、身寄りのない子ども達。今は16人が 住んでいるが、通いもいる。ローマカトリックの教会だが、イスラムや他の宗教の子もいる。
元理学療法士・現鍼灸師のOさんと、同じく鍼灸師の団長の2人が治療を行う。神父さんが前もって、
「東洋医学の治療を受けられる」と、周辺の村々に触れ回ってくれていたらしいが、クリスマスのためか、 あるいは東洋医学が今ひとつ理解してもらえていなかったためか、患者さんの数はちらほら。
教会の中の一室を治療室にあて、机を2つ合わせてベッドをつくり、皆の帽子やタオルをかき集めて枕
にした。
Oさんと団長が治療を行っている間、他のメンバーは、外の木陰で休息したり、順番待ちの患者さんや付
き添いの家族と一緒に折り紙をしたり。午前中の半日をのんびりと過ごさせてもらった。ただ、神父さん から「ストリートチルドレンの子どもたちにカメラを向けるのは止めてくれ」と言われていたので、それだけ は気を遣った。
木から落ちて脳が麻痺し(?)足が不自由になったという男の子には、お姉さんと妹が付き添ってきた。
ウハジリの学生だというお姉さんは17歳。ボブストレートの髪をきれいに染めた美人さん。「彼女、どう?」 と独身のYさんをけしかける。一緒に折り紙をおりながら、ぽつりぽつりと英語で話す。歌が好きだとのこ と。歌ってくれと何回も頼むと、ものすごーく恥ずかしがりながら、妹と一緒に歌ってくれた。はにかんだシ ャイな様子がとても好ましい。
余談だが、アフリカというと、くるくると縮れた髪を想像するし、実際にそういう髪型の女性が多い。だ
が、タボラホテルの受付やプレシジョン航空の乗務員など、時々まっすぐな髪のオシャレな女性を見かけ た。ストレートパーマをかけていると思われる。もしかしたら、ストレートが今の流行なのかな。
ここでは、ドーナツのような揚げ物やバナナなどのおやつのをご馳走になった。他に昼食も手配して作
ってもらい教会で食べた。例によって肉汁かけご飯。帰り際に、車椅子を贈呈し、皆で記念写真。ベルギ ーから来ているボランティアの若い女性が1人いた。どこかのNGOのプログラムで来ているのかと思った ら、教職を退いて個人で来ているそうだ。1年半位滞在の予定。子ども達が彼女の手をとって甘え、とて もなついている。「健康に気をつけてね。」と声をかけてお別れした。
タボラ動物園へ行く。カリムさんの一押しは、レオパード(豹)。「ここでしか見られない、国立公園に行っ
ても見られないから。」と何回も言う。動物園といっても、日本のように檻がたくさん並んでいるのではな く、サファリパークの様相。森の中の小道を歩いて行くと、亀がいた。タボラ周辺に生息する種類。少し歩 くとインパラもいる。
さらに行くとおすすめの豹の檻。鉄格子の中で寝ていた。動物園の係員が、木の棒を持って檻の天井
にのぼり、叩く。豹は怒って吠えた。私たちに見せてくれようという心配りは嬉しいが、無理やり起こすこと はないのに、と豹が気の毒になる。そばには猿の檻も。
入口に戻る途中の道端で、けばけばしいオレンジ色のカメレオンに出会う。姿は小さいが毒があるらし
い。迷信かもしれないが地元の人は近寄りたがらない。そんな話を聞いた後なのに、好奇心旺盛なTさん とYさんは、シャッターチャンス、とばかりにそばへ(カメレオンは動きがのろいからね)。顔を寄せて接写 しようとしている。そんなに近付いて、噛まれたらどうするんだー、舌がびろーんと延びてきて巻き込まれ たらどうするんだー。危ないんだから、もう。
園内は広く、午後のじりじりと照りつける日差しの中を歩いたので結構しんどい。実はカリムさんは中へ
入らず、入口で待っていた。確かに、片足の不自由な彼にはきつかったかもしれない。
入口脇の木に、紫色の小さな実がたくさんなっており、登って採っている人達がいた。私たちにも分け
てくれる。ンザンバラオと言うそうだ。すぐりのような外見で、少し渋みがある。暑い中を歩いた後だった のでおいしく感じた。
午後4時過ぎ、街から少し離れた所に住むNusura Mpambijeさんを訪ね、最後の1台の車椅子を渡す。
彼女は、左足が元々ポリオで動かなかったところへ、最近右足を複雑骨折してしまい、歩く事ができなく なってしまった。体重が重いので(といっても別に太っているわけではない)母親も彼女を運べず、外に出 られずにいたそうだ。
部屋に入らせてもらったが、窓が無く日中なのに暗い。壁の隙間から差し込んでくる光でようやく顔が
見える。こんな所にずっといたのでは、例え健康であったとしても病気になってしまう。
私たちが運んできた車椅子は全部で5台。病院、チャワタ、TDFT、イプリと、他の4台は全て施設。個人
に贈るのはここだけだ。最初にこの配付計画を聞いた時、なんで1人だけ特別なの、と疑問に思った。
でも、状況を見て納得。彼女は暗い部屋の中で英字新聞を読んでいた。今までカリムさんと一緒に活
動してきたからには、きっと優秀だったのに違いない。そんな人が外に出られなくなってしまったのでは、 彼女自身にも、活動にとってもマイナスだろう。少しでも外に出られる機会が増え、前向きになれればい い、そう思えた。
部屋から廊下へ、玄関から外へ、家のまわりから道路へ、どこもかしこも段差だらけででこぼこ。現状
では車椅子での移動は無理に見えた。でも、玄関をスロープにしたり手を加える、とのこと。彼女がいっ ときも早く自由に出歩けるようになるといいな。
官舎へ戻って夕食。昨日も一昨日も、日本並みに分刻みの盛りだくさんな日程だったので、そろそろ疲
れがたまってきている。皆早々にホテルへ引きあげる。クリスマス・イブのせいか、10時頃、いつもより早 い時間にディスコが始まる。音も大きくなっているような気がする。
眠れずにベッドの中でもんもんとしているのが嫌になり、夜中の2時、とうとう起き出した。折り紙で手毬
