MISSING+
T-01

きれいだったわ! 嫉妬してしまうほど!!
しかし、すぐに彼女は念を押した、でもほんの少しだけよ? と。
岸辺にうつ伏せに倒れていても分かるほど、顔も手も青白くって。わたしが、生きているなら立ちなさいって言ったら、目が開いたのよ! とっても黒い目で、始めは大きな蛇を拾ったって思ったの。あなたはラッキーよ。わたしは昨日、それはそれはみごとなクラブアップルのある家のおばあさまから、大きな蛇は魔法を使えて、人間に化けることができるお話を聞いていたの。魔法! なんてすてきなのかしら! 命の恩人であるわたしは、あなたに好きなだけその魔法を使って感謝されるんだわ! さあ、いいのよ? わたしには、あなたの正体をばらしても。さあ! 遠慮しないで!!
彼女は期待に満ちた目を私に向けた。

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見上げる天井は濃いピンク色で、壁紙は白地にピンクのチューリップが無数に描かれていた。窓には繊細なレースのカーテンと、ピンク地に赤いチューリップが描かれたカーテンが掛かっている。しかも、ベッドカバーも赤を基調としたチューリップ模様のパッチワークだった。――チューリップが過ぎる。せめて、カーテンは無地の淡いグリーンの方がいいんじゃないのか…。
それが目を覚ました私の第一印象だったと思う。
あまりにこの部屋がファンシー過ぎて、現実逃避気味だったことは否定できない。
ただベッドから見える窓枠の中の青空が今まで見たことがないほどに美しく、視界はそれだけで占められていて。そのあまりに平和的な光景に身を任せるように再び目を閉じた。そして、ふかふかの枕に顔を擦り付けると下から生活音が聞こえ、自然に頬が緩むのを感じた。今なら、これ以上ないというほど幸せな睡眠を得られるだろう。そう思ったことまでは覚えている。私は抗い違いほどの深い眠気を感じていた。



次に眼を覚ました時、窓から差し込んでいる午後の日差しの中の、チューリップ畑のような部屋に美しいレディが3人もいた。その中で最も穏やかな雰囲気を持つ女性と目が合うと、彼女は鈴を転がすような声で言った。
「あら、気が付いたわ。エミリーを呼んできてくれる?」
その言葉に頷いた美女が1人、自分の視界から姿を消す。失意のまま思わず眉を顰めると、峠は越えたわ、もう大丈夫よという優しい言葉を掛けられた。どうやら、具合が悪いと勘違いされたようだった。
彼女は、私の額を覆うタオルをサイドテーブルに置かれた桶に浸して絞り、再度額にのせてくれた。――あなたは一晩中意識がなかったのよ。私は、彼女がそんな風に私に起きたことを説明してくれるのを持った。だが、その前に勢いよくドアが開き、彼女の視線が私からドアへ反れてしまう。つられるように私も顔を向ければ、そこには先ほど部屋を出て行った美女が立っていた。しかし、私は気が付かなかったが、そこにはレディがもう1人いたらしい。低い位置から、子供特有の甲高い声が響き渡った。
「わたしがっ! あなたの命の恩人なのよ!?」
小さなレディは、果敢にも3人のレディに食って掛かった。
「どうして、わたしがいない時に気が付くの?! お姉さま、なにかしたんじゃなくって? 酷いわ! わたしが、ずっと、看病していたのにっ!」
この4人は姉妹のようだった。何て華やかな姉妹なんだろうと、私が4人の美しさに眼を奪われている内に、美しき3人のレディは小さなレディ1人に部屋から追い出されてしまった。ああ…。

チューリップ畑に2人っきりになると、彼女はひとつ咳払いをしてから胸を張って言った。
さあ、わたしになにか言いたいことがあるでしょう? と。
命の恩人であるという小さなレディにそう詰め寄られ、私は気持ちを込めてありがとうと言ったが、彼女の意を汲むことはできなかった。彼女は首を横に振り、そうじゃないわと繰り返す。しかし、そう言われても、私は自分の正体どころか、名前すら覚えていないことに思い当って、途方に暮れた。良い案が何も思い浮かばない。彼女の期待に応えるにはどうしたら良いのか。彼女の家の、客間のベットに横たわって考える。

