藜(アカザ)の杖
春は枝頭に在って已に十分
二月半ばの、この時期になると思い出す、詩の一節がある。
春在枝頭已十分
宋の詩人、載益の <春を探るの詩>である。
彼は、こう詠うのである。今の生活の中に、幸せを探せと云っているのだろう ・・・。
終日尋春不見春
杖藜踏破幾重雲
帰来試把梅梢看
春在枝頭已十分
終日春を尋ねて春を見ず
藜(あかざ)の杖をつき踏破す幾重の雲
帰り来足りて試みに梅梢を把りて看れば
春は枝頭に在って已に十分
人間、己の身の丈を知り、生きて行かねばと思いつつ、
修行の積んでない私のこと、これもなかなか難しい。
少し寂しい、最近の つん なのである。
ところで、この詩を思い出す度に、いつも不思議に思うことがある。
アカザの杖である。アカザやシロザは幼い日に、茹でて
お浸しや胡麻よごし で食べた(食べさせられた)記憶がある。
父と近所の荒地に野草摘みに行ったこともあり、幾度となく眼にした
植物なのだが、杖に出来そうな大きさまで、育ったのを見た記憶がない。
小学生の時、長い夏休みの終わる頃、草原で70〜80cmまで育った
アカザを見たことはあるが、1mや1.5m程まで育ち、丈のあるものを
見た記憶が無いのである。