過去のちょいから (`▽´) ショート日記


もくじ 最新の日記


 <2005秋> 9・10・11月
2005
9月 「花さかじいさん」

 小学生の授業中、生徒に、「花さかじいさんって、どんな話?」と聞かれた。さてここで、この日記を読んでいる人の中に、今「私は知っているよ。」と思った人は、どれくらいいるだろう?有名な昔話だから、だれでも知っているように思う。
 私も当然、自分は知っていると思い、生徒たちに自信満々に語り始めた。ところが、初めのほうの「ここほれわんわん。」や、クライマックスの「枯れ木に花を咲かせましょう。」のところはよく覚えているのに、その間のストーリーが全く思い出せない。「ここほれわんわん」の場面から、灰をまく場面に、どうやってつながるのか。
 …たしかポチは、となりの欲ばりジジババに借りられ、ゲテモノが出てきた腹いせに殺されたはず…。そう話すと、生徒が「じゃぁ、桜にまいた灰は、ポチを焼いた灰ちゃうのん?」と言った。そんなに生々しい物語だったっけ?そもそも、死んだペットは、そのまま埋めるだろうし、焼くとは思えない。

 しかしまあ、あんなに「私は知っている。」と思い込んでいた物語を、実は意外と知らなかった自分に、少々おどろいた。


9月 「続・花さかじいさん」

 結局、ストーリーをインターネットで調べることに・・・。すると、「ここほれ」と「咲かせましょう」の間にある、もうひとつのエピソードの内容が判明

 ――犬のお墓に植えた木が一晩で育った。犬の形見の木だということで、その木で臼(うす)を作り、犬の大好物だったおもちをついたら、おもちが黄金に輝き出し、大判小判になった。そして、となりの欲ばりジジババが、その臼を借りておもちをつくと、おもちは真っ黒な炭になって、ジジババの顔にバチッとはねた。腹いせにうすは割られ、いろりにくべられて、灰に・・・――

という筋書きだった。なるへそ。そんな話やった気もする。
 それから、さらに驚くべき事実が。私は「ポチ」と呼んでいたが、実は犬の名前も、ポチではなかった!本当は、「シロ」というらしい。でも、「うらの畑でポチがなく〜♪」って歌があるのになあ?しかし、やはりどこのページを調べても、「シロ」だった。

 定番だと思っていたものが、こんなにもあやふやなものだったとは・・・。


2005
9月 「続続・花さかじいさん」

 上の話の後日談。何人かの大人に試してみた。
「花さかじいさんのストーリーを知っている?」
と聞いてみたところ、やはりみんな、
「そんなん知ってるわ。」
と、余裕の反応だった。
 しかし実際に語り始めると、誰もが、最初の「ここほれ」と最後の「咲かせましょう」のエピソードはよく知っているのに、その間のストーリーとなると、やはり「あれ?」となった。中には、「ポチを焼いた灰やろ。」と、生徒レベルのことを言う人もいた。

 この、花さかじいさんの件自体は、そんなに大したことではないかもしれないが、何事においても、「自分はわかっている」とか「これくらいなら出来る」と思い込んでいて、実際やってみたらできなくて、「思っていたのと違った」なんてことは、よくある話。人間って誰もが、その程度のもんなんだろうと思う。
 「そんなの知っている!」と思ってタカをくくるのは、気をつけんとなあ、と思った。長年経験し、自分はもう充分できる、と信じていることも、一度ふり返り、ゆっくり見つめ直してみることも必要だなあ、とも思った。
 時の流れとともに、知らず知らずにこぼれていった部分や、変化してしまった部分があるかもしれない。初心忘るべからず。
日記のもくじへもどる
2005
10月 「コンクリートの川」

 プリゼミ主催のいもほり大会。今年は、いもほりを楽しんだ他、その辺を散歩したり、川に足をつけたりして遊んだりした。「川」と言っても、自然の川ではなく、作物にやる水をひくための、畑の前の道路沿いにある、コンクリートのちょっとした水路である。でも、近くの川からひいている水路なので、そこには川からのきれいな水が流れてくる。時には、カメやカニなども流れてくるらしい。
 子どもたちはみんな、くつしたを脱いで、水に足をつけて遊んだ。正直言うと、せまい、コンクリートの、なんの愛想もない水路。でも、子どもたちはきゃっきゃと大喜びしている。
 大人からしたら、「こんなところ…」と思えるが、日常では自然に触れることが少ない子どもにとったら、これでも立派な川なんだろうなあ、と、はしゃぐ子どもたちを見て、感慨深かった。「水が冷たくて気持ちいい」と、夢中になっている子たちを見て、思いがけずいい体験をさせてあげられたなあ、と思った。