その内、気の利いた一言も言えない私に、彼女は待ちきれなくなって私を見つけたときのことを少し興奮して話していた。しかし、しばらくして私が本当に困惑していることに気が付くと、大きなため息を一つ。
「――しょうがないわね、あなたには休息が必要なよう」
心配しなくていいわ。わたしにまかせておいて。
彼女はそう言うと、その小さな手で何回も私の頭を撫でて、大丈夫よと繰り返した。その静けさにまた眠気が襲ってきて戦う気概もなく目を閉じると、彼女はパタパタと部屋を出て行った。
その声はまだ甲高さが残るものの、確かにあの美しい姉のものと同じ響きを湛えていた。



それからすぐに、階下から少女の甲高い声が聞こえてきた。
あら、平気よ! 彼は1人でトイレに行って用が足せるのよ!
ヤギより手間がかからないわ!!

彼女は、だから私1人ぐらい飼ってもわけないということを言おうとしてくれたんだと思う…。


T-02

翌朝、清々しくも肌寒い空気を感じて目覚めると、ファンシーな部屋へ換気のために窓を開けに来てくれた美女を見つけた。彼女の手がカーテンをまとめて、この部屋のチューリップの数を減らす。思わずそれに安堵感を抱いた自分が可笑しくて、枕に頬をつけたままクスリと笑いが零れた。途端に彼女があら、と振り返る。――寒かったかしらと、窓を閉めようと窓枠にかかった手に、私は首を横に振った。冷たい空気が気持ちよかった。

彼女はベッドの端に腰を下ろすと、私の額に手をそっと当てた。
「――だいぶ熱は下がってきたわね」
朝ごはんを持ってこなくちゃと言うと、彼女は慌しく立ち上がり部屋を出て行った。
もう起き上がらないと、と思っても、少し寒いくらいの外気とベッドの温さが、私をベッドから出ることを許さない。結局、私はだらしなくもベッドの中に丸まっていた。そして、朝食のプレートを手に戻ってきた彼女に眠ったまま食べるの? と明るく言われて、ぐずぐずと上体を起こした。

重病人さながらにベッドで朝食を取りながら、この家の最も美しい女性が、長女のメグよと自己紹介をしてくれた。しばらく寝食を共にするんだもの、と明るい声で。
両親は年の離れた非常に仲のよい夫婦だったことや、3年前に父親は大往生して、女性しかいない家であること。美人と今でも評判の母親と結婚すると決まったとき、集落中の男が泣いたこと。母親は今街に薬を買いに出かけていて留守にしていること。次女は、ジーン。でも、ジョーって呼んであげて欲しいこと。
うちは、4人姉妹で、私がメグだから若草物語だとたくさんの人に口々に言われて、その気になちゃったのねと彼女は優しく笑った。
3女はベル。彼女は体が弱く、彼女の薬を買い足すために母親はここを留守にしていること。そして、末が、エミリー。若葉色の目をした女の子は、隣の家の老いた片目の猫にご執心であること。
彼女は、私が食べ終わってもたくさんの家族のエピソードを話してくれた。
若くてハンサムな男の人が珍しくて、つい、はしゃいじゃったわ! そう言われて、悪い気のする男はいないだろう。女性だけの家に、こんな見ず知らずの男を泊めるのは大胆すぎるんじゃないかなと言葉を選びつつ言ったら、彼女は軽やかに笑い声をあげた。
「だって、あなた、エミリーのすることなすこと何一つ逆らわないんだもの! 離れ離れにするのはかわいそうだと思ったのよ!」
――私は彼女たちに人畜無害な男と認識されたようだった。そしてそれは、昨夜の少女のあの説得が実を結んだことの証明でもあった…。



爽やかな風に誘われて窓辺に身を寄せる。高台に建つこの家の2階から見える景色はこの集落をよく見渡せた。自給自足の集落にふさわしく、青く茂る牧草をヤギの親子が食み、その奥には野菜畑が見える。そして、至るところに花々が咲いていた。石垣の隙間にも、家の壁にも。美しい平和で静かな集落だった。時折、男たちの作業を確認しあう声と、女性たちの笑い声が聞こえて来るだけの。
私は飽きることなくずっとその光景を見ていた。様子を見に来てくれたメグに病み上がりなのだからとベッドに入ることを勧められるまで。

