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(「競馬へ行こう!」のこぼれ小話)
―――知らないなら、いいんだ。
その言葉がアンタとオレの距離をこれ以上広げるかのように思えて、思わず手が伸びた。目の前の距離さえもどかしい。なのに、ここが公園で、人目があって、伸びた手が所在無く宙に留まった。
「―――あ?シャツは?」
手ぶらの大佐に感じていた違和感が、唐突に解決した。さっき、オレが買ったTシャツに着替えたとき、脱いでいたシャツがない。もしや、と思えば、大佐はさも当然のように、捨てたと言う。
「何でっ!」
「―――あんなビールまみれで濡れているシャツを私に持って歩けと?」
ごもっとも!アンタはそんなことしない。シャツ1枚に奔走するのはオレだ。
オレはのっそりと、そのシャツが捨てられたゴミ箱に向かい、ゴミ箱からそのシャツを救出しようとして、大佐に腕を取られた。
「お前は野良犬か」
庶民なめんなよ。野良犬上等だ。
「いいから。アンタはそこで待ってるっ!」
オレの剣幕に大佐はふて腐れた顔で、オレの腕を離した。
しゃがみこんで、水道でじゃばじゃばとシャツを洗う。
しばらくして、大佐も興味深そうにしゃがみこんで見ていた。
「大佐、ジャケット貸して」
水拭きするだけでも、随分違うはずだ。
「お前、本当にマメだよ」
「貧乏臭いってんなら、そういえばいいでしょ」
「褒めてるんだ」
「ウソですね。顔にウザイって書いてありますよ」
「――――うっとおしい、って書いておいたのだが」
「大佐‥‥‥」
「冗談だ。ほら、好きにしろ」
ジャケットを手渡れた。大佐がTシャツ一枚で寒そうに見えて、自分のスカジャンを脱ごうとして止められた。
ああ、そうだった。拳銃を吊るしていたんだった。
「すぐ、済みますから」
ジャケットは皮だから、一応拭いとけばビール臭さがなくなる。外側と内側をゴシゴシ拭き、ついでに大佐もこのシャツで拭こうとして、逃げられた。
シャツをもう一度水で洗って、絞って持っていこう。そして、この人ん家の、クリーニングへ出す山に入れておけば、万事元通りだ。
大佐にジャケットを戻して、シャツをゴシゴシ洗ってから、力を込めて絞ったら、大佐が堪えきれないと言わんばかりに大笑いし始めた。
「お前はそれをどうするつもりなんだ」
「は?アンタん家に持っていきますよ。オレが」
「わざわざ、私の家のゴミ箱に捨てるためにか?」
「捨てませんよ。まだ、着られるでしょ?」
「そんな風に扱ったら、もう着られないよ」
「はあ?」
「シルクをそんな風に洗って、力任せに絞る奴を始めて見た。シルクは濡れているとより弱くなってしまうものなのに。なかなか、見応えがあったな。我々はそんなこと、恐ろしくてできない」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
そのシャツは結局、捨てることになった。
なんで、そんな手間のかかる服ばかり着てんだ。不可解だ。
―――お前は面白い、と大佐は笑う。
オレは、全く面白くない。
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(「子供のおもちゃ」のこぼれ話)
手持ち無沙汰で時間を持て余していたら、グレイシアさんが、申し訳ないけれど、私の手伝いをしてもらえないかしらと言ってくれた。中佐も大佐も逆らわない女性に、オレは毛頭逆らう気などない。
夕食の準備をお手伝いする中、何の話からか、話題が中佐と大佐のモテる手口についてになった。
「例えば、スカーフ、ジュエリー、リストウォッチ、香水‥‥‥、かしら?案外、似たり寄ったりなのよね、あの人たちが贈るものは。ハボック少尉は、何を贈られるのかしら?」
あまり金がかかんないものと即座に頭に浮かんだが、それはさすがにあんまりだと思い直した。
「あー、そおッスね。‥‥‥アクセサリーとか、あと花ですかね」
「どんな花を贈る?」
