再会そしてトゥタオナナ(また会いましょう)
  米澤 真奈美


 青年海外協力隊でタンザニアの高校で数学を教えて帰国してから6年ぶりの里帰り。家に帰るような気
分で行ったが、寒く乾燥した盛岡から、エアコンの効きすぎる飛行機を十数時間経過して、冷え切った体
で赤道直下の海抜0mの首都ダルエスサラームへ夜9時に到着。さすがに蒸し暑い。ホテルについてや
っとシャワーを浴びようかと思った頃、なんと教え子マニャマ、マイバ、ジェナルドの3人がホテルに現れ
た。なんでも空港で夜7時ごろから私達を待っていたのだが目の良い彼らがなぜか私達を見逃し、空港
に人がいなくなるまで待っていたが会えなかったのでホテルに来たのだという。彼ら3人は今34才ぐらい
で高校卒業後進学して(タンザニアでは大学進学率は1%といわれている)、国家公務員、電話会社社
員、会計士として立派に働いているようであった。なんと携帯電話や車を持っている人もいた。3人とも熱
心なキリスト教徒でやさしく、しっかりとした考えを持っている(高校のときもそうであったが)。到着便とホ
テルを教えておいたのでどちらかに来てくれるとは思っていたが、そんなに遅くなっても来てくれるとは抱
きしめずにはいられない。
何度もホテルに足を運んでは置手紙をしてくれて、ようやく再会できた教え子のニャンダ君




 2日目は教え子・マイバに付き合ってもらって1日観光に歩き、夜遅くまで夕食会を行った。その間に首
都の郊外からバスを乗り継いで、別のクラスの生徒二ャンダがホテルを3度も訪ねて「明朝来る」と手紙
をおいていってくれた。明朝私達はタボラへ向け朝7時半にホテルを出発予定で、タンザニアの人は時間
感覚が私達とは違うので、はたして間に合って来てくれるか心配であった。が、二ャンダは7時にホテル
に来て朝食をともにし、空港まで送ってくれた。彼はまめに手紙をくれる生徒で学校の先生になるために
勉強中で今年卒業するそうだ。きっといい先生になることだろう。そこまでして会いに来てくれるとは言葉
では表現できないが本当にありがたいことだ。「絶対また会いに来るよ」と心に誓った。

 そしていよいよタボラへ。スワヒリ語で母はママ、父はババというのだが、私がタンザニアで一番お世話
になったママがいる。私はタンザニアを離れるとき「またすぐ来るからね」と別れてきた。ママは私が年を
たずねると毎年「40才」と答えていた。今回、最初は布を巻いていて見えなかったが、ふとした瞬間に見
えたときにすでに白髪頭になっていたし、子供の年齢を考えてもママは今少なくとも「50才代」と思われ
る。タンザニアの人の平均寿命は40才代といわれている。前回帰国してから「ママが生きているうちにタ
ンザニアに帰らなきゃ絶対後悔する!」と思っていたが、あっという間に月日は流れてしまった。

 タボラに着くと相変わらず元気で明るいママと、応援している福祉作業所の当時のリーダーのカリムさ
んが迎えに来てくれていた。残念ながらババは象皮病の様な病気で亡くなっていた。ママに会えたとき、
自然と涙が流れた。生きて再会できて本当によかった。
ママと玉ちゃんとママの娘さんと一緒に


 カリムさんと連絡が取れたのは出発の直前だったが、とてもよく準備してくれていた。タボラの現状を私
達によく紹介するため、様々な見学先を用意してくれていた。本当にありがたかった。今回のツアーはカ
リムさんなくしてはこんなに充実したものにはならなかったと思う。何よりうれしかったのは夫婦で私達を
歓迎してくれ、心から心配してくれ、娘に私の名前のMANAMIとつけてくれていたこと。

 友人達との再会もある。当時、夕方犬の散歩のとき近所の子供達と毎日遊んでいたが、その頃小さな
少年ゴッティが今はもうすっかり青年になってもうすぐ二十歳だという。当時もしょっちゅう遊びに来てくれ
たが今回も毎日のように遊びに来て、懐かしがって、おしゃべりして、別れるとき小さい少年のように本当
に寂しそうな顔をしていた。
 
 
市場までボディーガードしてくれたゴッティ(かっちょえー)

 残念ながらたまたま会えなかった友人もいたし、引越しした友人もいたし、あんなに元気そうだったのに
若くして病気で亡くなっていた友人もいた。今回もみんなの胸の暖かさを感じて別れてきたがすぐまた生
きて再会したい!。

マニャマ、マイバ、ジェナルド、二ャンダの生徒達、ママ、カリムさん、ゴッティ他、私達を迎えてくれたみん
なありがとう。



 
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