日が沈み空を茜色に変える頃には、明るい声でおしゃべりをしていたメグも夕飯の仕度に1階に降りて行かなくてならなくて、再び1人きりになると、上半身を起こして窓から見える景色を見つめる。
外では誰もが今日1日の仕事を終えようとしていた。
そんな中、数人の男たちがこの家に続く小道を登ってくる。彼らはこの集落の顔役だろう。通り過ぎる若者が少し肩を緊張させて頭を下げていた。
突然現れた不審なものの処遇について、話し合いに来たのだろうと思う。
すぐに野太い声がメグを呼んだ。

玄関を開き、入ってきた男たちと挨拶を交わす優しいメグの声を、階下から聞く。それに応じた男たちの声が妙に固いものへ変化した。きっと、日々畑仕事に精を出す厳つい男たちでも、彼女の前では緊張するのだろう。美しく、たおやかな女性だ。そして、そんな女性の住んでいる1つ屋根の下に、こんな訳のわからない男が住み着くのだ。彼らは心穏やかではいられず勇んできたはずなのに、彼女の前では借りてきた猫の如く有様なのだ。どうにも堪えきれずに笑いがこぼれた。
その時、部屋の扉が開いた。そこには男たちが怪訝そうな顔をして立っていて、メグが、すかさず彼はまだ熱があって、と言った。無骨で大柄な男たちはそれぞれに咳払いをしてから、間を取り直して、男同士で話したいことがある、と少し気取って胸を張った。メグはあっさりと頷くと、じゃあ、エミリーにも近づかないように言っとくわねと言って行ってしまった。

後に残ったのは、むさ苦しく暑苦しいオヤジ3人。
お前、本当に記憶喪失なのか。
何の目的があって、この家に入り込んだんだ。
そもそも、何故、この集落に着たんだ。
それが応えられたら、記憶喪失ではないだろうに。おかしくて頬が緩んだまま、肩を竦めたら、3人は顔を見合わせこそこそ話しはじめた。
オイオイ、何か、考えてたものと違うぞ。
こんな、鳥すら絞め殺せないような優男だなんて聞いてないぞ。
こんな呆けた顔をしているなんて、よほど強く頭を打ったに違いないぞ。

結論として、彼らもまた、私には特にこれといったことはできないだろうと判断した。ただし、46時中この家の中にいるのは良くないから、それだけは即急に何とかしよう、とお互いの顔を見合わせて頷きあう。
人の顔を見ただけで、勝手に結論付けた男たちは、なにかを納得して部屋を出て行こうと踵を返した。それに焦ったのは私だ。私は、まだ自分の現状を全く知らなかった。

彼らは面倒臭そうに顔を見合わせたが、それでも、真摯に知っていることを話してくれた。
エミリーが群れから外れた小ヤギを、その親ヤギと一緒に探していて、川原で倒れていたお前を偶然発見したんだ。
親ヤギの背に乗せて、エミリーが集落まで連れてきたんだ。
身体が冷え切ってて、死んでると思った。死んで間もないと思った。
腕や足、背中に広範囲に渡って打撲による痣ができていて、両手にもひどい擦過傷を負っているから、上流で足でも滑らせでもして河に落ち流されてここまで来たのだろう。比較的高さのあるところから足を滑らせ河に転落すれば、水面に打ち付けられて打撲を負うし、流れが急なところも多いから川底に手を引きずることも考えられると、彼らは言った。
問題は何故この河の上流にいたのかだが、きっと家出かなんかに違いないとか、いろいろ失礼なことを言われたように思うが、私は、途中から話を聞いていなかった。あまりにも眠くて…。