花は花だ。どんなと言われて困惑を隠せないが、辛うじて面子を保てそうなことを言ってみた。
「えー、あー、どんなって言うか、普通の花束を‥‥‥」
「まあ、素敵ね!真心を感じるわ」
グレイシアさんは、にこやかに笑った。そこには馬鹿にしたような感じはない。あー、素敵な女性だなあと純粋に思う。
「―――真心のない、花束ってあるんスか?」
「マースは、まだ、婚約前のデートの頃、大きなピンクのチューリップの花束をくれたわ。いい?想像して?ひげ面の男が、ドレスアップして抱えるほど大きな、たくさんのピンクのチューリップを持っているのよ。これでもかって目立っていたわね。ロイもそう、巨大なグロリオサの花束を手に歩いているのを見たことがあるわ。行き交う人が皆、振り返えるのよ。あの人たちにとって、花束は自分を演出するための小道具に過ぎないの。そんなものを貰っても私なら困るわ。エスコート中は、自分で持って歩いているから、まだ、世話がなくていいけど」
「奥が深いんですね、花束1つでも」
そもそも、大きい花束は金がかかる。財力の乏しいオレに参考になるとは思えなかった。
「ハボック少尉は、アクセサリーを贈った時、どう贈った?」
「――――普通に」
「食事が終わった後に、コーヒーとデザートを前にして、お店で包装してもらったまま、その袋ごと渡しちゃう?」
「全くその通りです」
グレイシアさんは、フム、と1つ頷いて、少しいたずらを思いついた少女のような笑顔をオレに向けた。
「手を出してくれる?」
グレイシアさんは、一旦手を止め自分のリストウォッチをはずした。貴金属の繊細なデザインのものだ。
「この手のものは、花とは決定的違うのよ。ちなみにコレはマースからの贈り物なんだけど、奴は、こういう風に私に贈ったわ」
差し出していたオレの腕に、グレイシアさんが自分のリストウォッチをのせた。手首から、貴金属の冷たさが伝わってきた。グレイシアさんの手が、ほんの少し、オレの手首を撫でるように触れて、離れた。
背筋にぞくっとしたものが走る。
その様子を観察していた、グレイシアさんはにっこりと笑って、リストウォッチを自分の手に戻し、留め具を掛けた。
なんか恐ろしい。
「こんな風に、時計を貰った経験は?」
「ないっスよ‥‥‥」
「まあ、つまらないわね。ふふふ。スカーフもジュエリーも、全部、素肌につけるものでしょう?こういうものは、自分で贈る相手の素肌に直接つけるのよ。ちょっと、官能的だと思わない?」
「都会の手管っスよ。―――なんか、ついていけません‥‥‥」
モテる男の手口を垣間見た気がした。
「あら、いいの?そんなこと言っていて?あなたの本命が、どこぞから、そんなものをもらってきたらどうするの?素肌に、あなたの知らない相手から貰ってきたリストウォッチをしてて、妬けない?」
オレは、正直、言葉に詰まった。
しばらくして、ふと、思った。自分が贈ったリストウォッチをあの人がつけてたら、確かにちょっとイイかも‥‥‥、と。オレは単純にそう、思った。
しかし、所詮、グレイシアさんも、ヒューズ中佐と結婚し、大佐をロイと呼ぶ時点で、あの人たちと同じ穴の生き物であることにオレは気がつけなかった。どこまでも、オレはこの人たちの酒の肴でしかないことを、この後、嫌になるほど、知ることになるハメとなる。
+ + +
東方と南方の合同演習中にテロが起きた。
南方司令部内にある野外演習場で行われたこの演習は、全てペイント弾を使用していた。しかし、その最中に実弾を使用した者たちが存在した。
瞬時に現場は混乱に陥り、あまりにあっけなく、演習に参加していた部隊は、見学に訪れていた士官候補生数名を人質に取られ制圧されてしまった。
テロリストたちは今回の演習装備を軍と同じくし、用意周到に潜入していた。
内部の人間から情報がリークされたことは疑いようもない。この演習は非公式であるばかりでなく、軍内の一部の者たちにしか知らされていなかった。現場は完全に先手を打たれ、烏合の衆と化していた。
