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2005年6月24日(金)
 宅配便

 一昨日注文した本が宅配された、一緒に頼めば良かったのが、一度注文した後で、また欲しいものが出てきて、二重注文になってしまった。
面白かったのは、配達のにいちゃんの態度、チョッピリ残念だったのは、支払ったお金。
最初の時、こちらパートのおばさんに、連絡不十分だったため、少々時間がかかった、私が出て行って、取り敢えず、レジから借りて、払う、 
その間待たされたにも関わらず、笑顔で応対、私が荷物を見て、 「もうひとつ、来るはず」、と云うと、「有難うございます、だったら、もう一度来ます」と、弾けるような笑顔で、帰って行った。
おばさんに事情を話して、とりあえず、自分の財布から、さっき払った分と、次来るであろう分の金額を渡しておく。
数時間後第二便が来た、ダンボウル箱を壊して貼り付けたような荷物を見て 「こんなダンボウルを貼り付けたもん、配達してお金とるの?」、と言ったのでものも言わず、代金をひったくるようにして帰った。おばさんによると、最初から、横着な態度だったらしい。同じ発送元から、おなじ受取人まで、注文受付は、恐らく10分前後の時間差、荷物到着時間の時間差は3時間くらい、小さな荷物を別々に、かたやペリカン便、かたや佐川急便、 
どちらとは言わんが、100lの好印象度と、最悪の印象を残して言った配達人のお兄ちゃんたち、どちら様も今後のご健闘を祈る。
残念だったのは、こちらの事情、受け付けに嫁がいる時なら、受取人お父さん、で、サッと飲み込んで、黙って支払いをしてくれたものを、パートさんでは、そうは問屋が卸さない、! 
当たり前、とはいいながら、自腹の出費が、ちょっぴり残念でした。

2005年6月23日(木)
 目の前に
認知症
 言われぬように

 自己管理
 
目の前は
 六十年(むとせ)以前の
 
鳥や虫

 蚊が飛んでいる、蝶が飛ぶ、燕がスピードを競うように、飛び去る、裏に出て、できるだけ遠くを見つめていて、川面に眼をやると、珍しくカワセミが水面すれすれに飛んでいる。
暑さのせいか、疲れのせいかは判らんのだが、ボーとした頭のなかに現実ではない現象が、次々に起こる。
そろそろ眼科に行って、レザー治療をしてもらう時期が来ているようだ。
今日は次女、三女の通う塾の保護者面談日、 面談から帰ってきたママが内容を話してくれた。
甘えん坊マッピーは、も少し真剣に勉強すれば、すこしは成績も上がるはず
ナーちゃんは塾が替わったことも有り、先に進むのは当然として、今まで習ったことの復習を、暗記するくらい繰り返し、勉強させてくれているらしい。
少しだけ気になるところ、 夢中になると、ほんの少しの休憩時間も忘れて、勉強に没頭していて、肩を叩かれるまで、気が付かないようなところがあるらしい、 
塾と言うような競争社会では、こう云うチョッとしたことでも、周りの子達から見ると、 「良い格好しのぶりっ子」に見えて、付き合いに翳りが出るかも判らん。
親が、気をつけて見守って行ってくれることを祈る。

2005年6月22日(水)
記憶 (洗脳?)
。御名御璽

 むかし、戦争が終わった時は、小学校5年生の、1学期終了の夏休みの期間中だった、当時の5年生としては、一般的に、 <朕思うに>に始まる、教育勅語、と、神武から始まる、歴代天皇の名称を暗記しておくべき年代だったらしい、実際、疎開してきた同級生や、その後、外地から、引き揚げてきた同級生たちは、「なんの役にもたたん」、と言いながら、暗記していた。
口惜しいのは、一こ上の先輩がみな暗抄していたことだ、 言っちゃ−悪いが、自分の名前さえ、ろくに書けないような、(過分数)とか((シャッポ)とか言われて、本名も呼ばれた事のないような先輩が我々の前にきて、 (神武、・ ・ ・ーー)、 (朕思うに、・・・・御名御璽)とやる、口惜しいけど、習性として、頭をさげざるを得なかった。 悪いけど、当時の小学生としては、ある時期になれば、徹底的に(意味は如何であれ、)覚え込まされたのだと思う。
時限も意味もまったく違うのだが、頭の片隅で、なんとなく通じる感じの話し。
妻が、彼の世に行ってから、それまで無信仰だった私だが、少しでもより良い方に、と、思い、お寺さんのお経を読むようになった。
神聖な経文を軽々しく思う気は微塵も無いが、三千大千世界とか何億、何万億の彼方、無限の世界、とか、よく詠むようになった。
食事の時、孫たちと母親の会話を聴いていると、近頃の関心事、数、の桁の話題。
億、兆、京、徐かな?、兎に角、円周率みたいに、みながよく覚えている。
 「おかーさん、よう識ってるなー」 「学校で、覚えさせられたもん」   私、心の中で、(御名御璽だな!)
ふと、孫の前に置かれたメモをみると、・・・ゴーガシャー、ナユタ、(コンピュター君、梵字を出してくれない)、最後が不可思議、これら仏教用語が、日頃の我々の世界に関係ないような、数字の単位に使われていたとは、 お経を読んでも、すこしは意味の解る部分が出てきた。
何事も、総て最後は、無限、で終わるのか。