T-03

働かざるもの、食うべからず、だ。

熱が下がったわねとメグに太鼓判を押された途端に、どこからかこれを聞きつけた集落の顔役たちがやってきて言い渡された。私はよほど呆けた顔をしていたのかもしれない。
わずかな沈黙の後、ベッドを囲んでいた彼らは、また私の頭上でひそひそ話し始めた。
オイ、もう、本当に大丈夫なのか?
1人でトイレで用を足せるぐらいの記憶はあるんだ。大丈夫だろう?
動けば、思い出すこともあるだろう?
ああ、私は食べるために働くことになるのか。さて、私は何をすることになるのだろうと思わず顔が綻んでしまったら、彼らがまた不安そうに顔を見合わせた。
簡単な仕事にしよう。
あんまり頭を使わないようなやつか。
これ以上、頭がやわになったら困るからな。
この手の扱いに慣れた感覚があるのは何故だろうか。忘れた記憶を思うと、どうしようもなく楽しくなる。

彼らによって用意されたTシャツとジーパンに着替えると、私はエミリーに手を引かれて庭に出た。窓から見る以上に庭には小さな花が所狭しと咲いていて、踏まないように歩くのが難しい。もたもたと歩く私にエミリーは、草花は踏んで強くなるんだもの踏んだってかまわないわと私を急かしながら、知っている限りの花の名前を歌うように口ずさんで歩く。その足取りは速くて迷いがなくても、そう簡単に花を踏みつけることはなかった。私は彼女の歩いた場所を注意深く辿るように歩いた。
モッコウバラの蔦が盛大に絡まった木戸を開けてると、そこにはもう集落の顔役が待ってましたと言わんばかりに揃っている。彼らに私を預ける前に、エミリーにより、あなたのお仕事をちゃんと教わってくるのよ、と訓示をいただいた。はいと優等生じみた返事を返した私に彼女は満足気に大きく頷いて、顔役によろしくお願いしますと頭を下げてくれたが、遠くでフギャーと大きな猫の鳴き声を聞くと走って行ってしまった。恐らく、隣の家の老いた片目のネコを探しに行ってしまったのだろう。

連れて行かれたのは集落のはずれにある共同の家畜小屋の鶏小屋だった。男がその小屋の戸を開けると中にいた鶏が一羽一羽順序よく出てきて、足元で色とりどりの鶏がばたばたと駆け回る。茶、黒、白黒に、茶に黒が混ざったものもいる。
「鶏?」
「ああ、鶏。――覚えてないのか?」
鶏は白い、ものではなかったのかと思っただけなのに、彼らはすぐに、オイ、大丈夫なのかと口々に不安を上らせた。
「まあ、アレだ、この2足歩行の鳥たちの世話がお前の仕事だ。ここら辺は鶏は平飼いなんだが、今は日が落ちると冷え込むから夜には鳥小屋に入れてるんだ。だから、日が出ると共に鳥小屋のゲージを開けて鶏を出し、日が落ちる前に鶏を全部入れる。その間は、鶏が迷子になんらいように見張っててくれ。わかったか?」
鶏が自分の縄張りで迷子になるものなのだろうか、と思ったが自分は記憶喪失中なのだから、そういうこともあるのかもしれないと思った。
だが、私はもう少し日々の生活に必要不可欠なものがしたかった。自給自足が基本のこの集落では誰もが忙しく朝から晩まで働いている。それに、10歳のエミリーにもちゃんと仕事があった。ヤギの世話が彼女の仕事だ。ヤギ小屋の掃除と、乳搾り、餌やり。なのに、私の仕事は鶏の見張り…。
釈然としなかったが、まずは与えられた仕事を完璧に行ってからだと思い直し、教えられた鶏たちのボスによろしくと頭を下げてみた。



集落には200羽近くの鶏がいた。その内、今年生まれたというひよこが50羽近く。鶏は群れで行動する。彼らの行動はなかなか秩序が保たれていた。自分の縄張りをパトロールしながらも、縄張りを共有するヤギやネコ、犬たちに挨拶を欠かさない。そこには平和に生活を送っていく術が見受けられた。また、その合間合間に小川や井戸へ行き、水分補給をし、乾いた砂場で砂浴びをして身を清潔に保つ。
私は、関心しながらその群れの後をついて周った。時には道なき道を行き。そして、私の後ろにはひよこたちがぴよぴよ鳴きながらついて来る。鶏たちに囲まれて一日中、集落の端から端まで見張りを行う。そして、まだ迷子になるような鶏は現われないし、鶏たちは日が沈み始めれば自主的に鶏小屋へ戻った…。
お昼時になると集落の誰ともなく、お昼ご飯に誘われた。群れから離れる度、ひよこたちは私に付いてきて、群れのボスである非常に大きな鶏冠を持つ雄鶏がお昼を誘ってくれた女性を突く。私はどうやら群れの一員だと認識されたようだった。なんとなくうれしい。集落の行く先々で、笑いが起こっていても。