野外演習場を一望できる高台から、双眼鏡を片手に、高みの見物を楽しんでいた将軍たちは、台本のない演習が始まったと喜色を隠しもしないで、新しいアルコールを部下に持ってこさせた。
この演習は、建前を将来有望な士官候補生に見学させるためとしていたが、本音は東方と南方から選出された各部隊の模擬戦のチョチョカルトを楽しむためだった。現役をすでに退いている老いぼれたちの数少ない娯楽となっている。
くだらない。
しかし、彼らが持つ権力はあまりに大き過ぎた。
南方司令部から選出された部隊の責任者としてこの演習に参加を余儀なくされた以上、どんなに不愉快でも、彼らの背後に立ち続けなくてはならない。
自分同様の立場で立つ、東方のマスタングもまた目の前に起きている状況に、顔色1つ変えず微動だにしない。
そう、どの道、現場がこのまま状況を把握しきれずに事態が打開されないのなら、彼らは我々に頼むしかないのだ。その保身のために。士官候補生たちに、もしものことがあったら責任問題に発展する。滅多にない軍界上層部に恩を売るチャンスだ。
―――待つだけで、いい。
彼らは、高級ワインを片手に面白くなってきたと、これ以上なく醜く笑った。
マスタングが動いた。彼らの視界を遮るように立つマスタングは、顔色の伺えない、いつもの鉄面皮のまま言い放った。―――私に、指揮権をください、と。
若いわりには頭の悪くない人物だと思っていたが、ここに来て功を焦ったか。ただ、醜いだけだった老人たちの顔が嗜虐的に歪んだ。
「君は、ものを頼むとき、立ったままお願いするのかね?」
自ら墓穴を掘ったマスタングは、小さく眉間に皺をよせ、彼らの足元に膝をつき、床に額を付けた。若さの代償だ。無表情な白皙に、微かに浮かんだ屈辱を隠しきれない表情に、老人たちはテロリストたち以上の面白味を見出したようだった。
「伏して、お願い申し上げます」
老人の1人が、半分ほど空いたワインボトルを手に持ち、マスタングの頭の上に傾けた。芳香なワインが床に広がり、場に嘲笑が生じた。さらに、足元に伏せられたままの頭を、先ほど外を歩き回り、泥の付いたままの軍靴で踏みつける。
「功績に執着するあまり土下座までする、こんなプライドの欠けた若造に将来有望な士官候補生たちを助けだせるものかね?」
老いぼれたちは笑う。そんな中、1人の老人が意地悪く言った。―――面白いじゃないか。彼に任せてみよう。その言葉に、彼らは当初とは別のトトカルチョをし始めていた。マスタングが成功するか、しないか。
指揮権を委譲されたマスタングは、白い額から流れた赤い血を拭いもせず、現場へ向かっていった。
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開けっ放しにしている窓から、勢いよく吹き込んできた風にカーテンが大きく翻った。
午前中に洗ったシーツはこの風で全部乾いてしまうだろう。
夕飯は貝だ。
下ごしらえに時間がかかるが、今日みたいな陽気の日には、白ワインと一緒に食べたら、さぞ、うまいことだろう。
大佐の行動はいつだって唐突だ。分厚い本を読んでると思って、ちょっと部屋の掃除をしてれば、いつの間にか本は床に捨て置かれて、オレの行動を目で追っている。
人寂しいのかなと思って、さりげなく大佐の座るソファの後ろを通れば、案の定、Tシャツの裾を引っ張られた。そして、一言。座れと、大佐の足元を指差された。この手の扱いには、もう慣れ切ってて、オレは大人しく言われた場所に腰を下ろした。
「―――他人を理解できると言うのは幻想に過ぎない、と思わないか?」
「はあ?そーなんスか?へー」
大佐の表情が、一気に冷たいものに変わる。
「お前と話をしてもつまらない。もう帰れ」
これだから馬鹿はイヤなんだと呟かれ、組まれたままの足で背中を蹴られた。オレとしては、唐突な言葉によく対応できたと思うんだけど。
大佐が床に落ちた本を拾い上げようとする前に、慌てて、その本を蹴っ飛ばす。