のような飾り物を作る。クリスマスプレゼントとして、カリムさん達お世話になった人に渡そう。こんな時間 なのに、官舎のすぐ脇を歩いている足音やおしゃべりが聞こえる。ディスコ帰りかもしれない。みんなハイ な気分になっているだろう。部屋に来られたら困ると思い、電気は点けず、ろうそくにする。2つ作り上げ た4時頃、ようやく音楽がとまった。ろうそくを消してベッドにもぐりこむ。つかの間の安眠。
11 ママの村
12月25日、7時半起床。昨日、ガスストーブのつけ方を教わったので、お湯を沸かして紅茶をいれる。
気温の暑さは苦手とはいえ、それでも暖かい物を口にできると落ち着く。パン、バナナ、マンゴーの朝 食。
団長の赴任時、近所に住んでいてよく遊んでいたという青年が来る。19歳でゴッディという。6年前の当
時は少年だったので、団長にはすぐに面影が浮かばないらしい。少し話をするが、調子が悪いので彼女 は寝る。一緒に折り紙をする。
今日の午前中は予定がなく自由行動。時間はたくさんあるし、ちょっと持て余しはじめたので、ダルで購
入した10枚のカンガのことわざを教えてもらおうと思った。高校で英語を習っていると言ったし、私よりも 難しい英語を話している。なので、スワヒリ語で書かれていることわざを英語に訳してほしい、と頼むと困 った様子。ちょっと待て、と彼は出ていった。
待つことしばし、もう1人の青年を連れてきた。兄だと言う。お兄さんはスワヒリ語−英語の辞書を持っ
ており、自分よりも詳しいから、との事。私は簡単に考えていたが、「ことわざには深い意味があるし、理 解できるように英訳すると膨大な文になる。」と言われた。
私の英語力では、たくさん書かれても分からないし、大まかな意味の英語で書いてもらえれば、日本に
帰ってから英語が分かる友達に頼んで意味をくみとってもらうから、と直訳してもらう。
「HAKUNA KAMA MAMA」が「Mother is better than other people」、「PENDA LAKINI
USICHANGANYIKIWE」が「Love, but don't be confused」など、私にでも分かるものもあれば、首をかしげ るものも。宗教が浸透しているためかGodが使われていることわざが10枚のうち、5枚もあった。中に2 つ、彼らが英語に訳せない単語があった。BAHATIとDOLLA。BAHATHIは、民博で購入したカンガについ ての本に、同じ単語を使ったことわざが日本語訳付きで掲載されているのを見つけ、「つき」や「運」と理 解した。問題はDOLLA。向こうも一生懸命に説明してくれ、ようやく電話に関する何か、というのは分かっ た。今いち釈然としなかったが、他のことわざで悪戦苦闘して疲れたので、ここまででいいよ、と終わって もらった。
ことわざで半日が過ぎた。団長がTシャツやノートのプレゼントを渡し、御礼を言う。
12時半頃、カリムさんの車でママの住むカリアコ村へ向かう。30分程かかる。畑や木々の間に家が点
在するのどかな田舎の風景。ママの家は、マンゴーの大木の下にあった。土壁に茅のような草葺の屋 根。周りはとうもろこしと豆が一緒に植えてある畑だ。
肉汁かけご飯、青菜ピーナッツあえ、カチュンバリという定番のお昼をご馳走になる。実は昨日、ママは
官舎から帰る時、かばん一杯の米、野菜、その他もろもろを頭に担いで帰っていった。その材料で、私た ちのお昼を作ってくれたのだ。
食後は、散歩や昼寝などおもいおもいに過ごす。少し歩いてみた。暑いので時々木陰で休む。見渡す
限り畑。車は通れないが自転車は行き来できる細い道が間をぬってはしる。ママの家のトイレは草葺の 壁に地面に穴が掘ってあるのだが、レンガ塀のトイレもある。こちらを不思議そうに見ている小さな姉 妹。沈丁花のようないい香りの白い花の木があり、根元にたくさん落ちていたので拾って帰る。
畑仕事をしているおばさんに英語で「道に迷ったのか?」(多分)と聞かれた。「ママの所に遊びに来て
いる」と答えると、「ママ・エスタの所か?」。この時はじめて名前を知った。今までは「ママ」としか呼んでな かったのだ。そうだよね、名前を言わないと失礼だよね。でも結局、この後もママと呼び続けてしまった。 だって言いやすいんだもん。
ママの家には近所の女性や子供たち、村の世話役のようなおじいさんが集まってきている。お酒が振
舞われた。ハイビスカス(?)の花を使った、綺麗なピンク色のジュースのようなお酒が飲みやすくておい しかった。他にもどぶろくのような地酒があり、しらふでは歌えない、とばかりに女性陣はくいっとあおる。
何か歌って欲しいとリクエストした。こちらはアカペラで構わないと思っていたのに、それではダメならし
く、どこかから巨大なラジカセが持ち込まれる。でも電池がない。少年が1人、自転車で乾電池を買いに 走った。
カセットテープをかける。賑やかなダンスが始まった。足を踏み肩を揺らして踊る。最初は周囲で見て
いたが、踊ろうと誘われ、次第に皆が輪に加わる。2、3歳の小さな子も一緒だ。興がのってきたのかママ も少し踊っていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎる。夕食も戴くことになった。ただやはり、暗くなると危ないということ
で、夕暮れの迫る中、一路官舎へ急ぐ。
今夜はYさんがママの家にホームステイ。ママにお世話になった団長でさえ、泊まったことはないと言
う。滅多に、もしかしたら一生できない経験だろう。タンザニアの村の民家に泊まるなんて。お腹の調子 が悪そうだったけど大丈夫かな。
私にとっても今夜はスペシャルナイト! タボラ滞在中、ずっと官舎泊まりだったが、ようやくホテルに泊
まるのだ。最初で最後のタボラホテル。部屋はダブルベットでひろびろ。ちゃんと温かい掛け布団もある (実は官舎ではシーツしか掛ける物がなかった。夜でも充分に暖かい土地とはいえ、シーツ1枚というの は心許無かった)。お湯の出るシャワーと洗面所がある(官舎ではやかんでお湯を沸かし、たらいで湯浴 みのみ)。ディスコに悩まされずにゆっくり眠れる。
そしてビールだ!