徐々に自分の仕事に面白味と責任を感じてきた矢先だった。その日はひどく冷え込んだ朝だった。ひよこが1羽死んでしまった。ちゃんと言われたようにしていたのに。
手の中のひよこからは、もう、ぬくもりが伝わってこなかった。集団行動する群れの中で、いつも一匹だけ遅れたり、あらぬ方へ行ってしまう白と黒のひよこ。朝、鳥小屋を開けると最後まで小屋にいる寝坊のひよこ。あれは、寝坊していたわけじゃなくて、ぐったりしていたからすぐに外に出て行けなかったのか。

どうして私は気がつけなかったのだろう。


T-04

風が吹けば花の香りが匂いたつ。この集落の道なき道を鶏たちと行く。その内、私はいいことを思い付いてしまった。彼らは、私の仕事は鶏の見張りだと言っていた。実際に鶏が見張りを必要とするかしないかは、この際、問題ではないだろう。
私は数多い鶏の中から一羽の美しい雌鶏を伴って、集落から小一時間も掛からない程度の場所にある、集落全体が見渡せる小高い丘に登った。そして、体の求めるままに、青々と茂る草原に寝そべり、目を閉じる。どうしようもなく、眠い。まるで身体が今までの睡眠不足を補おうとしているかのように思えて、身の欲求に従った。

時間の経過と共に木々の影が身を覆う。肌寒さで目が覚めれば、予定していた以上に日が傾いていて、私は隣で身を寄せて丸まっていた雌鶏を抱え集落に向かった。鶏はどんなに優秀でも、自分自身で鶏小屋の鍵を閉めることはできない。急げば、まだ鶏小屋に入る前の鶏の集団に合流できる頃合だろう。雌鶏がくるるるるるーとあたかもまだ間に合うわと言っているかのように一鳴きした。
畑を横切ったとき、集落の男にどこに行ってたんだと疑わしそうに聞かれたが、私は迷子になった鶏を探していたんだとだけ答え、先を急いだ。
無事、鶏の大集団に合流して鶏小屋に行けば、そこにはうろうろと小屋の前を行ったり来たりするエミリーが待っていた。私に気が付くと彼女は開口一番、ベルが帰ってこないの、と声の限りに叫んだ。



日が刻一刻と沈んで行き、辺りが闇に包まれていく。

エミリーの甲高い声を聞きつけた集落の男たちが、何処からともなく手に松明をもって集まって来る。2、3人のグループに別れて、次々に山に入って行った。集落にいないのなら、山にいるはずだと彼らは疑いもなく言った。ベルは体が弱い。集落中が不安をより一層募らせていた。
「エミリー、ベルはどこへ行ったのか、わかるか?」
彼女の顔が絶望に歪んだ。
「わからないわ! だって、わたしはいつもヤギを追っているんですもの!」
家の前は人で溢れて出していた。メグを振り返れば、彼女は真っ青な顔をしてジョーに支えられながら、顔役たちと話をしている。きっと同じことを聞かれているのだろう。
私は、もう一度、エミリーに尋ねた。
「じゃあ、ベルはどこへ行きたいと思うかな」
パニックを起こしかけていたエミリーが、気丈にも、必死に平静を保とうとして私を見上げた。私が何を言っているのか必死に理解しようとして。
「ベルは、エミリーやジョー、メグを心配させてしまうかもしれないのに、行きたいって思う場所があるのかな?」
エミリーが何回も、何回も私の言葉を口の中で反芻しているのがわかる。私は、静かに待った。闇雲に動けるほどこの周囲の地理に詳しくない。山の中腹で、男たちの松明が生い茂る木々によって遮られる度に頭が冷えてゆく。無軌道に動いても、だたいたずらに時間を無駄にするだけだと思った。