「冗談。冗談ですよ!マジで。―――えーっと、何でしたっけ?」
大佐は、大きな溜息を付きながらも、もう一度繰り返してくれた。
「―――他人を理解できると言うのは幻想に過ぎない、と思わないか?」
「ええっと、オレは、理解できると思います。だから、しようと思うし、やろうとすんじゃないんスか?」
「お前は馬鹿だから、できないことにも挑みそうだ」
「うーん、どうでしょうね。まあ、馬鹿なことは否定しませんが。大佐はどうして幻想だと思うんスか?」
「―――自分にすら理解し得ないものを、他人が理解できることなんてあるのか?」
「あー、なんか、なるほど。えーっと、でも、オレは、自分が理解できない部分を他人が理解できるっていうのは、案外ありに思うんスけど」
「ほう、何故だ?」
「だって、ほら、自分の表情って、自分じゃ見れないでしょ。自分が知らない自分の部分を、他人は知ってるわけっスよね。こういうのって、自分が理解できない部分を他人は理解できるってことじゃないんスか?」
「―――自分を理解するために必要な情報は、自分1人ではもち得ない、と?」
「それっスよ!それ!誰かを理解するためには、誰かが補うことが必要なんです。1人じゃ全部できないようになってんスよ。アンタには、オレみたいに日々アンタを見てるようなのが必要だってこと!」
大佐は笑って、オレのちょっと強引なキスを受け入れてくれた。どうやら、オレの答えはこの人の及第点に達したようだった。
夕飯は簡単なものに変更することに早々に決めた。
オレは、アンタが知らないことを知ってる。
アンタは、ときどき、すごくオレのこと大好きって顔して、オレを見てるんだ。
+ + +
室内の暗さから、外の明るさに目が順応してくるとエドワードは、そこに不思議な光景を見た。マスタングが住んでいる大きい家の内庭、木陰の中、マスタングが1人掛けのソファに横掛けに座り、その脇に高そうな椅子にホークアイが、2人に向き合う位置で少し伸びた芝生の上にハボックが片膝を立てて座って、3人でお茶をしていた。
階級差を感じさせると言うより、日頃の力関係を如実に感じさせるポジショニングだとエドワードは思った。
その中央には小さなテーブルがあって、その上にはお茶のポットだけでなく、ケーキやらサンドウィッチまである。それらを摘みつつ、3人は笑い声を交えながら、おしゃべりをしていた。
エドワードは、押さえきれない好奇心をもって、この実に話しかけ難い排他的な雰囲気を持っている彼らに声を掛けた。
「何してんの?」
3人の会話がぴたりと止んだ。
「天日干し。時々、紫外線に当てとかないと健康に悪いって言われてんだ」
「―――誰に?」
「ヒューズ中佐」
「風が出てきたわね」
「あー、そうっスね。じゃあ、天日干しは終了します」
ホークアイはハボックの言葉に頷き、腰を上げた。
「ホークアイ、君が来てから、まだ、2時間も経ってないぞ」
「あなたと一緒にしないでください。戻ります」
ぐうの音も出なくて沈黙するマスタングをハボックが抱き上げた。
ホークアイは、マスタングと頬を合わせるようなキスを交わし、エドワードとアルフォンスに挨拶をして、司令室に戻っていった。
ハボックは、そのまま、マスタングを抱えたまま、室内に入っていく。
「ナニ、アレ?」
エルリック兄弟は通常では全く考えられない、この一連の行動をただ口を開けて見ていた。
風なんかちっとも吹いてもいない、秋晴れの午後のことだった。
+ + +
仲間内の、ちょっとしたゲームに負けて、タバコを巻き上げられて、ムカついてただけだった。そんな中、さすがのタイミングとも言うべきタイミングで大佐がコーヒーと言ったから、いつも八つ当たりされていんだから、ちょっとぐらい八つ当たりし返してやってもいいだろうと思っただけだった。
乱暴に机の上に置かれたコーヒーカップを見て、大佐は実ににこやかな笑顔を浮かべ、―――このコーヒーはお前にやろう、今、ここで飲むがいい、と言った。
