岡崎古代型狛犬〜誕生の経緯を追う 山田 敏春

岡崎古代型狛犬は円丈師匠が「招魂社系」あるいは「鈴しょうわ」と呼んだものです。
招魂社は1938年の内務省令により護国神社と改称されましたので、護国神社系あるいは護国系とも呼ばれます。
この岡崎古代型狛犬はその名称から岡崎が発祥と思われていますが、正しくは三代目酒井八右衛門が大宝神社(
滋賀県栗東市綣の木彫狛犬(写真下;国重要文化財/写真は上杉千郷「狛犬事典」より)を参考にして造り上げ(根津神社・文京区根津)、それを多和田泰山が制作技術と共に岡崎へ伝え、そこから全国へ広まったものではないかと思われます。
その経緯を山田さんに追って頂きました。(阿由葉)

泰山と岡崎古代型狛犬

日本橋の欄干の獅子像のデザインを東京美術学校(現東京芸術大学)に依頼したところ古い木彫狛犬(奈良県手向山八幡宮の狛犬など)を参考にして制作、明治44年4月3日に竣工しました。
このことで芸術家達が狛犬の原型制作に携わって行くことになります。
断片的な記述を元に多和田泰山の足跡を推測してみました。

    日本橋の東京都マークを持ったブロンズ製獅子  明治44年4月3日
    原型製作 彫刻家の渡辺長男  鋳造 彫刻家で渡辺の義父 岡崎雪聲
    (奈良県手向山八幡宮の狛犬などを参考に造型)

高村光雲の孫弟子と言われる泰山も上野の東京美術学校に在籍したと思われます。
その上野には東照宮があり酒井八右衛門が大正3年に制作した狛犬がいて、近くの根津神社には大正元年に制作された大宝神社型石造狛犬の元祖がいます。
当然泰山もこれらを見て下絵を描いたと思われます。
因みに泰山は鋳物原型師彫塑家彫工彫刻家と呼称されています。

根津神社(東京都文京区根津1-28-9)大正元年9月建之  石工 井亀泉  大竹豊吉 彫

大宝神社の木彫狛犬を参考にして三代目酒井八右衛門が造りあげた狛犬を畳商の青木宇右衛門が奉納。
2年後に更に力強くなった第二弾が上野東照宮へ奉納されている

東京にいた泰山と岡崎の繋がりは昭和2年頃岡崎に招かれて二宮金次郎の銅像原型を制作したところから始まり、石造の二宮像の原型を作成しました。

なお、戦時中の金属供出による二宮像の銅像の替わりとしてセメント像を東京美術学校で研究していましたが、この原型を造ったのも泰山であるといいます。
泰山が岡崎で教えたのは「下絵から粘土で原型を作り石膏像にする彫塑という技術」と「小さな原型から拡大制作する方法」であったとのこと。
泰山のもとには仏像狛犬など手掛ける美術石工と呼ばれる石工達が集まり、彫刻の勉強をやり直したといいます。
そのことで岡崎石工の技術が向上し、美術石製品の質が高まりました。
この時に大宝神社型狛犬の原型も造ったものと思われます。
昭和9年に泰山は亡くなりましたが、翌10年には大宝神社型の狛犬が「岡崎古代型」として生まれたと伝えられています。
泰山の墓は岡崎市の円頓寺にあります。

第六天榊神社(台東区蔵前) 昭和15年6月 皇紀二千六百年記念


                     2023年153号 山田 敏春(写真及び写真注:阿由葉)