声高に話し合う人ごみからエミリーを連れ出して、彼女の答えを待つ。彼女と同じ年頃の少年が人混みをかき分けて走り寄ってきた。パニックになるのを必死に耐えようとしているエミリーを心配そうに、真剣な目をして。
私は少年に、彼女が話し出すまでは何も話しかけないようにと、静かに人差し指を口元に立てた。それを見て、少年は両手を固く握りしめ、固く頷く。

ベルは、とっても、やさしいの…。いつもわたしにごめんなさいって言うわ。いつもわたしのせいでお母さまを街へ行かせてしまう。エミリーはまだ10歳なのに。ごめんなさいって。
わたしはいつも言うのよ。わたしはもう10歳なんだから、全然平気よ、って。でも、いつも上手に伝えられないの。だって何回言っても、ベルは笑ってくれないんだもの。そう。そう、ベルならきっと薬草を探しに行くはずよ。そうしたら、お母さまはいつもこの家にいてくださるもの。――大きなラズベリーの木がある原っぱだわ! だって、わたし、言ったことあるもの! ベルの薬草みたいな草を見つけたから、今度、採ってくるわねって!

私と共に、エミリーの言葉に耳を澄ましていた少年が、呆然と呟いた。
――そこは、アエルゴの地雷原だ。

エミリーが山にこだまするほどの大きな悲鳴をあげた。


T-05

よく笑う男だ。物腰が柔らかく、言葉使いに訛りがない。それに、さりげない動作が洗練されていた。手にひどい擦過傷を負っていても、箸より重いものを持ったことがないかのように、その手は白く滑らかだった。
間違いなく、都会の上流階級の人間。
そんな男が集落中を鶏に囲まれて歩く姿は滑稽極まりなく、笑いを誘った。

そんな男が珍しくも無表情に、早朝、エミリーと一緒に鶏の大集団を引き連れてオレのところにやって来た。まだ包帯が取れない両手でやさしく包み込んでいたその手の中には、死んだひよこが一羽。一言、すまないと謝られた。
ああ、死んだのか。それはいつものことだったから特に感慨はなかったが、ヤツの後ろをついて周るひよこが一羽少なくなったと思うと少し残念に感じた。
それでも、ひよこは上に上に重なっていってしまうものだから、どうあったって毎年数羽は押しつぶされて死んでしまう。しかし、これで弱い個体と強い固体が選別されるのだから必要なことなのだと丁寧に説明してやれば、男は黙って頷いた。
エミリーが自然の摂理よと言うと、黙り込んで手の中に視線を落とすヤツを無理やりしゃがませて、頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。その、子供にいいようにされて、頭を左右に揺らす様子にまた笑った。
今年は死んでしまった雛はスープのだしにせずに、埋葬してやることにした。

しかし、こんな風にしんみりしたのは数時間だけだった。ヤツの姿が鶏の集団の中に見えなくなったと思ったら、しばらくたって思いがけないところから、鶏を小脇に抱えて現れた。どこに行っていたんだと問えば、ヤツは迷子になった鶏を探していたんだと、にっこり笑って、いけしゃあしゃあと言いやがった。はじめに言ったことを逆手にとって、ヤツは堂々とサボってやがる。その笑顔が曲者だった。
根性の足りない、甘ったれの顔のいい男。きっと、女に振られて河に飛び込んだんだろう。もしくは、飛び込もうとして、怖気づいてやめようとしたが足を滑らせ河に転落。そう、集落の人間は信じて疑わなかったのに…。



ヤツの声は、この暗い山の中でよく響いた。
大声を張り上げているわけではないのに、まるで耳元で話されているかのように錯覚する。暗くてよく見えない山道をヤツは迷いなく駆け上がって行った。その足取りは速い。途中途中で、先に山に入っていた者たちに声を掛けて行き、目的地に達する頃には多くの者がヤツに続いていた。

暗い山道が突然開け、広い草原が姿を現す。そこが目的地だった。わずかな月明かりすら、暗闇に慣れた目は眩しく、――次第にその僅かな明るさに慣れると、そこは月光を反射して美しく煌く草原が広がり、その中にベルが1人佇んでいた。思わず、幻想的な光景に目を細める…。しかし、そこはアエルゴの地雷原だった。