2005
10月 「相手が時間に遅れたとき」

 日本作文指導協会の、今月の小学生の課題のひとつは、
「公園で友達と待ち合わせをしたAさん。しかし、15分過ぎても友達が来ない。そこで、Aさんのとるべき行動は?
というものだった。
 我がプリゼミ生たちの書いた作文には、
「それ以上待てば、無駄に時間がたち遊べなくなるから、友達の家へ様子を見に行くべき」
という意見、
過去の自分の経験から
「下手に場所を離れると入れ違うから、もう少し待つべき」
という考え方、
携帯で電話すればいい」
という現代っ子らしい発想など、実に様々な意見があって面白く、結構どれも感心するものだった。
 その中でひとり、無事に友達に会えた時、Aさんが次にするべきことも書いた子がいた。小学3年生の子。それは、
「会えたらまず、遅れた理由を聞くべきだ。」
というものだった。そのわけを、
「実際に、プリゼミに遅れた人に、みわこ先生はまず理由を聞くからだ。」
と書いていた。そして、
「友達が答えやすいように、Aさんはこういう聞き方をすればいい」
と、理由を聞く時の口調の例まで書いていた。それは、私がいつも言うセリフや口調そのものだった。びっくりした。でも、とても嬉しかった。

 単純に、作文に私のことを書いてくれたというだけでも嬉しい。しかし、もっと嬉しいのは、日常的な私の行動を、生徒がちゃんと見てくれているのだという事実。そして、それを何気なく、ポッと書いてくれたことが、すごく嬉しい。
私の指導方針として、
「生徒には、私から教えてもらう受身姿勢だけでなく、私の言動から無意識のうちに学び取る部分もあってほしい」
と、常に私自身の言動には気を配っているので、ひとつ、こうやって目に見える形で成果として返ってきたのは、大きな喜び。


2005
10月 「頭がよくなる玩具(おもちゃ)」

 教室のうしろの机上には、天然木パズル(タングラムやハノイの塔など)や、折り紙の本、あやとりの本、ひも、等を置いている。授業時間外に、生徒が遊ぶためである。これをやりたいが為に早く来る子や、授業が終わってから残る子がたくさんいる。
 玩具(おもちゃ)といっても、私は、これらに取り組んでいる時間も勉強のうちだと思っている。
 自分の思うように指先を動かす訓練は、能力アップにつながる。加えて折り紙は幾何学(きかがく)も詰まっているので、算数のセンスがめちゃくちゃ磨かれる。それから、これらの玩具は、どれも集中力を養う。
 頭と指先を連動させるこれらのグッズは、勉強の大切な要素が詰まりまくり!ただし、子ども自身に「勉強している」という意識があってはいけない。「遊び」と思わせておくのが秘訣。子どもからしてみれば遊んでいる感覚が、私からすれば勉強している感覚。早く来てこれで遊んでいる子は、おのずと授業時間前から勉強を始めているようなもん。うししし。
 また、ひとりだと興味がむかなくても、他の子どもがやっていると楽しそうに見えて好奇心を刺激され、一緒にやり始めるもんです。
待ち時間も無駄にさせない、ワンダホープリゼミ。

★この「頭がよくなる玩具」で遊ぶようすを、写真で紹介しています。
 こちらのページ→「頭のよくなる待ち時間」
日記のもくじへもどる
2005
11月 「上海雑技団のショー」

