蜩 (ひぐらし)


先日、仕事の打合せで出張した。その帰りに
入社当時、半年ほど住んだ所の最寄り駅を通った。

駅が近づき、駅名のアナウンス。
私の胸に、ほろ苦い感情がこみ上げて来た。

停車した車窓から見える夜景は、
三十数年前と全く違う場所に見えた。

そのことで、少し寂しい思いに駆られたが、その反面
何故か ホット するような複雑な気持ちになった。

色んなことに目を瞑り、進学を諦め職についた。
当時、まだ駅周辺には田んぼや畑も残っていた。
駅のプラット・ホームの外れから、
私の住む部屋の在り処も見えていた。

マンションなどの住宅で埋め尽くされた
今となっては、黄昏時になっても、
もう、あのころの様に、蜩(ひぐらし)の
鳴く声が聞こえてくることは無いのだろう。




「カナ・カナ・カナ・カナ」 セミの鳴き声が降り注いでいた。蜩だ。

会社が私たち中途採用者の為に借り上げ、与えてくれた寮は
霊園の在る丘陵地から連なる緑地の末端にあった。
当時、寮の周辺には、まだ自然も随分残っていた。

あの日は朝からラジオもテレビも
人類初の月面着陸の特別番組を流し続けていた。

アポロ11号がケープ・ケネディを飛び立ったのは、
私が準社員として、中途採用された日の前日だった。
そして、それから4日目の朝早く、アポロの月着陸船が
月面「静かの海」に着陸を果たしたのだ。

月面におりたった、アームストロング船長のメッセージ。

「 一人の人間にとっては小さな一歩だが
人類にとっては大きな一歩である。 」

大みだしが号外の紙面に踊っている。
輝かしく、華やかな出来事。

額の汗を拭いながら、ここ数年のことを思い返していた。



夜明け前に起きて仕事の準備をし、日が天空に昇る頃仕事から戻った。
遅めの朝食を摂り、最寄駅に向う。山手線の神田駅まで出て予備校に通った。

予備校では寝不足と仕事疲れで居眠りすることも多かった。
夕方からの仕事のため午後の授業も全ては受けられなかった。

夜の帳が下りる頃、仕事から戻り、シャワーで汗を流した後の学習。
部屋で机に向うものの、睡魔に襲われ教材の上に俯したまま、
夜半になって目を覚ました。意志の薄弱さを呪い自己嫌悪に陥った。

田舎の工高を卒業した翌年だった。
当時、私は東京の東の隅に在る街で暮らしていた。

渥美清の映画で有名になった ”帝釈天” も程遠くない所にあった。
しかし、その頃は”帝釈天” も知らなかった。まだ、”ふうてんの寅さん”が
主人公となる、あの映画が始まり、そしてシリーズ化される前のことなのだ。

東京に出て来て、社会のことなど右も左も判らぬ田舎者。
一人都会の片隅で、遮二無二、生きていた。

今から考えると、最初から結果は判っていたのかも知れない。
当然の如くの挫折。自分の心を納得させるための、
言い訳さがしの日々。本当の理由は、とうに、
自分では判っていたはずなのに。



「アポロ11号の月着陸船は ・・・・・」
特別番組が流れている。私は額の汗を、また拭った。


挫折した事実に甘えていても、生活の糧にはならない。
あれも、それも、これも、全て含めて自分の生き様には
自分で責任を持たねば為らないのだろう。

時間は立ち止まって、自分を待っていてくれはしない。
辛くても、人生前にしか進まないのだから。


「カナ・カナ・カナ」 また、ひと頻り蝉時雨(せみしぐれ)が続いた。




「ガタン ・・ 」駅のホームから電車が離れた。
「次は ・・・ 」 車掌のアナウンス。

車窓に広がる光の海が滲んで見えた。



ながらえば またこのごろや しのばれむ
        憂しとみし世ぞ 今は恋しき
                    

                              藤原清輔朝臣

 

   つ ん
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