8日か9日か?あんな大事件があったのに、日にちを思い出せない。
兎に角今日10日は、艦載機が上空を飛びまわっていて野良仕事ができず、今日で田植えが終わり、明日は早苗振り、お祭りのはずなのに、また一日延びた。
たしかにこの辺りには、飛行場もある、軍需工場もある、が、それにしても、空襲が多すぎる、B29爆撃機をはじめ、艦載機の大編隊、そのなかにB17爆撃機が入っていて、田んぼのなかに爆弾を落として行く。
またまた情報通のかめやす君の話し、 以前一度だけ皆が見たことのある、戦闘機にしては胴太い、爆撃機にしては小型の飛行機、あれは「菊華」といってプロペラ無しで飛べる飛行機で、ドイツで開発されて、むこうでは、ジエット戦闘機と言って、物凄く早く飛び、大活躍しているそうだ。
その技術が日本に来て、製作しているのが、町を挟んでわれわれの村とは反対側にある(中島製作所)だったから、当然、空襲も多いと言うわけだ。
私が大変な経験をしたのは、この日と違うのは確かなのだが、前日か、前々日か?がはっきりしない。
当時新聞(といっても藁半紙一枚の薄っぺらのものだったが)は、一括で学校に来る、先生が各部落の戸数だけ数えて、上級生に渡す、あとは各自当番で、配達するのだが、その日は私の当番日だった。
警戒警報で帰宅したが、空襲のようすも無いので、隠居所に疎開していた大島の叔母さんの赤ちゃん、和義君を背負って新聞配達に出る。
ぐるっと廻って、西の端、杉本さんの家、この家には当主と同級生だったと言う私のもう一人の叔母さん川上一家が納屋を借りて疎開していた、従兄弟の進君とその姉キミちゃんがいて、赤ん坊を降ろせと言ったのだが、私はそうしなかった。
最後の一軒、同じ杉本さんだが200メートルほど離れた畑のなかに建つ「甚四郎さん」のいえに向かった、農道の両側にはトウモロコシが背丈ほど伸びていて、その隙間から見える遠くの田んぼでは、今日が最後と思われる田植えの一団が見えていた。
急に空襲警報、急いで配達を済ませて農道に出ると、もう敵機が現れていた、走る私に、「危ない、伏せろ」と、従兄弟やおばちゃんの、必死な叫び声、咄嗟にトウモロコシ畑に逃げ込んで、赤ん坊を下にして上向きになった上空すれすれに、パチパチと機銃掃射しながら、敵機が飛び去る、来ないのを見極めた心算で農道に出る、 来た、逃げる、 飛び去る、やっとの思いで、納屋までたどり着く、と、気になるのは、田んぼの人達、従兄弟たちと一緒に物陰を伝わって見えるところに行って見ると、小川に跳びこんで、頭だけ出している一団を目がけて、二機三機と襲っている、見ていると、人間には弾が当たらないようにわざと、周囲を攻撃しているように見えた。 「遊んでやがる」 とだれかが呟いた。
たしかに、この数日で、機銃掃射を受けた者は何人かいるが、あの飛行機撃墜以外はけが人は出ていない、 にしても、恐ろしい出来事だった。
戦後、従兄弟たちが、それぞれの家に帰ったあとは、ほとんど連絡もなしだった(十台後半に半年ほど南千住大島家には、世話になったことがある)のに、私に初孫が出来た時、ゆりかごに滑り台、独りで遊ぶ車の玩具などが送られて来た、あの和義君からだ、 本人は勿論赤ん坊の頃の出来事なので、覚えている筈はないけど、周りの人達から始終聞かされていたそうだ。現在は運送業を営んでいて、主として玩具のバンダイを中心に頑張っていると言っていた。
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