どういう訳か、タンザニアに来てからは一滴もアルコールを口にしていなかった。飲もうと思えば飲めた
状況だったと思うが、とりあえず飲んではいなかった。シャワーは浴びたかったので、「後でつきあって下 さいね。」と他のメンバーに集合時間を念を押し、一旦は部屋へ戻る。
今日はクリスマスなので、ホテルのレストランも大賑わい。着飾った老若男女が家族や親戚ごとにテー
ブルを囲み、おしゃべりとご馳走に余念がない。私も飲むぞ。嬉しいことに同行の女性達もアルコールを たしなんでくれる。ビールは輸入物の他に、国産が4種類ほど。まず1本目は、有名どころのサファリ。あ まりくせが無くて飲みやすい。各自が持ち寄った柿の種や海苔などをつまみに、話に花がさく。ところで、 当地のビールは1本500ml入り。久しぶりのアルコールだったせいか、1本目をあけた段階で、既にかなり の酔っぱらい。でも、タンザニアのビールを全部制覇してみたいと思っていたので、2本目を注文する。次 はCASTLE。ラベルにはお城のイラスト。だが、3本目まではいかなかった。一体何時まで飲んでいたの か、はっきり覚えていない。
クリスマスなのでホテルにも生バンド演奏のディスコが出現しており、相当賑やかに騒いでいたらしい
が、全く記憶にない。ぐっすりと眠らせてもらった。
12 市場と農村
12月26日、8時にレストランへ。久々にまともな朝食。セルフサービスではあるが、トーストが焼けるし、
暖かいミルクティーも飲める。注文すれば卵料理も作ってくれる。オムレツを頼んだ。
官舎へ集合後、市場へ連れて行ってもらう。念願のお買い物だ。ブランド物やショッピングが好きなタイ
プの人間ではないが、旅行先でスーパーや市場をのぞくのは大好きだ。庶民の生活を垣間見ることがで き、そのへんのおばあちゃんおじいちゃんと話ができるとさらに楽しい。ところが今回は、出歩くのは危な いと言われ、実際に警備が厳重な様子を見ていたので冒険はせず、結果、自分の財布を開く機会が全く と言っていいほど無かったのだ。
集団で行くとはいえ危険なことにはかわりがないので、前日のゴッディー君が付添ってくれる。出発前に
彼は、1枚のカードを見せてくれた。「これがDOLLAだ。」と言う。昨日のカンガのことわざで解決できなか った言葉、DOLLA。彼は知合いからわざわざ借りてきて、現物を見せてくれたのだ。ありがとう!なんて 親切なんだろう。見て判断するに、日本でいうテレフォンカードだと思う。ただ、電話会社別にそれぞれの カードがあり、呼称も異なるようだ。
さて、市場へ皆で歩く。途中、道端で魚を売っている青年がいた。団長と会話が始まる。昔の教え子ら
しい。魚はタンザニア西端のタンガニーカ湖産で、湖畔の町キゴマから運ばれている。冷凍し木箱に入 れ木屑を間に詰めてある。この暑さでは傷んでしまうのではと思うが、何とかなるようだ。
市場ではありとあらゆる物が扱われている。洋服、学校の制服、下着、靴、蚊帳、ベッドのマット、石
鹸、油、砂糖、とうもろこしや米(粒も粉も)、緑や白い豆、スパイス類、青菜、玉葱、トマト、肉、内臓、生 きた鶏、鍋、皿、コップ等々。迷路のように細い道が入り組んでおり、迷子になりそうだ。そしてとても広 い。
皆それぞれ、岩塩、クローブ(丁子)や胡椒、調理用の木さじ等を買う。私はアフリカフェという缶のイン
スタントコーヒー、紅茶(茶葉、ティーバッグ、銘柄も何種類もある)を入手。ほとんどのメンバーが、豆の コーヒーも欲しがったのだが、こればかりは何軒探してみても見つからなかった。紅茶は一番安いもので 200シル。アフリカフェは1缶2千シル。それでも日本円で200円位だ。
官舎で昼食後、カリムさんとTDFT、2台の車で郊外の村へ。TDFTの活動を視察する。まずは井戸。
元々あった井戸を改良、深さは10m。飲用可能で家畜にも与えている。一応バケツ1杯につき10シルの 使用料が決められているが、厳しく徴収している様子ではない。新しく井戸を掘ろうとすると5〜60万シル 位かかり大変な負担になるので、当面は元からある井戸を改良する方針らしい。
エディナ・イサビカさんという女性を訪ねる。TDFTが雌牛を貸与し、2頭の雌子牛を返せば、あとは自分
のものにできる、というシステム。タボラ州全体に広めようとしているが、まだ50人位にしか貸与できてい ないそうだ。誰に牛を与えるか。経済的に苦しい状態の人が優先されるが、まずは村の中で話し合い、リ ーダーからTDFTに話し決めるそうだ。彼女の場合、未亡人だが子どもが6人おり、その内4人に手伝って もらって牛を飼育したり畑を耕したりしている。牛乳の売り上げで人夫を雇って井戸を掘ったり、なかなか のやり手。
次の牛飼育者はおじさん。まだ雄が1頭しか生まれていないので、ノルマの2頭の雌子牛を返せていな
い。「なんで子牛が生まれないんだ。」と聞かれた元獣医のHさん。「親牛が太りすぎだよ。」「だって餌が 欲しいって鳴くんだ、かわいそうだろう」。それじゃあいつまで経っても子牛は生まれないよ、と苦笑するH さん。
夕方になったが、タボラ市内の牛乳公社にも行く。1964年の設立だそうで、設備がかなり老朽化してい
