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2005年7月10日(日)
 大編隊

 8日か9日か?あんな大事件があったのに、日にちを思い出せない。
兎に角今日10日は、艦載機が上空を飛びまわっていて野良仕事ができず、今日で田植えが終わり、明日は早苗振り、お祭りのはずなのに、また一日延びた。
たしかにこの辺りには、飛行場もある、軍需工場もある、が、それにしても、空襲が多すぎる、B29爆撃機をはじめ、艦載機の大編隊、そのなかにB17爆撃機が入っていて、田んぼのなかに爆弾を落として行く。
またまた情報通のかめやす君の話し、  以前一度だけ皆が見たことのある、戦闘機にしては胴太い、爆撃機にしては小型の飛行機、あれは「菊華」といってプロペラ無しで飛べる飛行機で、ドイツで開発されて、むこうでは、ジエット戦闘機と言って、物凄く早く飛び、大活躍しているそうだ。
その技術が日本に来て、製作しているのが、町を挟んでわれわれの村とは反対側にある(中島製作所)だったから、当然、空襲も多いと言うわけだ。
私が大変な経験をしたのは、この日と違うのは確かなのだが、前日か、前々日か?がはっきりしない。
当時新聞(といっても藁半紙一枚の薄っぺらのものだったが)は、一括で学校に来る、先生が各部落の戸数だけ数えて、上級生に渡す、あとは各自当番で、配達するのだが、その日は私の当番日だった。
警戒警報で帰宅したが、空襲のようすも無いので、隠居所に疎開していた大島の叔母さんの赤ちゃん、和義君を背負って新聞配達に出る。
ぐるっと廻って、西の端、杉本さんの家、この家には当主と同級生だったと言う私のもう一人の叔母さん川上一家が納屋を借りて疎開していた、従兄弟の進君とその姉キミちゃんがいて、赤ん坊を降ろせと言ったのだが、私はそうしなかった。
最後の一軒、同じ杉本さんだが200メートルほど離れた畑のなかに建つ「甚四郎さん」のいえに向かった、農道の両側にはトウモロコシが背丈ほど伸びていて、その隙間から見える遠くの田んぼでは、今日が最後と思われる田植えの一団が見えていた。
急に空襲警報、急いで配達を済ませて農道に出ると、もう敵機が現れていた、走る私に、「危ない、伏せろ」と、従兄弟やおばちゃんの、必死な叫び声、咄嗟にトウモロコシ畑に逃げ込んで、赤ん坊を下にして上向きになった上空すれすれに、パチパチと機銃掃射しながら、敵機が飛び去る、来ないのを見極めた心算で農道に出る、 来た、逃げる、 飛び去る、やっとの思いで、納屋までたどり着く、と、気になるのは、田んぼの人達、従兄弟たちと一緒に物陰を伝わって見えるところに行って見ると、小川に跳びこんで、頭だけ出している一団を目がけて、二機三機と襲っている、見ていると、人間には弾が当たらないようにわざと、周囲を攻撃しているように見えた。 「遊んでやがる」 とだれかが呟いた。
たしかに、この数日で、機銃掃射を受けた者は何人かいるが、あの飛行機撃墜以外はけが人は出ていない、 にしても、恐ろしい出来事だった。
戦後、従兄弟たちが、それぞれの家に帰ったあとは、ほとんど連絡もなしだった(十台後半に半年ほど南千住大島家には、世話になったことがある)のに、私に初孫が出来た時、ゆりかごに滑り台、独りで遊ぶ車の玩具などが送られて来た、あの和義君からだ、 本人は勿論赤ん坊の頃の出来事なので、覚えている筈はないけど、周りの人達から始終聞かされていたそうだ。現在は運送業を営んでいて、主として玩具のバンダイを中心に頑張っていると言っていた。