2005年6月21日(火)
 タイトル(話題)は増えるばかり
何もなし
 これが一番
 平和な日

 平穏、なにもない、いつもの朝、、私に仕事と云う義務も無く、孫たちに学校と云う勤めが無くて、一時間ほど余裕があれば、先日のような愉快な会話もあるのだろうが、そんなに都合良くは行かない。
定刻7時に朝食の席に着いても、だれも起きていない、私に気を使って、と云うより、時間だから、ママが、声を掛けて超しに行く、
、ひとり、ふたり、最後がアユ、みんな不機嫌な顔で、起きてくる、マッピーだけは欠伸しながらもいつものアイドルうさちゃんを頭に乗せていているのがご愛嬌。
半ば無意識と違うかと思うような状態で誰からともなしに、パンも飲み物も、三等分していくのが面白い、
先日この欄で、老人嫌悪症と言われたせいか?アユは、私の問いかけに、上の空の状態で返事をしている。
帰宅して朝刊を読み夕刊を見ると、自分流の意見が一杯、だけど、今は駄目、暑さで頭もふらふら、風呂に入って、寝るは。

2005年6月20日(月)
月日の流れ

 このところ数年、と、言うか、保育所時代から、孫たちは、お友達のご両親のご好意で、その家の実家がある炭山に、一夜、ホタル観賞に連れて行ってもらっていた。
帰ってからの、得意そうな報告を聴きながら、毎年、疑問に思っていた。 20個、30個のホタルで大喜びに、私も感激しつつも、 想像とはホタルの数の桁が違う。
孫たちの休日に、と云う事情で、ホタルの最盛期が外れているのか、ホタル自体の生息数が少なくなっているのか、どうなのだろうと?。
今日、同じ地区炭山に住む、お得意さんが店に来て、応対に出た嫁との会話で情けない話しを聞いた。
天候の事情もあり、今年は、駄目だったそうだ、が、それよりも、開発業者の工事の影響で、川の水が濁ってしまったと云う、、 業者が、謝罪の意味で、他所の地方で捕獲して来たホタルを放してくれたらしい。
来年はどうなる事やらと、心配していた、とのこと、 私の感想では、おそらく駄目だろう、例年の孫たちへのお誘いは今年も、おそらく、来年も無くなってしまった感じ、残念な話しだ。
 夕暮れ、ヘリコプターが飛んでいた、雲もない空に、音のする少し前のところ、私の目にも見える位置で悠然と飛んでいた。
このところの、急激な気温上昇で、ボーっとした頭でぼんやりと見上げながら想いだしていた。
昔私が子供の頃、 飛行機の轟音を起点にして見上げれば、音のするところににいたのが、俗に言う赤とんぼ、二枚羽の練習機だ、感じとして、10メートル先を見て、飛んでいるのが、ぱーよん(八四式)戦闘機、もう少し先だと、隼(はやぶさ)戦闘機、このくらいの速さのなかに、アメリカの、グラマン、ロッキード、カーチス、と、言ったいわゆる艦載式戦闘機がいて、実際、この目で、空中戦をみたこともある。
B29は、高度が違うので音よりはるか先、それでもまだまだその機影を見ることは出来た。
だんだんと進歩してきた飛行機の速さは、近頃では、 音はすれども、姿は見えず、 の世界になってしまった。 同じくらいのスピードで、ホタルの生息地の減少も進んでいるような気がしてならない。