る。現在の取扱量は、瓶詰め用としては1日あたり、ドラム缶1本分。電気が普及しておらず冷蔵設備が 一般的ではないので、牛乳の状態で広く売買するのは難しいと思われた。生産量はわからないが、他に バターやチーズも作っている。
夜、カリムさんの自宅へ招かれた。私達のほかに、TDFT代表の方もご家族で参加。スタッフも来る。応
接用のソファだけでは座りきれず、他の部屋から椅子を集め、なんとか居場所をつくる。
カレーのようなもの、サラダ、練った小麦粉を焼いた薄いパンのようなチャパティ、マンゴージュース。食
べきれないくらいたくさん用意してくれた。
食事の前後、カリムさんの写真アルバムを見せてもらった。若い時のカリムさん、とってもスマート。「こ
の人、本当にカリムさん?」と驚いていると、「結婚してから妻の手料理がおいしくて食べ過ぎた」。幸せ 太りって世界共通なのね。
日本やタンザニアの歌をお互いに歌ったり。楽しい時はあっという間に過ぎてしまった。今日はタボラ最
後の夜。Yさんは、昨日のママの家に続き、今日はカリムさんの家にホームステイ。こちらは再び官舎泊 まりだ。明日の出発に備えて荷造りに励む。
13 ンゴロンゴロ
12月27日、6時半起床、雨。3時頃からずっと降っていた。朝には止むかと思ったが降り続いている。朝
食用に、ママにムカテ(食パン)を買ってきてもらう。雨の中で申し訳ないと思うが、パン、食べたい。他に マンゴーと紅茶。でも、唇にぶつぶつと発疹が出始めたので、食べたいが、マンゴーはやめておく。
約2年前、やはり唇と口の周辺に発疹ができ、原因がわからなかったので医者に行ったことがあった。
診察して曰く「マンゴーとか食べ過ぎませんでしたか?」岩手に住んでて、食べ過ぎる程マンゴーを口にで きる人なんていないでしょ? この医者、何をとんちんかんな事、訊いてるんだ、とその時は思った。が、 実際に出るんですねー。マンゴーは漆科の植物で、かぶれが出る場合があるらしい。私の場合は元々 皮膚が弱いのに、タンザニアに来てからは毎日毎食のように食べていたので、発疹してしまったらしい。
カリムさん夫妻、ママとピウス、TDFT代表等が車で空港まで送ってくれる。雨が止まない。お別れが悲
しくて皆、涙。そんな気分をうつしてしとしとと雨が降りつづけている気がした。
タボラ空港の滑走路は土。雨でどろどろになっている。大丈夫かな、車輪が埋まりそうだけど、ちゃんと
離陸できるのかな。14人乗りのちっちゃなプロペラ機だしな。でもパイロットは年配の白人男性。何となく ホッとしたのは、人種差別ではないが偏見だろうか。
9時半、予定通りに出発。上空から見るアフリカの大地。意外と耕作地が多い。国の方針として、工業
より農業に力を入れている、と言っていたマイバさんの言葉を思い出す。
1時間半弱の飛行で、ンゴロンゴロ空港へ。空港といっても赤土の滑走路が1本あるだけ。建物は何も
ない。機内が寒かったのでトイレに行きたかったが我慢する。車が3台待っていた。この車で、今日明日 の2日間移動することになる。
ここの国立公園は入場料がかかる。1日あたり1人30ドル。空港は既に公園内。到着した11時から計算
され、きっかり24時間後の明日11時には公園のゲートを出なければならない。キビシイ。
正午前にホテルへ着く。レストランの昼食の準備ができるまで、テラスでジンジャーティー等を戴く。生
姜が強烈だ。風邪の人には効きそう。そういえば、体調の優れない団長は、昨夜、カリムさんの奥様から ジンジャーティーを貰っていた。なまの生姜も貰い、削って自分の紅茶ポットに入れ持ち歩いている。
世界遺産に指定されている直径16kmの巨大クレーターが、目の前に広がっている。ホテルはちょうど
クレーターのへりに建っているので、眺望は抜群だ。今日の午後と明日の午前の2回、車に乗ってこのク レーターの中に降りる。テラスから双眼鏡で見ると、何かはわからないが豆粒のような黒い点が移動して いる。あ、象がいる。
1週間も過ごしたタボラ、お世話になったママやカリムさんとお別れしてきたばっかりだったので、少し気
持が沈んでいたのだが、わくわくしてくる。
昼食後、30分ほど車で移動。ゲートをくぐって、いよいよ中へ降りる。かなりの急勾配の下り坂。ちょっと
運転を誤ると、まっ逆さまに転がり落ちそうだ。運転手さん、慎重にね。
まず、水牛。群れで移動している。イボイノシシの親子は道端の草むらにいたらしく、車の音で驚いて飛
び出してきた。親の後ろを、短い足で懸命にちょこちょこと追いかける子がかわいい。お、象もいる。ちょ っと遠くて肉眼では見えにくいが。シマウマは結構近くにいる。途中すれ違った他のツアー車から情報を 仕入れ、ライオンを探しに行く。7頭くらいの雌ライオンの集団。雄は滅多に見られないそうだ。サイもな かなか見られない動物らしいが、いた。遠くに黒い点だが、横を向いているので角で判別できる。ヒヒ、ハ イエナ、ヌー、トムソンガゼル、グラントガゼル、ダチョウ、カンムリ鶴なども見ることができた。
もっと居たかったが、夕方は6時までにクレーターから出なければならない。ホテルへ戻る。日が暮れる
