仏を拝して浪曲を唸る



妻は夫を労りつ、夫は妻に慕いつぅ 〜つ 〜 
                 頃は六月なかのころ、夏とはいえど片田舎



   口を衝いて浪花節の台詞が出てしまった。壷坂霊験記の語り出しの名文句である。
つん は今、金沢文庫の特別展を観終わり、称名寺へ抜けようとしていたのである。

 「 霊験仏 鎌倉人の信仰世界 」という特別展だった。霊験仏信仰が中世の鎌倉を
中心とした世界でどのように展開し発展したかを、当時の仏像や史料から関連づけ
観せようと云う、切口での展示なのである


称名寺へ
 それにしても、浪花節を唸るとは。。。

 私の幼いころ、正月や法事の時など家へ伯父さんの来ることがあった。その伯父は大酒飲みの人で、幼い つん からすると、どちらかと云えば苦手なタイプの人だった。

 その伯父が酔って、よく唸っていたのが、壷坂霊験記という浪曲だった。口三味線を交え、「妻は夫を労りつ、夫は妻に慕いつぅ〜つ〜」とくるのである。「お里・沢市」の夫婦愛を伝える壷坂霊験記を伯父が唸るのには訳があった。

 浪曲でのヒロインの名が親父の姉、即ち伯母さんと同じなのである。伯父は伯母の名を出し、兄弟を半ば茶化し、半ば親しみを込めた感情で・・・。そんな事もあり、当時、並四ラジオから流れて来る、この曲をよく口ずさんでいて、語り出しの台詞だけは自然と覚えてしまっていたのである。

金沢文庫にて
 ところで、近年の日本の信仰は、教学的なものより現世での利益追求の方に、あまりにり重心を置いているような気がしてならない。

 中世の鎌倉人達が、特定の仏像が、何らかの利益をもたらしてくれると信じていた時の様な、純粋無垢な信仰心を持って仏と向き合っているだろうか。

 現代の様なマスコミ・通信の開かれた時代こそ、お里が沢市の為に祈り、観音さまが現れたであろうとの心情に、着目すべきではないだろうか。

 無信論者の つん ではあるが、西洋の誰かが言った「信仰は阿片である」との考えは持合わせていない。いや、仮に阿片であっても手術に麻酔が必要なように、世の権力から遥かに離れた所で、純粋に救いを求める者に、それは必要かもしれない。また、つん もそれなりの宗教観を持っていると思うのである。

 親父や酔って浪曲を唸っていた伯父、そして伯母、皆、遠の昔に鬼籍に入り、仏となってしまった。故人の心根を信心の糧として、生きていきたいこの頃の つん なのである。


 仏も昔は人なりき 我等も終には仏なり
       三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ

 
                                  梁塵秘抄から



    つ ん
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