2005年6月19日(日)
裁判

 ほんの1時間ほどの余裕があると、これだけ元気なんだ、と感心するほどの賑やかさで朝食の最中だった。
窓を開けようとすると、手書きの広告ビラが2枚、 (おくの部屋にジムを開設しました、お気軽にお超しください、 オーナー、麻帆子、先生 麻帆子)
 席に着き、訊いて見る、 「マッピーはなんのジムを開いたんや?」
「あんなー、いまはお休み中だから、何するか、判らんねん」 すかさず姉たちの突っ込みがはいる。
あまり面白いので 「お前たちコンビを組んで、吉本に入って、練習させてもらって、漫才したらどうや」  
すると、アユ、「吉本に行かんでも、この子の日頃の生活が総て漫才なんねん]
満足するまで、寝足りた朝の女の子のお喋りは面白い。
 昨日から寝すぎるほど寝ていたせいで、時間を持て余している。仕方なくテレビを観ていると、靖国参拝がどうの、Aクラス戦犯がどうの、とやっている。
戦争をしらない世代の人達の見識、議論はそれなりに面白い、が、私に言わせれば、太古の昔から、洋の東西を問わず、勝者が敗者側の首謀者を処刑するのは当たり前のはなし、違法もなにもない、
近代だからこそ、裁判などと云う一応の人権を尊重する制度ががあるのと違うか。 
新聞等各種報道によると、現在でも世界各地で紛争が絶え間なく起こっているが、その当事者たち、特にその指導者は、例え局地戦とは言え、敗れて捕虜にでもなれば、その場で処刑されてしまう場合も多いのと違うか。
後の世で、その人たちを英雄として祀るのであれば、 他国から、干渉されるようでは駄目だ。
首脳同士の了解があったの、村山さんがどうの、中曽根さんがあかんかったのと、次元の違う話をせずに、
高額の国民の血税を使って、贖罪済み、と云う、外務大臣の言葉をちょっとでも発言する、タレントの一人暗いいても良いもんだ。7年或いは8年前にに亡くなった母方最後の叔母からの、生前最後の電話のはなし。
 戦死者の親、ないしは兄弟、姉妹の肉親に対して、国から供養費が出た、 
戦士した二人の弟に対して、受給資格者は自分ひとり、だから、判を押した。
意外と大金だったので、実家(戦死した二人の生家)の建て替えをした。
戦後の対外補償や遺族に対しての補償、当然のことなのだから、広く国民に対して、広報すべきと思う。

2005年6月19日(日)
 休日だよ

 日頃、ナーちゃんのことを笑っている、日日、夕方になると、なにをするにも、身が入らん、何を聞いても耳に入らん、近頃みていると、朝シャンはもとより、朝勉がもっとも得意だ、むかしの自分を見ているようで、楽しい。勿論、今とは事情が違う私の子どもの頃のはなしだが、学校も高学年になると、大半の友達が、登校前の一仕事をさせられて、子供と言えど、朝は大変だった、その仕事を思い出ても、苦になった記憶がないのは、私も同じ朝方の性格だったせいだろう、その替わり夜は駄目、(お正月もお祭りも、夜は一足お先に<おやすみ)だった
夜ふかしの体験で一番はなんと言っても、ホタル狩り、 実際、ホタルが、我々の目の前に現れるのは、せいぜい一週間くらいの間だったと記憶する、が、子供達にとっては、一ヶ月以上も前から、行事は始まっている、
男も女も子供は皆一緒、ホタル籠を編むために農家の積み上げた麦藁の束の中から、ストロウ状の茎を切り取ってくる、どんなにめちゃくちゃに取り散らかされても、このときばかりは、苦情を言わないのが、各農家の決まりだった。
一年12ヶ月のあいだで、一ヶ月以上楽しめるのは、この蛍狩りと、たった一日のために、若者が何週間もかけて準備を楽しむ秋祭りだけだったと思う。
ちなみに、もうひとつの夜更かしの理由は度胸試し、青年団の若者が、子供達を集めて、二本の木刀を見せる(一本は作りたてで、白いやつ、もう一本は磨きぬかれて茶色に光っているやつ)、村はずれの墓地の真ん中に一本を立てておく、 
消防詰め所に集合した子供が、一人毎、順番に、その木刀を取り替えに行かされるわけだ、 行かなきゃ、意気地無し、と言われるので、だれもがいやいやながら出席していたが、あれは、心の底から怖かった。
参考までに、いま8時、休みの日は早起きの性分は一生直らないみたい、これから薬を飲みに店に行く、子供達、少なくとも、ナーちゃんは早起きして、張り切っているはずだ。