2005年7月7日(木)
七夕
牽牛も    覆われていて
織姫もまた   逢うも叶わず
煙幕に
我が家の裏には竹薮がある、ただ孟宗竹なので、大きすぎて七夕の笹にはならない。
だから、祖父が近所の真竹藪からもらってくるか、川岸に生えている篠竹のなかから、適当なのを選んで伐っててきて庭の隅に立ててくれる、私が気がついた時はそうだったから、おそらく兄や従兄弟の兄ちゃんたちのために、以前からやっていた行事立ったのだと思う、例年なら、朝早くに、隠居所の横を通り、竹薮を抜けて、丸木橋を渡り、裏の畑に出て、里芋畑に行き、葉の上にころころと丸くなって溜まっている朝露を集めてきて墨を摺り折り紙で作ったたんざくに願い事を書いてに括り付ける、私達兄弟だけでなしに従兄弟や近所の子、(私の頃は、向かいの清ちゃん、や、武、忠志、と、結構大勢集まって、丸いお膳の前に座って書くので、順番待ちやらで、一日中賑やかだったものだ、大概の年は、竈に据えた大釜で、今年採れたてのジャガイモを茹でて、塩を振ってた食べるのも楽しみだった。 真上に蛇行して走る天の川の無数の☆のなかから、織姫や牽牛をを探したりして、楽しく騒いだものだ。
今年は一切なし、みんな灯火管制で、電灯を消した部屋の中で息をひそめていた。
2005年7月6日(水)
 軟水気
空中戦     喜ぶ老人
 味方と敵が  泣き出す子供
 逆に見え

 クリーニング業界は勿論のこと、飲食業、その他、仕事の根源に水を位置づけている業種は限りなく多い。
むかしから硬質の水で営業してきたものにとっては悩みの種だった、 例えばYシャツ、白く、冴え渡るような感触で、お得意様に満足してもらおうとすると、洗剤、助剤に凄く気を使う。
幸い近頃軟水機の業務用を開発した会社があったので、早速取り入れることにした、 今日はその設置日、年寄りの冷や水と言われるのは承知で 設置作業に付き合っていた。
近畿では我が社だけ、と云うだけあって、営業マンも高飛車なら、作業員もいい加減、近頃では珍しい会社だけど、業績は爆発的に伸びているらしい、世の中、頭の使いようだと、感心した。
60年前の我が田舎、空襲警報と同時に近くの飛行場から我が軍の飛行機が飛び立つ、 勇ましく迎撃かと思いきや、襲撃を避けて、敵機の飛び去るまで非難しているらしい、例のカメヤスの解説によれば、(本土決戦に備えての戦力温存策)らしい。
蝿の数ほど飛んでいる敵機のなかに、来た一機、飛行場に向かって、日本機だ、アメリカ軍の中の一編隊四機が、それに向かう、激しい空中戦、 
見上げていた子供達の観想 (あれは体当たりしょうとしたんだ)、 四機のなかの一機を執拗に追いかける日本機をまわりの三機が追い詰めて攻撃、 とうとう機体から火を噴いて、一瞬、大空にむかったとおもったら、宙返りして、急降下、操縦士が脱出して、落下傘が開く、その落下傘目がけて、再三、再四、機銃掃射を浴びせる編隊機、見ているもの皆涙、状況を勘違いして、落下傘が敵兵と思い 「くそー、ぶっ殺してくれる」、と竹槍を持って飛び出した老人がいる。
間もなく帰って来たマサやんのはなし、 「太もものあたりに貫通銃創を負い、憲兵のサイドカーに乗せられて行った」。
田んぼの中に墜落していたのは、紛れもなく翼に日の丸だった。
 また今日も田植えの進行はゼロ。