言葉もなく、誰もが絶望的なまま口を噤んでいる中で、ヤツだけが以外にも冷静だった。
「何故、エミリーはこの地雷原でベルの薬草を見つけることができた?」
一瞬、聞かれたことの意味が分からなかった。ヤツが同じことを何度か繰り返す。しかし、それに答える声はなかった。
ベルは地雷原の中に1人佇んでいる…。どう助けたらいいのかすら思い浮かばない。ベルは体が弱い。ずっと立っていることすら苦痛だろう。

「エミリーはきっとヤギの歩いたところしか歩かなかったんだと思う」
ヤツの隣にいた、エミリーと一緒にヤギの世話をしているマズローの長男が言った。大人でも息が切れるほどの行程を必死の形相で集団の最後尾を走って付いて来て、やっとのこと追いつくと、オレたちを押しのけてヤツの隣に陣取っていた。
「エミリーは頭がいいんだ」
その言葉にヤツは小さく頷き、ヤギの足跡を追えばいいと言うことかと小さく呟くと、ゆっくりと草原に降り立った。止める間もなく、そのまま、慎重にゆっくりと一歩ずつ、確実にベルに近づいて行く。誰もが息を飲んで見つめる中、ヤツは手の平に巻かれていた包帯を解いて自分の歩いた地雷のない場所に落として行った。白い一本の線がベルに向かって延びて行く。

そして、彼女がヤツの存在に気が付いた。

「近寄っちゃダメ!!」
彼女は滝のように汗をかき、声を震わせた。地雷を踏んでいたのだ。しかし、ヤツはそれに動じることも迷うこともなくベルの足元に跪くと、彼女の地雷を踏んでいる右足の靴を両手で押さえ付け、ゆっくり、靴を脱ぐんだと言った。
「あ、足が動かないの…! 固まってしまって…!!」
絶望的な響きの含んだ声が、オレたちのところにまで届く。ベルの緊張と絶望が移ったように、鼓動が痛いほど強く速く胸を打った。
――大丈夫、動く。力のある、腹に響く声が彼女を励ます。
しかし、ベルの身体は動かない。

ヤツは少し黙り込み、そのままの体勢から、スカートから半分覗いたベルの膝小僧にキスをした。無音の中、時間すら止まる錯覚を覚える。誰もが、ベルすら、その唐突な行為に目を見張った。
ヤツは驚く彼女を見上げて。――そして、笑った。足が動く魔法だと言って。
さあ、靴を脱いでごらん。今度はちゃんと、動くよ。

遠目にもはっきりとベルの体から緊張感が抜けていった。
ベルはその言葉の通り、跪くヤツの肩に力なく手を置きつつも、ゆっくりと足を動かし時間をかけて靴を脱いでみせた。オレはふらついたベルを、彼女に続く一本の白いラインを走って抱きとめた。腕の中で、彼女が意識を手放した。

今度は、ヤツが地雷をその手に押さえたまま動けなくなった。途方に暮れた目を向けられて、何故だか笑いがこみ上がる。
怖くないのかと聞いたら、即座に怖いに決まっているだろうと微かに震える声で返ってきて、今度は大きな笑い声を上げた。
ベルを若いヤツらに任せてから、ヤツが用意周到にも持ってきていたガムテープで地雷に加えられた圧力をそのままにベルの靴と地雷をぐるぐるに巻きつけ、河に投げ込んだ。


T-06

さあ、考えよう。自分は一体誰なのか?
彼らの言うように、金持ちの家のわがままな家出息子なのだろうか?
不審に思うことはいくつかあった。
まず、私が発見されたとき、身元が確認できるものを何一つ身に付けていなかったと彼らは言った。例えば、サイフなんかは、河で流されているときに河底に落としてしまったとも考えられるが、時計まで落とすとは考え難い。腕時計ならまず落とさないだろうし、懐中時計であっても、不用意に落とさないよう留め具が付いている。
時計を持っていなかったとも考えられるが、私は今だ自分に残る習慣から、常に時計を携帯していたはずだと考えていた。時間を知りたいとき、無意識のうちに右手が左胸当りへ動く。これは、左胸のポケットに懐中時計を入れていたからではないだろうか。
集落の者たちは私のことを金持ちのボンボンだと言うが、その根拠は私の記憶がなくても失われない上品な立ち振る舞いがあってのことだ。物的証拠など何一つない。
この今だ消えない手の擦過傷は、本当に川底に引きずってできたものなのだろうか。
私は何かしらのトラブルに巻き込まれ、今ここにいるのではないか。
ならば私はここで燻っていていいだろうか。