と急に冷え込んできた。久々に長袖シャツを着る。
今日の夕飯は豪華だ。まず席につくと、ボーイさんがスープを運んでくれる。野菜を煮込んだ感じであっ
さりとおいしい。他の料理はバイキング形式。前回は制覇できなかったので、今日はまだ飲んでいなかっ た銘柄のビールを注文する。まず、有名どころのキリマンジャロ。他のメンバーは、これが一番飲みやす い、と言う。次にンドヴ(スワヒリ語で象の意)。全部ラベルをはがし、記念に持ち帰る。
ロビーで、太鼓とサーカスのようなパフォーマンスを見学し部屋へ。ここには蚊帳が無かった。標高
2000mと高所のためか蚊がいないらしい。蚊帳を吊るわずらわしさから開放される。ありがたや。
14 アルーシャへ
12月28日、6時半朝食。朝早いのに他の泊り客もたくさん起き出している。動物を見るのは朝早くか夕
方が良いらしい。皆、気合が入っている。
ボール紙の箱に、自分の好きな物を取っていき弁当にする。ハム、チーズ、牛の3種類のサンドイッ
チ、ゆで卵、フライドチキン、紙パックのオレンジジュース、ペットボトルの水。それと、生の胡瓜と人参。 これは5cm位に小さく切ったものなのに、1片づつサランラップに包んである。手間がかかっている。1人 前15ドルの弁当と聞いて、高すぎる、タンザニアの物価じゃない、と思っていた。が、外貨獲得用の観光 客価格であり、何より人里はなれた場所なのだから、高くても当り前なのかもしれない。でも、こんな値段 だったらタンザニアの一般人は来られない。部屋代も日本円で1万円だし。ここに来てから見かけるの は、白人、インド人、日本人。地元の人用の料金設定もあるらしいが、それでも普通の人にとっては、き っと異世界なのだ。
クレーターへ降りるゲートへ向かう途中、象とばったり出会う。4、5頭が、ゆっくりと目の前の道路を横
切っていく。幸先がいいな。今日はいいことがありそうだ。
昨日とは別のコースをたどる。午前中の早い時間帯のためか、昨日より動物の数が多いし、出会う頻
度が高い。昨日は見られなかったフラミンゴとカバがいた。カバの池があり、池の真中で10数頭の集団 が、頭を寄せ合って寝ている。初めてカバの寝息を聞く。
数キロ離れた国立公園のゲートを11時までに通過しなければならないので、ゆっくりはしていられない。
ところが、クレーターの縁への坂道を登る時、1台がオーバーヒートしてしまった。運転手が降りてきて、3 人であれこれやっているが、なかなかエンジンがかからない。これで遅刻したら、超過分の入園料は彼ら (ツアー会社かな)が払ってくれるんだよね。
やっとエンジンがかかったと思ったら、とばすとばす。見通しの悪いカーブが続く山道なのに、がんがん
走る。結局、11時5分前にゲートを通過できた。素晴らしい運転技術。
公園を出てしばらく走ると、アスファルトのきれいな道路になった。日本他の援助で道路が敷設された
そうだ。ところどころに、日の丸マークが描かれた看板がたっている。舗装道路になってからは時速 100kmだ。
途中3回ばかりトイレタイム。土産物屋のトイレを借りる。黒檀製品がたくさんある。マコンデ村で買わな
かったので、何か買おうと思い品定めしていると、ぴったりとすぐ後ろを店員がついてくる。うっとおしい が、仕方が無い。良さそうなのがあったので値段を聞いてみる。20ドル。高すぎる。手の平に乗るくらい の小ささだし、彫りだって稚拙だ。あまりにもひどいので去ろうとした。すると店員は「ちょっと待て、10ドル でいいから。」一気に半額? 一応立ち止まって考えるふりをしていると、「10でいいけど、その他に俺に2 ドルくれ。」それって袖の下?冗談じゃない。店を出た。
3軒ばかりお土産購入&トイレタイムを重ねて、アルーシャの街へ入る。1軒の店では、掲示板に「クリ
ントン大統領がこの店を訪れた」という写真入り新聞記事が貼られている。ここには、ずっと探していた豆 のコーヒーも売っていた。が、とんでもなく質の悪い豆であることが帰国後判明。これで8ドルは高過ぎ。
乾燥した土地にぽつんぽつんと木や草が生えている風景。最初の頃の私のアフリカのイメージに近
い。タンザニアの北の地方はまだ雨季に入っていないらしい。
ホテルにチェックイン後、まだ希望の土産を購入できていなかったメンバー達は、運転手に頼んでお買
い物へ。日曜日だったので行ってみたかったスーパーは空いておらず、土産物街のような所へ行く。車 から下りた途端、群がってくる人たち。手に手に民芸品を持ち「買え」と迫る。店がたくさん建ち並んだ路 地に入って物色しようとするが、あまりにも客引きが煩くて早々に車に戻る。彼らは引き下がらない。窓を たたき、窓が開いていようものなら手を差し入れてくる。あまりのしつこさにうんざりする。こんなに煩くせ ず、静かにゆっくりと品定めさせてくれたら買う気になったかもしれないのに。売り方間違ってるよ、と思っ てしまう。
小さな店に寄り、カシュナッツやマンゴージャム等を入手。
タンザニア最後、アフリカ最後の夜。ホテルのレストランでディナー。スープ、トースト、ライス、マカロニ
