搭乗整理券
つん の昔ばなし
ひょんなことから数十年ぶりで、懐かしい紙切れを つん は眼にした。それは何枚かのチケットの切れ端である。日本トランスオーシャン航空(JTA)は、当時、南西航空(SWAL)と呼ばれていた。そう、あれは今から三十年以上も昔のことである。 沖縄は沖縄県として日本に復帰してから、まだ二年目の時で、沖縄で海洋博覧会が開催される前の話である。この旅の前年に、米国は軍のベトナムからの撤退を始めていた。そして、この旅の翌年にサイゴンが陥落、ベトナム戦争終結があったという時代だ。 つん はこの旅の前年にも沖縄を旅しており、復帰間もないコザ(現沖縄市)の街中を徘徊し、軍事基地の島で戦争の臭いを嗅いた記憶がある。だが、この時の旅では本島滞在二日目には宮古に飛んだ。 しかしまぁ〜当時も金の無い、つん が交通費、滞在費を捻出するのは随分と大変だった。(預金通帳も財布の中身もスッカラカンの空財布と云う状況だった・・ね) |
宮古島 砂山 にて |
宮古に飛んだ飛行機はYS−11。ターボプロプエンジン方式の双発機であり、戦後初の国産機である。 搭乗し座席に着くと前席の後側に団扇(うちわ)が一本ずつセットされている。離陸して上空に到るまでは、この団扇を扇ぎ自らに風を送り、涼を取れという次第なのである。(ほんと、今では考えられないですね) 有視界飛行だったのか?? あまり上空には上がらず、おかげでエメラルド・グリーンの海を観ながら飛行した記憶が朧にあるが・・・ 定かでない。(もっとも那覇〜宮古間の距離は短く、離陸後高度を稼ぐ間もなく着陸となるかぁ〜) ビックリしたのは空港に着いたときである。旅客ターミナルに取付けられていた、「宮古空港」のプレートが右下に20°ばかり傾いて錆び付いていた記憶がある。(考えられなぃ〜) |
石垣市 にて |
島内の移動は宮古島、石垣島では車を雇い、石垣から竹富島への渡航や西表島での河川遡行時にも小型のボートをチャーターした。(沖縄本島はともかく、本土の観光資本が流入する前の沖縄の先島諸島では観光客も少なく、今では考えられない程に人件費、物価共に安かったのである) |
竹富島にて |
当時の先島諸島は、どこも今の様に観光開発されておらず自然も人情も伸びやかだった気がする。(今でも沖縄の離島は長閑だが、当時は浮世離れした様な雰囲気があった気がする) しかし、観光客も少なく地元民に全く人擦れした所が無い代わりに、宮古島や西表などでは道路事情など随分悪かった記憶もある。 でも、本土から観光資本が流入し観光開発が進み、道路も整備されホテル等ができ、リゾート地となる前の、あの頃の先島の方が断然に良いと思うのは、よそ者である つん の考えかも知れない。 ところで、昔よく乗っていたYS−11、この機種もすでに国内線では廃止され、姿を消したそうである。 |
西表島 船浦川 にて |
チケットの切れ端を手にし、懐かしい想い出を見つけだそうと、古いアルバムを捜しまっくった。しかしアルバムは見つからなかった。棄ててしまったのだろうか・・? 「あぁ・・あった、あった」、写真は、プリントでもネガアルバムでもなく、プラスチックケースに封入されたポジフイルムだった。 コダックのエクタクロームフィルム。そ〜おだぁ・・ 随分昔に、何度かスライド映写機で観た記憶がある。大形のダンボール箱の中を覗き込んだ。 週末には部屋の整理でもしようか・・・。 |