慶雲(留五郎)狛犬のルーツを探る
ここからは全くの個人的推論です。 内藤慶雲と聞いて誰もが思い浮かべるのがこの「耳と目や鼻の顔つき、前足に独特の個性を持った」タイプでしょう。 これは留五郎のオリジナルなものだと思っていました。 しかし、横浜一之宮神社(神奈川区入江)と水天宮(南区南太田町)の狛犬を見て以来、長い間どうとらえたら良いのか悩んでいました。
明治13庚辰年2月 横浜一之宮神社(横浜市神奈川区入江)
神奈川飯田道 石工 岸文右衛門
明治23年9月吉日 水天宮 (横浜市南区南太田町)
石工 発起人 紅葉丑五郎
そして、たどりついた結論は、 留五郎は「石文」岸文右衛門の元で修行をしたのではないか? あの個性的な狛犬は「石文」のオリジナルで、それを留五郎は学んだ後、独立したのではないか? と言うことです。 岸文右衛門(屋号「石文」)は同じ名乗りで宝暦年間から六代に渡って続いた神奈川宿の石工。 六代目の岸文右衛門(文吉)については「…亦名非凡なる手腕ある石工にして……其門下には優秀なる石工多数輩出し関東随一の石工ときこえたり。」と記載した文書もあり、明和から大正にかけて29の石造物にその名が刻まれています。 留五郎の最初の狛犬は明治13年9月の小金井神社(東京都小金井市中町)で、岸文右衛門の狛犬は上記のように明治13年2月です。 それ以前のものは現在残っていませんので断定は出来ませんが、文右衛門はこのタイプの狛犬を彫っていたのではないでしょうか? そして、もう一つの狛犬、明治23年の水天宮のものは石工発起人として紅葉丑五郎の名があります。 しかし、成田山新勝寺や成田山横浜新栄講の大きな獅子山などにその名を刻んでいる石工が、他の狛犬を真似て作るとは思えません。 石屋として紅葉丑五郎が岸文右衛門へ狛犬の作製を依頼したのではないでしょうか? 他にも地域を異にしてこのタイプの狛犬がいくつかありますので何とも言えない部分もありますが、あくまで現時点における私の推定した仮説です。 ◆参考文献 「東海道神奈川宿の石工たち」北村正幸
本法寺(神奈川県横浜市小机町1,379)の境内 慶雲の銘が刻まれた最も素晴らしい作がこの水盤です。 横浜市の文化財に指定されていて、こう記されています。 「水穴にわだかまる龍と、側面に胴体を絡ませて首をもたげる龍。2体の龍と鉢を一石彫成したもの。上方の龍の胴体に管孔を通して龍口から水を吐く構造。巨石材を用いた一石彫成の手水鉢は、意匠性にすぐれ、伝統的石彫技術を誇る近代石造物として横浜市指定有形文化財(石造建造物)となっている(指定日:平成6年11月1日) 銘は 「明治三十五壬寅年一月二十七日」 「溝ノ口石工 内藤慶雲 神地石工 松原裕太朗」 石工銘が2人並列で刻まれていますので、どちらかの石工が彫刻し、どちらかが請け負って設置したものと思われますが、彫刻が慶雲なのではないかと思っています。 神地(川崎市中原区上小田中)石工は延享3年から続いたこの地区では老舗とも言える石屋、従って「このような大きな仕事を請け負い、新進の腕の良い石工へオーダーした」とは考えられても、その逆は考えにくい気がします。 二つの石屋が協同で並んで彫ったとか、部分に分けて彫ったということもありえるとは思いますが… いずれにしても素晴らしい作で、そこに内藤慶雲の名が刻まれていることが嬉しく誇らしく思います。