2005年7月5日(火)
田植え
田植えする    多い少ない
 五月女たちの   怒声ばっかり
 掛け声

 田植えの日程は例年決まっていた、6月5日、阿久津さんちの屋敷田から始まる、もっともこの日は半分お祭りで、明日からの本格的な忙しさに備えての準備の意味合いがあって、午前中で切り上げる、
村中が三組に分かれて、明日からの段取りを確認しあって準備完了。
朝、一番列車の (ぽー<汽笛>)を合図に、女たちは苗代に入り、抜いた苗を一握りづつ、藁しべで括っておく、男は馬を引いて、水を張った田んぼを鋤で掻きならす。
母ちゃんたちが一仕事終えて、朝飯に帰って来ると、子供達の出番だ、その日の当家は、赤飯を炊き出すのが決まりなので、子供達は競って手伝いに出る。
馬が耕したあとを、道具を使ってていねいに慣らしていく者、船(の形をした板)を引っ張って、苗を運ぶ者、簡単なようで結構難しい、 苗が多すぎるの少ないの、田の面が凸凹しすぎだのと、後から母ちゃんたちの小言を食わないようにするには、手馴れたリーダーがいないと大変だ、朝食を終わるとすぐに、大人達も田植えにかかるから、追われ通し。
子供の中で特に大変だったのは綱引き、ソロバン珠を等間隔に編みこんだ麻縄を引っ張って、その珠の根元に苗を植えてもらう。 これが、正常植え、と言って、縦、横一直線に植えないと後で役所の人から小言を食う、大人達が一条植え終わって一歩下がった瞬間に、さっと、綱を移動させるには、向こう側の仲間と常に意気を合わせていなければならない。
大忙しの一ヶ月が過ぎて、7月5日の阿久津さんの屋敷田に戻って、田植えシーズンが終わる
明けて6日は早苗振り、お祭りだ、各自が、働いた日数と、働いてもらった日数とを計算しあって、一日分米何升で清算して、一番米を出した(大百姓)の家で、ご馳走を作って、お祝いをする。
 例年なら終わりの日だが、この年はまだまだ田植えが済んでいなかった。
連日の空襲警報で、作業が進行しない、この日も、子供達は、消防詰め所に集まって敵機の飛ぶ上空を見上げていた。
向かい側、亀井さんの屋敷の生垣の間から、滝沢の健ちゃんが、姿を現した、健ちゃんの家は、詰め所の隣、こっち側に来たがっている、「来るな!危ない!じっとしていろ」、 制止も聞かず、彼が道路に飛び出した、 <だ・だ。だ・だ> 機銃掃射だ、間一発、彼は我々のところに飛び込んできた。
銃と云うのは、弾を発射すると、空になった薬莢(きょう)を飛び散らすらしい、敵機の飛び去ったあとには、道路と言わず、詰め所の屋根といわず、空薬莢が散乱していた。

2005年7月4日(月)
 破片
空を飛ぶ      振りかざす子らは
 敵機目がけて   勇気一杯
 竹槍を

 村八分、と云う言葉は今は死語になったのかな? 何かの訳があって、隣近所との付き合いを絶たれて、孤立した生活をすることを、八分に遭うと言う。
二分の付き合い、火事と葬式だ、この時だけは村中が一致協力して助け合う、まして、池田さんのところは、そんな境遇の家と違って廻りの人望厚い家だったから、村中挙げてのジャンボ(葬式)になる。
子供達にとっては理由は要らん、白米、それも、祝い事なら赤飯の、赤色と豆抜きの、もち米のおにぎりが振舞われる、竿竹の先に取り付けた笊の中に小銭が入っていて、家から墓地までの行列の先頭に立ち、道中、角を曲がるたびに、そのかごを大きく振って小銭を撒き散らす、行列が通り過ぎるのを待って、子供達が競ってその小銭を拾う、 また次の曲がり角、と云う具合だ。
仏様に対して、不敬だ、と叱られながらも、村中全員出揃っての(事情は違っても)一種のお祭りだった。
明けて4日、警戒警報で家に帰る、続いて空襲警報、 マッチ棒編隊が四群・五群、轟音を残して飛んで行く、市内を取り囲んだ高射砲陣地からは、空が真っ暗になるほどの迎撃、だけど、離れた距離にいる我々から見ると、敵機は砲弾の炸裂するはるか上空を悠々と飛んでいる、事情通の亀保君の解説によると、高射砲の煙幕で、市内の撮影を邪魔しているらしい、 大人達は、軍需工場のある大田(群馬県)あたりが狙われているのと違うか?と云う話しだ。
1時間もしただろうか、帰って来た、煙幕の中から一機、こっちを目がけて落ちてきた、マッチ棒から鉛筆、鉛筆から丸太棒、まるたん棒から、 うわー、でかいわ、 逃げ惑う我々の上空で、うんこみたいな爆弾の5・6個落として上昇していった。
地鳴りがして、山の中で爆発して、警報解除、我々は落下地点目がけて走った、以外に遠くて4キロくらい走ったろうか。
有った、大きな穴だ、周りの木々はまだくすぶって、煙を吐いている、高圧線の鉄柱が一本折れ曲がって倒れている、電線が千切れている、近づけないので、遠回りに探してみると、同じような爆発穴が四つ、凄い威力だ、熱々の破片のなかから手のひら大の破片を集めていると四方から徐徐に人々が集まりだしてきた。
その中のひとり、おじいさんが我々のところに来て、その破片を譲ってくれ、と言う、記念にすると言って、三円くれた。
我々少年団の念願、宮の大正蓄音機店のガラスの棚に飾ってある十二円のラッパ、先輩の代から二年、田螺(タニシ)をとったり、荒地を開墾してサツマイモを植えたりして、貯まった金が六円、そこに三円だから、張り切って破片を集めたが、あとは誰も買ってくれなかった。