サラダの他に、メインはステーキか魚。途中で2回も停電があり、ろうそくの灯りで食事をとる。と書けば、 ロマンチックな雰囲気を想像するかもしれないが、灯りが小さすぎて、食べているものが見えない。あれ これと話が弾んだが、9時にはベッドに入った。少し蒸し暑い。ここには蚊帳があった。
15 帰国の途へ
12月29日、6時半起床。アザーンが聞こえる。7時朝食。トースト、卵料理等、毎度おなじみのメニューだ
が、果物にスイカがあった。アフリカでは初めてお目にかかる。食べてみると水っぽかった。
団長やOさん達数人は、たいてい朝出かける前に、レストランでポットにお湯をもらっていた。タダで。こ
こでも同じように頼んだはずなのにOさん、なぜかお金をとられてしまった。お湯を頼んだはずなのに紅 茶を入れてくれたのだ。しかもミルクティー。Oさん、牛乳はあんまり得意ではないのに。
出発までの空き時間を利用して、昨日は行けなかったスーパーを目指す。ホテルのフロントに聞けば、
近くに何軒かあるらしい。ぶらぶらと歩きながら探す。あった。食料品店といった感じだが、商品に値札 が貼ってあるから自分で計算ができてごまかされないだろうし、品数は豊富そうだ。ナツメヤシ、ペットボ トルのマンゴージュース、クッキー等。たくさん買ってしまった。帰って荷造りのやり直しだ。
10時、アルーシャ発。これからナイロビまでは貸切バス。出発してすぐ、街の中で運転手がバスを止め
た。「おまえ達は全員で何人だ?」「11人」。弁当箱を何個か降ろす。前もってツアー会社には私たちの人 数を伝えてあるはずなのに、なんで20個も弁当を積んできたのか、なぞだ。
一路、ナイロビへ。舗装道路を快適にとばす。暖かいし、今までの疲れもあり、うとうとと眠くなる。途中
でHさんが、「あれがキリマンジャロだ。」と指差してくれた。その方向には、かすかに山の稜線らしきもの が見えたが、頂きは雲の中だった。
タンザニアとケニアの国境の町ナマンガで出入国手続き。まずは出国カードを書く。次にケニアのビザ
をとる。そして入国手続き。いづれも、バスの運ちゃんが率先してさっさと手配してくれる。
ケニアのビザ取得について、渉外担当のHさんは、旅行前に結構悩んだ。タンザニアのビザはアフリカ
に入る時に必ず必要だから東京の大使館まで申請に行った。同じ日にもう1つビザを取りに行くのは大 変だった。しかも国境で簡単に入手できそうだ、という情報も入る。賭けではあるが、国境で申請すること にした。トラブルがあって飛行機に間に合わなくなったら、と心配していたに違いない。思ったよりスムー ズにすすみ、ほっとする。
国境地帯とはいえ、地元の人間は自由に出入りしているらしい。バスの中で待っていると、さっそく例の
お土産売りが群がってきた。真剣な目でしつこく窓を叩かれると、本当に困ってしまう。私にはこのような 売り方は耐えられなかった。が、そこはアフリカ経験者の団長とHさん。適当に値段交渉をして買っている ではないか。さすがだ。
国境を少し過ぎたレストランでお昼にする。何の花かは分からなかいが、濃いピンクの花(ブーゲンビリ
アかな?)の木が敷地をぐるりと囲んでおり、さながら花園だった。
再び走りだす。Yさんは、ンゴロンゴロでも見ることができなかったキリンを車窓から見たらしい。カカメ
ガ付近。
ようやく午後3時過ぎにナイロビ空港に着く。待ち時間で空港内の店をぶらぶらしていたら本屋さんがあ
った。タンザニアの地図があったので入手。ところが、後で聞いたみたら、メンバー3人が同じ地図を買っ ていた。何という偶然。
夜6時20分、ナイロビ発。これでアフリカの地にお別れだ。暗くなってしまい外が良く見えないのが残念。
ドバイには夜中の0時過ぎ。もうへろへろ。日本への便が2時半発なのであまり時間はなかったが、こん
な夜中なのに人はわさわさいるし、店も開いてて明るいので、しばし散歩する。
集合時間より少し前に戻ったのだが、まだ全員揃っていなかったので、待つ。ところが搭乗口で案内す
る航空会社のスタッフは、「あなたたちは日本行きに乗るのか?早く乗れ。」と、せっつく。「グループのメ ンバーが皆集まるまで待っている」と言うと、一旦は引き下がるのだが、またすぐに「早く乗れ」と言いにく る。搭乗口から飛行機までバスに乗らなければならず、時間がかかるから、さっさと客を中に入れてしま いたかったらしい。
とてもラッキーなことに、空席が多かったので、窓際から3つを1人占めさせてもらう。肘掛を上げると足
を伸ばして横になれる。映画も見ずに、ひたすら寝た。
16 日本
12月30日、午後4時過ぎに関西空港着。入国後、預け荷物を取りに行った。ぐるぐると回るコンベアか
ら次々に荷物をおろす。2週間も一緒に旅をし、何回も荷物の積み下ろしをしているので、他のメンバー のスーツケースやザックも、荷札を確認せずともすぐに分かる。ほとんどの荷物が出揃い、他の客も各 自のスーツケース等を持ち出口へ向かった。残っているのは私たちだけになってしまった。
ところが何回見ても、同じ荷物が5個位、引き取り手がなくてぐるぐる回っているだけ。私のザックがな