2005年6月18日(土)
 ふたつの話

 父の日、ここのところ数年間、嫁から私への贈り物は作務衣、 初夏から秋口にかけて、結構利用期間が長いので、助かる。
今日、昼食時、ラップをした贈り物を持ってきた、「いつも、同じものなんですけど・ ・ ・」
すかさず立ちあがったマッピーが母親の手から取り上げて、きっちりと並んで、恭しく、差し出す、 「あまり良いものではないんですけど、洗濯の着替えにと思いまして!」ふたりの姉がすかさず、茶々をいれる、「あほか、お前は、父の日言うたら、お母さんがおじいさんに贈る日やろうが」、 「良いね、良いね、父の父に私から贈るねんやから」、 「馬鹿みたい」。
それでもって、父の父で無しに、父には何を贈るんだと思ったら、 足モミ券、5月のお父さんの誕生日には、肩モミ券だったらしい。
アユ子いわく 「ピザ屋のサービス券と一緒や、使ったらすぐあとから元に戻すから、使っても使っても、いっこうに減らへん」。
なんとも平和、 と思ったら、夕刊の記事、戦争中の子供達の絵や日記を集めて編集して現代のこどもやそのまた子供に語り継ぐように、努力している方がいる、しかも同じ宇治市内に、協力させていただきたいが、私には、記録として持っている物は皆無。わずかな記憶が頭の片隅に残っているだけだ。

2005年6月17日(金)
 薬
  老人を
  薬で持たす
    長寿国
  良い事も
  結構多いよ
    生きてれば

 昔、それこそむかしのはなし、我が家が宇治市に転入してきた当時のこと。
お国の制度として、 国民皆保険制度、 が出来たらしい、 らしい、と云うのは、宇治市でも、その制度の啓蒙のために、市を挙げて、各家庭を訪問して、その制度を説明して歩いた時期があった。
我が家には、当時の助役で、 広津さんと云う人が来て、いろいろ説明してくれた。 納得して、その保険に加入しら、その集金人が、ご本人にはわるいけど、近所で放送局と評判のおばさん、市の嘱託だ。
いらん噂をたてられたら大変、と思うから、乏しい生活費の中から必死の思いで払い続けた。  家族は幸い健康で、医者といえば、歯科医だけ、 これがまた、当時は保険対象
外、実費だ。

息子が中学の時、サッカーのゴールの柱に当たったとか言って、前歯を三本折って来た、担任の先生が付いて来て、 「クラブ活動時と違い、体育授業時の事故なので、当然保険で治療してもらいます」、と言ってくれたが、 なんやかや、と言って二年ほど先延ばしして、前歯3本の差し歯の治療費が、当時の金額で、実費30万。
歯は保険対象外、と言われて、私は爆発した、だって、我が家族、当時は 歯、以外に医者に罹った記録が無い。
市役所に文句を言いに行って、さらにびっくりした、宇治市の助役さんともあろう方の説得があればこそ、納めていた保険料が、年金保険は別個で、実は国民健康保険だけだったとは。保険料、支払い拒否、集金のおばさんの説得で月2万円は納付したが、2年ほどしたら未払い額が、96万にもなっていた、お上には逆らえず、銀行からの借入金で払った時の悔しさ、いずれ、この無念、晴らして見せようぞ、と思いながら、老い耄れた。
  年金保険課に行くと、 (ここが大事) 「ひとり30万、奥さんと合わせて60万持って来たら、加入させてあげますよ」(当時の保険課は偉かった。)「出せるかい、そんな大金」  渡された申し込み用紙は、今年店を改築するまで、レジの横の引き出しの中に納まっていた。
まだある、嫁が結婚して勤めていた会社を退職したので、国民年金の加入を申し込むと、 「貴方と同時に義父が70歳になるまでの払い込みの義務があります」、 とのこと、 義父こと私が60歳前半の頃の話、「それまで払い込めば、お義父さんに、多少でも年金が出るのですか?」 「いや、それはありません」 
そんなことで、嫁が年金保険に再加入したのは、私が70歳を過ぎた昨年のこと。
政府の国民皆保険事業と、地方事務の差の現実、 「今からだと、前後合わせて25年あるから、加入出来ます、良かったですねー。」
どっちが良いねん。
 一昨日、罹り付けの医者に処方してもらった薬を買ってくる、脳やの頚やの胸やらと、持病が多い、その薬の袋をうっかり玄関においてしまった、そして昨朝、ごみの収集日、、早起きだから、出勤時に収集場所に出せばよい、と玄関先に置いてあった。
独りものだから、ごみも少ない、とは言え、ならんで置いてあった袋のうち、ついうっかり、薬の袋を出してしまった、夕方帰ってきて薬の整理をしょうと思って袋を開けたら、ゴモク、 こんな時、落ち込むのも齢のせいかなー。
腹が立つのは今朝からの経緯、薬局に電話すると、処方箋が必要と云う、医者は? 
罹り付けだから、処方箋は出すけど、実費になる、と云う、再度、薬局に連絡すると、一昨日の分を実費だとすると、 2万7千なにがし、と云い、実費であるにかかわらづ、医師の処方箋が必要と云う。
老人医療だから一割、3千円ちょと、 が、実費だから、薬種も日数も切り詰めてもらって、1万9千強。処方箋による、9割の差額薬価は誰の手に入るの?。