2005年7月3日(日)
 白鷺 (シラサギ)
シラサギに
 騙しだまされ 下校する

 その日は珍しく警報も鳴らず、梅雨明けが近いのか、穏やかな青空だった。
昼食時、弁当を食べる、この時期、農家でさえ蓄えの米は底を突き、収穫の終わったばかりの麦とジャガイモの間に一割ほどの米を繋ぎに使うのが、どの家でも定番、それでも弁当を持ってこられる者はまだましで、どのクラスでも、その日によって顔ぶれは変わるが、三分の一くらいの人数は、昼食抜きで、校庭に出て行ってしまう。
クラスによっては、みなが少しづつ残しておいて、先生が席を立った後で、校庭の友達を呼び、みなで分け合う事もあり、実際、わたしの組でも、しばしばそんな事をしていた。
その日は様子が変だった、校庭に出た友達が一ヶ所に集まって上空を見上げて騒いでいる、皆一斉に飛び出して見ると、斜め前方、私達の部落の上空のあたりに、白鷺が十二・三羽飛び回っている、中に一羽、黒いのがいた。
 カラスか?違う、トンビか?判らん、五位鷺とも違う、初めて見る鷺の集団だが、兎に角、相手は鳥のことだから、皆気楽に見物していた。
黒は敵機・白は味方の飛行機に見立てて、ワイワイやっていると、教員室から カン‘カン‘カン と非常召集の鐘だ、慌てて教室に入ると、担任の先生が来て、< 敵機来襲だ、皆支度をしてすぐ帰れ、敵機に見つからないように、充分気を付けるようにして、帰れ> 。
なんだか可笑しな話だが、勉強が無いのはありがたい、こっちは理由が判っているから、遊び気分で下校した、 それにしても、あの時、本当に空中戦と勘違いしてか?われわれを帰したくての処置だったのか?先生たちの考えが、未だに解らない。
家に近づくにしたがって、異常に気が付いた、何処かの田んぼにいるはずの大人達の姿が、何処にも無い。
「そうだ、今日は、池田さん家のジャンボ(葬式)の日だ、」 戦死して白木の箱で帰還した、にいちゃんの葬式の日だった。
皆が駆け出して、お葬式に参列したのは、言うまでもない。

2005年7月2日(土)
 ピカ・ドン(原爆)
風船で、    アメリカ攻撃
 新型爆弾    真面目の作戦
 運び行き

 戦後も60年が過ぎた、 当時小学校5年生だった私も当年取って71歳、よれよれの老人になってしまった。が、
私(たち同年代)にとって、60年前の今日から8月15日の、玉音放送までの日日は、心の底に染み付いた、忘れる事の出来ない一日、一日だった。長崎にしろ、広島にしろ、これほどの惨事だったのは、むしろ戦後だろう。
勿論テレビは無い、ラジオも各村落に一台か二台あれば良い方、それさえ、報道管制下で、大本営発表によれば、 <大型爆弾が投下され、我がほうの被害は甚大ナリ> 程度だった、
情報通の我が友、亀、保(亀井、保男、通称カメヤス)が 「わが国で開発した新型爆弾の情報が敵に盗まれてさ先に作られてしまった」 と残念がっていたが、現実には、数日来、毎日のように、敵機来襲で、田植えと云う、農家にとって大事な行事の進行も、例年に較べて大分と遅れていた。
上空高く飛ぶのがB29爆撃機、マッチ棒を6本ないし7本、並べたように小さい機影の編隊、エンジンの音だけがやけに大きかった。
頭上スレスレに飛ぶのが艦載機、グラマン、カーチス、ロッキード、 農家の人達は逃げ惑って、仕事にならない状態だった。
宇都宮のような内陸部まで、艦載機が来ると言うことは、敵艦隊が日本の海岸線まで押し寄せて来ている証拠、 「いよいよ本土決戦だ、竹槍を一本でも多く」 とはお上の通達、 「蒙古来襲の時と同じで、神風が起こって、敵艦隊を吹き飛ばしてくれる」 は、カメヤス君の宣伝、結構意気だけは高かった。

2005年7月1日(金)
 短歌
 長長を
  七七文字に
  縛られて  やっていけるか
          泣き虫妹尾

 全力投球の妹尾さん、6月強化月間は川柳だった、解説とも言い訳ともつかずの時間が長かった。
ワンダーホオ、とか言う裏方(と言っても出たがりだが)も、考えたもんだ、長長の言い訳を、七文字、七文字に集約せよ、と言って来た。
判っているのかなー妹尾氏。
私も短歌に挑戦してみよう。