い! 青いザックが1個、置き去りにされている。間違えられたのだ。スタッフを呼んで事情を話す。無線 で別なスタッフに伝えると、「さっき青いかばんを持った人が出ていった。」と言うではないか。このままど こかに行かれてしまったら万事休す。アナウンスをかけてもらうように頼む。
しばらく待った。前方から小走りにこちらへ向かう人影。50代のおじさん。「カバンを開けてみたら、○○
で買った土産が無い。あせったよ。」同じ位の大きさで同じ色。おじさん、今度からは荷札を確認してから 持っていこうね。
迎えのバスがあったのでまっすぐホテルへ。食べたい物が違ったので、夕食は2組に分かれた。私は
寿司組。別に寿司が食べたいわけではなかったが、メンバーの顔ぶれを見ると、飲みそうだったから。ホ テルの2軒位先の小じんまりとしたすし屋。ビールや冷酒、焼酎など各自好きな物を頼み、スタミナ鍋や 豆腐に舌鼓をうつ。メニューに大阪名物のバッテラがあったので注文したら、無いと言われてしまった。 せっかくだからと、最後に納豆、カッパなどの巻物を頼んだ。ところが…。寿司屋なのに寿司飯ではなか ったのだ。ただのご飯。そりゃあ、アフリカから帰ったばかりの身には、米というだけで充分かもしれない けど、でもがっかり。ま、楽しく飲めたからいいけど。
12月31日、いよいよ岩手に帰る。大晦日のせいか、伊丹空港はものすごく混んでいる。が、最後の最
後、荷物検査でひっかかってしまった。今まで、他のメンバーが何回も止められても、私は全てパスして きたのに。ライターが1本、ザックに入っていた。行きの花巻空港からずっと入っていたのに、なぜかここ までは咎められなかったのね。
出発時間が迫っていたこと、今までは大丈夫だったのに、よりによって最後で引っかかってしまったこと
に腹が立ち、「どうせチェックするなら、どの空港も同じ基準で検査してください。空港を通るたびに違う物 がダメと言われるのでは、わずらわしくて仕方が無い。」と思わず言ってしまった。
そんなトラブルのせいかどうかは知らないが、飛行機は約30分遅れで離陸。機上から見ると、北上川
の東側には雪がほとんどなく、西側の山に近付くにつれて雪が多くなっていく。地理の授業を思い出し た。
花巻にも予定より遅れて到着。Sさんの奥様、Mさんの息子さん、そして相方も迎えに来てくれている。
空港ロビーにて解散。皆様おつかれさまでした。何より無事に帰ってこられて本当によかったです。
持ち物
かなり細々とした書き方だが、何かの参考になればと思い記すことにした。
壊れ物以外で、紛失したり盗まれたりしても困らない物をザック(登山用の70L)に詰め(プレゼントを含
めて約17kg)、出発3日前に宅配便で関西空港へ送り、残りは15L位の小さいザックで持ち歩いた。
*印の物は、使用しなかった分をタボラの官舎(現協力隊員の梶田さんの家)に置いてきた。
貴重品
・パスポート ちょうど2003年11月で期限切れだったので、10年ものを更新。
・現金 日本円のみ。
関空で7万円換金→約600US$、ダルで200US$換金→約20万TZシル。シルは土産物を購入して無
理やり全部使用。ドルは300位余ったので帰途の関空で再換金。手数料を考えるともったいなかった。
食べ物&飲み物
・柿の種、羊羹、かりかり梅、チョコレート、のど飴&ガムたくさん*
柿の種は酒のつまみとしてホテルの食堂に持ち込んで食べた。
チョコレートは溶けるだろうと思いアフリカに入る前に消費。
のど飴は埃っぽかったので重宝した。ガムは食事後の歯磨き代わりに。
・梅酒の小瓶1本(180ml)* ビールが数種類あり美味しかったので飲まず。
・緑茶のペットボトル1本(500ml)
飲み終わったら飛行機内の飲料水を補充する等し、最後まで持ち運んだ。日本製のペットボトルは、現
地のものより頑丈で壊れにくいので便利。
薬品類
・虫除けスプレー* 2本 ノンガスタイプ60ml、アルコールタイプ120ml各1本
手元に1本あったが、半分しか残っていなかったのでもう1本買おうと思った。盛岡市内や岩手町の薬
○堂、ドラックト○ト等を5軒位探したが、大手薬局はどこも扱っていなかった。季節外れだったためと思 われる。結局、盛岡市肴町アーケード内の小さな薬局でノンガスタイプを購入。
・虫さされのかゆみ止め* 液状タイプ30ml 1本
予防をがんばったため2,3ヶ所しか刺されず、あまり使用しなかった。
・蚊取り線香 10巻
タボラ滞在中に毎日使用し使い切った。もう少し持っていけば良かった。タボラの街でも売っていた
が。
・日焼け止め 1本 SPF50
手元にあったもの。夏の海用なので強力。おかげであまり日焼けせず。
・救急絆* 大小3種10枚位 使用せず。
・洗浄綿* 10枚位 傷口等の洗浄用。使用せず。
・その他薬 正露丸、アスピリン、風邪薬、目薬。
小瓶に詰めて少量ずつ。薬を使用するほどの事態にならなかったのでどれも使用せず。
日用品
・ライター* 5本 蚊取り線香をつける時位。でも1本全部を使い切らず。
・ウェットティッシュ* 5個