2005年6月16日(木)
 父の日
なにしても
どじな、親父が
懐かしき

 ラジオを聴いていると、どの番組でも、父の日特集、親父の思い出、などを盛んにやっている、だから、私も、投書するつもりで、親父の思い出を一言
 悲しいと言おうか、残念と言おうか、親父が真剣に働いている姿を見たことが無い。
近年になって、判ったことは、7人兄弟、姉妹の間で、上から3人の兄と、姉を挟んで、私、弟、妹の3人との間に、家族間の考え方に、意思の疎通も、共通の話題も無いのは、都会で、父の勤め先の会社の社宅で育ち、つまり、親父の稼ぎで、育った子と、末っ子が生まれたのと同時に、田舎に帰って、まるっきり働かない父を見ながら育った我々との違いらしい。
ヤクザ、昔流で言えば、ばくち打ち、の世界に入って、講談の天保水滸伝に出てくる 「清滝の清蔵」 を真似して, 「清滝の盛次郎」、 と名乗って粋がっていた
、 今となっては、面白い逸話は、数知れずだが、当時の家族にとっては、屈辱にまみれた日々だった。

小なりとは言え農家の当主が、ぶらぶらと、遊んでいると言う理由で徴用され、無理やり軍需工場で働かされたり、(やっと、働く気になってくれた)、と、家族一同が喜んでいると、その会社が酒造工場で、朝から酔いしれていて、ほどなく くびになったりと、すること滅茶苦茶。 なのに、村長以下、村役の人たちと、対等に付き合えたのは、小学校以下、軍隊の経験が、ものを言っていたらしい。
そんな親父が、ある日突然に、私の仕事を手伝うと言う、 いや、 自分がするから、手伝え、と云う、正直、えらいことになった、と思った。 その日、私が母から言い付かっていた仕事は、肥溜めの肥(人糞)を裏の畑に播くことだった、一人の仕事なら、二つの桶に天秤棒をとうし、真ん中を担げばよい、が、二人でとなると、駕籠かきと一緒だ、担ぐ桶も当然大きくなる、庭を横切り、隠居の横を通り、竹薮を通り抜け、裏の川に架かった丸木橋を渡り、目的の畑まで、道のりは結構遠い、で、私が後棒を担ぐと云うと、えらく親父のプライドを傷つけたらしく、怒って 「前え行け」と言い、思いっきり荷物を自分のほうに引き付けて、言ってみれば、先棒の私は、片手でも、持ち上げられる位置にして、歩きだした。
案の定、丸木橋を渡るまで必死に堪えていたらしい父は、桶を投げ出して倒れてしまった。 (あーあ、こんなとこにダラ<人糞>撒いたら、また母ちゃんに叱られる)と困惑している私に向かって父は言った、「この辺がこんな坂だとは思わなかった」、冗談じゃない、ここは丘陵地帯の下り坂の中間地点、何よりも、「あんたが産まれて、育った屋敷内、」 
あとにもさきにも父と仕事をしたのは、このときだけ、 だけど、小鳥を飼う竹籠を作ってくれたり、擂り餌の調合は、始終してくれていた。