甲高いエギゾーストノーズ。何年ぶりだろう。シルバーストーンで
F1を見る幸運に恵まれた。私は鈴鹿サーキットのある三重生まれ。
サーキット遊園地で、幼少の頃、スケート、ボーリングをたしなむ。
もちろん、ゴーカートでサーキットは経験済みだ。紅白の路肩を
試してみた実践派だ。路肩はガタガタだった。
小学生時代は、スーパーカーブーム。カードを集めて全部覚えた
ものだ。マセラッティ・ボーラなんていう名前も20年以上覚えている。
山田隆夫のスーパーカークイズで、僕のほうが知っていると、
夢中になっていたものだ。
今でいえばポケモンを覚えるのと同じだ。違いは、ゲームで楽しむの
ではなく、トランプでカードを掛け、取り合いしていたことかな。帰り道で、
カウンタックを見た。おお、なんとも言えない気持ちだ。渋滞だったので、
運転手はある程度前があくまで動かさず低速運転を避けていたのが
印象的だ。
シルバーストーンは特に思い入れがある。最初にF1をみた87年鈴鹿。
その年のシルバーストーンのマンセルとピケのバトルは見ごたえが
あった。マンセルの追い上げは尋常でない。もともと早いし、いいマシン
に乗っている。しかしステディでなく、最後に追い上げることが多かった。
かなりムチャな方でファンも多い。このレースもピケを追いかけ、
ハンガーストレートで、左右にフェイントを掛けて、ピケがブロックしに
きたところを逆に振って抜いていった。そこは300キロ以上出ている。
今年、シューマッハがタイヤバイアに突っ込み、足を折った場所だ。
私は朝4時に出発し、5時にシルバーストーンに到着。最初は、バケッツ
とチャペルコーナでモニタ付で見ていたが、ハンガーストレートも見られる
場所に移った。レースはシューマッハのクラッシュ赤旗。ハッキネンの
リタイアなどあったが、レース展開は平凡だったかもしれない。
シルバーストーンは自由席が多く、最初の頃の鈴鹿を思い出した。
席を争ったりすることもなく、皆リラックスムードだ。日本のようなオタクっ
ぽい人達は、あまり目につかなかった。ブームなんてものもなく、
老若男女、老いも若きも、毎年、フェラーリとイングランドドライバーを
応援しているのだろう。皆帽子をかぶっている。ヒル、フェラーリ、ジョーダン、
が圧倒的。最初に、クラッシクカーでドライバーがパレードするのもいい。
鈴鹿とシルバーストンの違いをもう一つ。鈴鹿サーキットへ行く途中、
必ず数台事故っている。F1サウンドに乗って、かっ飛ばすからだろう。
ここ英国では、事故車の変りに故障車が目立つ。日本車の信頼性を
改めて認識する。トヨタ・ホンダが売れるわけである。英国では、普通の
道路を100kmは出しているので、F1帰りでも事故らないのかもしれない。
D・ヒルが今年で最後なので、皆拍手だ。他にも、E・アーバイン、
D・クルサードがいるが、彼たちは、アイリッシュ、スコティッシュなので、
イングランドのヒルを応援する。少し違うが、90年に鈴木亜久利が3位
の快挙にもかかわらず、中島悟の6位を皆が拍手したいたのを思いだす。
ところで、私が行くと波乱だ。一番面白かったのは、89年のレース。
最後までセナ失格がわからず、彼の鬼気迫る追い上げに、興奮した。
今年も、鈴鹿に行こう。帰り道は、駐車場をでるまで渋滞したが、大渋滞
にはならずに帰れた。
1987年:鈴鹿:大学1年
予選でチャンピョンを争っていたマンセルがクラッシュ。
決勝出場せず。優勝はフェラーリ・ベルガー。
チャンピョンは、ウイリアムズ・ピケ。
この頃、セナはロータスホンダで中島とチームメイトだった。
1989年:鈴鹿:大学3年
プロストとセナがシケインで接触。プロストリタイア。
レースを続行し1位でゴールするもセナは失格。
優勝は、ベネトン・ナニーニ。
チャンピョンは、マクラーレン・プロスト。
1990年:鈴鹿:大学4年
プロストとセナが1週目、1コーナで接触。リタイア。
売り出し中だったティレル・アレジが予選でクラッシュ。決勝棄権。
優勝は、ベネトン・ピケ。
チャンピョンは、マクラーレン・セナ。
1994年???:鈴鹿:
レースの記憶が薄い。
1999年:英国シルバーストーン
シューマッハが1週目、ハンガーストレートでクラッシュ。
優勝は、マクラーレン・クルサード。
チャンピョンは、たぶんマクラーレン・ハッキネン。
つづく
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