小さいものをカバンに常備。屋外で果物を貰い、その場で食べる時などに便利だった。
・ポケットティッシュ* 10個位 たまに、紙の無いトイレがあった。
・せっけん* 2個 ホテル等に置いてある小型のもの。洗顔等に1個だけ使用。
・歯ブラシと歯磨き粉 各1本 折りたためて小さくなるもの。
・かみそり* 2本 使用せず。
・薬用リップクリーム 2本 乾燥しており、くちびるが乾くので私には必需品。
・シャンプーとリンス 各1本 携帯用の小さいもの。
・コップ アルミ製1個
訪問先でお茶をいただいた時、コップが不足していた事があったので◎。
・ヘッドライト 1個
夜のトイレや読書に使用。思ったより使用頻度は低かった(それだけ「電気がある場所にいた」という事
かな)
・アルカリ単3電池12本* ヘッドライトとウォークマン用。1回も交換せず。
・カメラ用電池4本* 高所や低温では消耗が激しいと聞いたので多めに持参。2本使用。
・布テープ* 1巻 補修用等に持っていったが使用せず。
・裁縫セット* 使用せず
・洗濯洗剤、物干し用細ロープ* 使用せず。ズボン等の大物の洗濯はママに頼んだ。
・針金ハンガー* 3本 無いホテルもあった。
・小型ナイフ 1本
果物の皮むき等に。飛行機では危険物扱いになると思い、預け荷物に入れる。
・電卓 1個 交流会用の飲み物の本数と金額を計算する際に1回だけ使用。
・ガイドブック 1冊 「地球の○き方」。
持たないつもりだったが、出発10日前頃に最新版が刊行されたので、つい購入。
・単行本4冊*
古本屋で購入。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は、じっくり読んだことがなかったので、いい機会だと思った
が、結局読まず。
・カメラ 一眼レフ1台
・フィルム 36枚撮り、ASA400、5本。全部撮り終りちょうどよい本数だった。
服(身のまわり品)
Tシャツ3枚、長袖2枚、薄手カーディガン1枚、ズボン2枚、靴下4足、下着2〜4枚、雨合羽(上着だけ)、
寝巻き用ズボン、靴(ウォーキング用)、草履(さんさ踊り用、ホテルの部屋等でも使用)、浴衣(交流会 用、2回着用)、スカーフ、帽子(つばが広く折りたためるもの)、サングラス、タオル(小型2本)
・日本では、Tシャツ、長袖、カーディガン、雨合羽という重ね着に、スカーフをまく。
・アフリカ等では、Tシャツ。
・飛行機内には防寒用に長袖、カーディガン、雨合羽を持ち込んだが、それでも寒かった。
・「公的機関の訪問があるかも」と聞いてはいたが、「ま、いっか」と、襟付きシャツを持って行かなかっ
た。1枚は持った方が良かった。
・朝晩に冷え込んだら長袖を着ようと思ったが半袖で充分。1枚でよかった。
・靴下や下着類は、雨季の始めという事もあり、一晩では乾かない日もあった。
交流用(皆で用意したもの)
・うちわ 全員で30本位用意、交流会終了時にプレゼント。
・ゴム風船 たくさん、交流会最後に主に子どもにプレゼント。
・ロープ 輪にしたもの。交流会のゲームで使用。
・ホイッスル 2個 交流会のゲームで使用。
・ウォークマン 1台 交流会場にラジカセが無い場合を想定した。あったので使用せず。
・ピアニカ* 1台
団長が子供の時に使用したもの。交流会の際、日本側の出し物(歌)の時に、伴奏楽器として使用。
・セロテープ、はさみ、のり、油性マジック*
・折り紙* 大小たくさん
時間が余った時に手毬のような物を工作。ちょうどクリスマス時期だったので「クリスマスツリーの飾り
にして」と、お世話になった方々にプレゼント。
鶴や風船も子供たちと一緒に作れたので、持って行ってよかった。
・写真集 1冊 家族、冠婚葬祭、家や周りの風景、田んぼや野菜畑、紅葉や花の写真など。カバンに入
れて持ち歩き、少し時間ができた時に見てもらった。結構好評。
プレゼント(皆で用意したもの)
・団長の元教え子や、ママ、カリムさん等のお世話になった方、訪問した施設等へ贈った。
・カレンダー 訪問先に各1〜2枚
・パンフレット 日本や北東北、岩手を紹介する英文の地図やパンフレット。盛岡市観光協会(プラザおで
って)から戴く。
・古着 ブラウス、ポロシャツ、スカート等。洗濯物が乾かなかった時、公式訪問時に、プレゼントする前
に自分たちで何着か活用させてもらった。
・南部せんべい、徳利とお猪口、こけし、ネクタイ、ボールペン、ネックレスやイヤリング、タオルや手ぬぐ
い たくさん 基本的にお金はかけず、家にあった物。
・釜石第一中学校からのノートやクレヨン たくさん
・ビニール袋 たくさん プレゼントを小分けして入れるため。スーパーで貰うような袋は避け、できるだけ
かわいい、美しい袋を選んで持っていった。
「持って行けば良かった」と思った物
・トイレットペーパー タンザニア製ももちろんあったが、固く…。鼻紙としても便利。
・ビニール製サンダル シャワーの後に履けて、水に濡れてもよいもの。草履は携行したが、水を含んで
気持ち悪かった。
twende
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