納 豆 売 り
休みの日にどこにも出かけず部屋に籠ったまま一日を過ごすことが、最近また多くなってしまった。
日曜日の今日は天気も悪く肌寒い一日だった。いつもと同じに目覚めたが、昼近くまでベットから離れられなかった。
食事を摂りに出かけるのも億劫だった。物憂い気分に陥りそうな自分に活を入れる様に「エイ」と掛け声をかけ、ベットから起き上がった。
小雨降るなか、歩いて10分ほどのパン屋さんに行き、焼きたてのバケットを小脇に抱え部屋に戻った。
戸外の寒さに晒された体で生暖かい部屋に戻ると、またあの倦怠感が襲って来そうだった。
窓もドアも全て開け放った。私の狭い部屋は数分もすると冷気を帯びた湿潤な外気で満たされた。
いつもの、ドリップ・コーヒーをいれる。ちぎったバケットにスライス林檎のサラダを挟んだ。
ベッドの枕元にあるラジオのスイッチを入れた。液晶パネルがFM放送のチューニングを表示している。軽やかなリズムにのって流れてきたのは、近頃、時たま聴く機会のある”
日曜喫茶室 ”という番組だった。今日のゲストの一人は、寄席で物売りの声を芸としている宮田さんと言う人だった。
飴売り、おでん屋、金魚売り。振売(物売り)声の芸は珍しく、また面白かった。しかし番組が進行するうち、私は四十数年も昔のことを思い出すことになった。それはゲストの演ずる物売りの声のなかに、懐かしくもほろ苦い思いのある売り声があったからである。
あれは確か、私が9歳、小学4年の時だった。アルバイトをしていた。早朝に仕入れに行った。物は納豆である。
当時、田舎の納豆は ヒゲ と呼ばれる薄い経木を三角形に折ったなかに大粒大豆のものが入っていた。それを四角い竹籠に入れ、濡れ布巾の絞ったもので覆い、肩から帯で提げ夜明けの町を売り歩いた。
納豆は一つ7円で仕入れ10円で売る。もうけは一本あたり3円。売った納豆にサービスとして添える青海苔を茶筒に入れて持っていた。溶き辛子も空缶に入れ持ち歩いた。今で云うトッピングである。しかし、小学生の私には五十円の売上をあげるのは容易なことではなかった。
昭和も30年代前半のことである。世の中まだまだ貧しく、なかなか物は売れない。
私も未だ子供である。あまりに売れなく嫌になって、来た道を帰りかけた。その時、或る家の勝手口から優しそうな女性の声が掛かった。
「納豆屋さ〜ん ・・・ 納豆屋さ〜ん」喜び勇んで勝手口へ向う。しかし、台所から覗いた女の顔を見て
ドキッとした。その人は、その年の春まで小学3年生の私の担任だった。たちまち顔がそして全身が熱くなった。注文を聞くのも恥ずかしく、青海苔や辛子もそのままに受取った代金を手に握りしめたまま、逃げるように表通りに戻った。そして、翌朝からその道は迂回して通った。
幼心に好きだった、優しかった○野先生。あれから一度も会わないまま、40年以上の歳月が経ってしまった。まだ達者でおいでだろうか。