いつもの丘に寝そべって、穏やかな日差しの中でまどろむ。私が寝返りをうった拍子に、昼寝に付き合ってもらっていた、隣で丸まっている色白なレグホン種の雌鶏が丘を転がり落ちて行った。私は慌てて彼女を追いかける。ブッシュに突っ込んでなんとか止まった雌鶏が私に非難を込めて、くぅぅーーと声高に鳴いた。なんて牧歌的なんだろう。

頭が覚えていなくても、体が覚えていることがあった。
金髪が好きらしいとか、強い女性が好きだとか、おませな少女に弱いとか、犬が好きだとか、ひげに眼鏡は癇に障るとか、――男もイケる口だとか。

なるようになるさとこの状況を楽しむ算段がすでに付いている性格は生来のものなのだろうと思う。記憶が失われていても、自分は自分のままなのだろと思うと少々つまらなく感じるが仕方あるまい。
この丘から見渡す限りに広がる、牧歌的な風景を前にひどく懐かしさが込み上げてきた。自分はもしかして田舎者だったのではないのか。そう、思えばなぜか無性に笑いがこみ上げてきて、衝動のまま笑い声を上げた。
空はどこまでも青く、眼下には収穫前の黄金色の小麦畑が風に棚引いていた。空からは大型の猛禽類が睥睨している。全て世は事もなし、だ。そう思った矢先、大型の猛禽類が一声鳴いた。それに思わず背筋を正し、敬礼をしてしまった自分に、自分は軍人なのだとわかった。突然、この穏やかな風景の中で、自分だけが相容れない存在になってしまったことが、少しだけ悲しかった。



ベルの件で集落に受け入れられることになった私は、夕飯を顔役の家でご馳走になることになった。集落のささやかな英雄に、と言うことらしい。
夜が深まって行くにつれ集落中の男たちが集まり、部屋中に所狭しと並べられた料理と酒を囲めば、意図せずとも大宴会となっていった。当初、上座に座らされていた私はカルバドスの樽が空になる頃には早々に下座に移動させられていた。それでも、今夜の酒の肴は私だと言わんばかりに私の素性の憶測で場は盛り上がる。

「どうやら、私は軍人のように思うんだが」
そう言ったら、彼らは一瞬、虚を突かれた顔をしてから大笑いし始めた。中には、腹を抱えるものまでいる。
それは笑い過ぎではないのかと、ぐっと拳を握り締めた。それでも一言も発しなかったのは自分があまり模範的な軍人ではないだろうことがわかっていたからだ。
ナイフをまともに扱えない軍人なんて本当にいるのだろうか。だが、そうは思っても、軍人であることに何故か疑いはなかった。
「――待て、もしそうだとしたら…」
馬鹿笑いから覚めた集落の顔役が俄かに表情を変える。それに伝られるようにして回りも段々と笑いを収めていった。その男は大きな手のひらで顔を覆って呻いた。誰もが、続く言葉を待つ。
「いや、仮にそうだとしても、我々はお前を見捨てたりしないぞ。さげずんだりもしまい。人には誰にだって向き不向きと言うものがあるんだからな。なぁ、そうだろう? みんな!! ナイフで芋の皮さえまともに剥けず、銃胼胝すらないこんな腕白な男が軍を脱走したくなるのは当然だろう! しかし、こいつは臆病者ではない! それは我々がよくわかっているではないか!!」
ああ、私は脱走兵なのか? 心に疑問は生じたが、それもまた良いように思えてきた。彼らがそれでもいいと言ってくれるなら。

窓の外は、暗く、何も写さない。
しかし、その闇の中、遠くに、今はまだ見えない戦火の臭いを感じた。

自分は軍人なのだから、黄金色の小麦畑を持つ、この美しい集落を守ろうと思った。
初出:2005/09/06  〜 2007/07/03(加筆修正)
常に加筆修正している感じ…

ここはどこ? 私は誰? そして、今は、いつ…?