 ある休日、私は、とあるパークへ、あるものを見に行った。すると、パーク内の一角にある屋外ステージで、上海少年少女雑技団によるショーがおこなわれるのを知り、目的の会場を見物したあと、そのショーを見ることにした。期間中の催し物で、入園者は無料で見ることが出来る。
 パークはめちゃくちゃ混雑しており、どこもかしこも行列。このショーを見るのにも、開始1時間半前から席を確保しておかなければならぬほどだった。
 さて、席についてから、ショーが始まるまで1時間半もボーっと待たねばならなかった。私は退屈しのぎ(?)に、小さなステージをしげしげと眺めていたが、屋外ステージと板を隔てただけの、舞台裏はまる見えで、雑技団のメンバーたちは、地面むき出しのそのスペースで、ずっと過ごしていた。控え室はないらしく、トイレも、彼らはパーク内の混み混みのトイレに、一般人に混ざって並んでいた。ステージ自体も大ざっぱで、舞台はペンキがハゲハゲ。本当に使われているの?と思えるほど、さびれまくりの屋外ステージ。何の飾りもなく、うしろに「上海雑技団」などと書かれた簡単な垂れ幕があるだけだった。
 パーク自体はそこそこ有名で大きいところなのに、その一角にある、この屋外ステージは、別空間だった。つづく。


2005
11月 「穴のあいた靴」

上の話のつづき。
 やがてショーが始まった。すると、出てきた上海の少年少女たちの衣装はペラペラ、道具もショボショボで、見ていて少し、やるせなかった。でも、彼らの表情は、そんなことを何も気にしないような華やかさ。満面の笑みを浮かべながら、一生懸命にワザを披露している。素朴で純粋で真剣な姿。涙が出そうなほど感動した。彼らのけなげさに、心を打たれた。
 4演目中、他は団体演技だったが、3つめだけ、少女1人によるソロ演技があった。グラスバランスというもので、寝転がった姿勢で両足を上げ、足の裏や額(ひたい)、両手などにグラスタワーを載せ、落とさないようにバランスをとりながら、うつぶせたり、あおむけになったりと、体をゆっくり回転させる技。
 さて、他の演目での小道具もだが、このグラスバランスも、その小道具であるグラスタワーはプラスチックのミニチュア、ままごとのおもちゃのようで、しかも傷だらけで、安っぽくショボい。しかし、それを使って真剣に取り組んでいる彼女の姿は素晴らしく、その演技に心を打たれた。体のやわらかさと、体の各場所へ同時に神経を集中させなければならないそのワザ。少女の美しい動きに、しばし見とれた。
 しかし、そのグラスタワーが右の足裏に載せられる時、私は衝撃的なものを見た。ゆっくりと、足裏に慎重に載せる動作、観客の視線が集中するその足先。なんと、そのシューズの先が破れており、少女の親指がはみ出ていた。それを見た瞬間、はっとさせられた。胸がつぶれそうになった。
 全体的にみんな、道具がボロイとはいえ、足先に注目される演技に、穴のあいたシューズとは・・・。衝撃を受けている私の目の前で、少女は美しく微笑みながら、手足を動かしている。けなげでたまらなかった。つづく。


2005
11月 「子ども限定の貴重な姿」

上の話のつづき。
 しかし、それはこっちのアテツケかもしれない。案外、彼らは平気なのかもしれない。こっちが勝手に貧しさを感じて「けなげだなあ」と思っているだけで、本人たちは普通なのかもしれない。こちらが恵まれすぎているだけかもなあ。逆に、彼らの目には、私たち(日本人)のこと、どう映っているのかな?何とも思わないか、それとも「なにカシ食っとんねん。日本の子は甘ったれとる。」とでも思うのかどうか。(観客席には、彼らと同じくらいの年齢の子どもが、おかしをボリボリ食べながら彼らの演技を見ていた。めっちゃ対照的だった。)
 なんにせよ、雑技団の子らが純粋であることは、間違いない。何の欲も計算もなく、ただ精一杯演技する彼らの表情は、純粋無垢。

 どんなときも、国境を超え、子どもの一生懸命な表情は、本当に美しいと思う。子どもにしか出来ない、子どもだからこその表情やろうなあ。大人になるにつれ、力加減を調節することを覚え、100%の力を出しきるって、難しくなるもんなあ。

 小学校へ運動会や学芸会を見に行ったりするが、私は子どもの一生懸命な姿を見ると、「すごいなあ」と、子どもを尊敬してしまったりする。子ども時代限定の、貴重なあの姿勢。ひたむきで純粋なあの姿には、いつも感動させられるし、大人である私に大事なものを思い起こさせたりする。


もくじ 最新の日記



教室へもどる    トップへもどる    こうばんへ行く