コーヒーを置いたら、すぐさま立ち去ろうと考えていたオレは出鼻を挫かれ、わずかに緊張した。大佐は、この一瞬の動揺を見逃してくれなかった。机の上に肘を付き、両手を顔の前で組んで面白そうに見上げる。
―――私のために、ちゃんと美味しいコーヒーを入れてくれたんだろう?と、その目が言っていた。
「あー、オレ猫舌なんで‥‥」
「では、冷めるまでここで待っていなさい。きっと、冷めても美味しいはずだ」
オレの入れた特製コーヒーは、隠し味に雑巾の絞り汁と生ゴミの汁がブレンドされていた。うっ、どうしよう。何て言ってごまかそう。
内心の葛藤を隠しながらも、チラリと大佐を伺えば、顔に笑顔を貼り付けたままだ。
「自分が飲めないものを私に出したのかね?」
あは、と笑ってみたら、大佐もにっこり笑い返してくれた。
「よろしい。今後、お前には頼むまい」
寛大にも、上司はコーヒー番を免除してくれた。お任せください、サー、そう言って、感謝を述べる調子のいいオレの言葉に、大佐は肩を竦め、そのカップを手に、コーヒーを入れてくる、と言って司令室を出て行った。
その後、大佐はしばらく戻ってこなかった。今日中に大佐の判が欲しい書類がどんどん溜まってくる。おそろしいことに、提出期限の過ぎていた書類を各部所に受け取ってもらいに行っていたホークアイ中尉が戻ってきたときにすら、大佐はまだ戻ってきていなかった。大佐がどこに行ったのか聞かれ、コーヒーを入れてくると出て行ったままですけど、と言ったら、中尉の眉間に深い皺が寄った。
「あの人、昨日なくなったコーヒー豆を買いに外に行ったんだわ」
大佐は、そのまま、日が落ちるまで戻ってこなかった。
+ + +
東方司令部の談話室で。
「ああ見えて結構、慎重なんだわ、あの人」
エドワードが持ってきた地方のお土産の饅頭をほお張りながら、不良軍人ブレダが言った。
「その判断基準は甚だ怪しいがな。よっぽどのことがない限り、そんなに自ら危険なとこに行かないんだぜ?そういう所、過信するような人じゃないんだ。その点、お前は危なっかしい」
「―――避けられねえことってのもあるだろ?」
言いたいことはわかる。オレはムカつくままに言動を取って、自分と関係ない危険の中に首を突っ込んでることが多いってことなんだろう。でも、頭でわかっていたって、腕が先に出ちまうことはあるもんなんだ。
憮然とした表情のエドワードに、もう1人の不良軍人ハボックが3人分のお茶を器用にもってきて、そのままブレダの隣りに座りながら口を開いた。
「そうだな。避けられねえことなら、飛び込むしかねえんだろうけど、避けられることを避けねえでいるのは馬鹿なんじゃねえの?」
「‥‥‥‥‥‥‥」
「いつも、自分の運、試すように綱渡りすんのは馬鹿だろ?」
馬鹿が言うんだから、マジだぜ?そう、ちゃちゃを入れたブレダをハボックが横からパンチを入れるが、それは大分加減されたもので、エドワードは、この2人の力関係を見た気がした。
つまり、何もかもに命は賭けられねえ、ってことなんだろう。
逃げるが勝ちと言いたんだ、この人たちは。
ムカつくこと全てに、向かっていくな。
オレの命はそんなに安いもんじゃねえんだから。
「でも、まあ、ちょっとは頭に血が昇ったりすっと、無茶すっかもな」
エドワードは、それでも釈然としないまま言った。
「それくらい、タマが付いてんなら当然だ!」
その言質の勢いに乗ったまま、ブレダはエドワードが持ってきた司令部へのお土産の最後の饅頭に手を出した。これで、大佐へのお土産がなくなったことに気が付いて、エドワードちょっとだけ気持ちが晴れるのを感じていた。
+ + +
「あー、大佐?大佐ねえ。オレは、肉体労働専門だからなあ。真面目なことなんか知らないぜ?阿呆話で、土産話になんのか?」
たまたま自分の小隊の隊員の同期が遠方から視察に来ていた夜の酒場で、焔の錬金術師の話題になって、なんか話を聞かせてくださいと言われた。オレが何か言うより、実際に本人を呼び出したほうが速いと思ったが、あの人は今日、東方の財界人たちと会食に出てていなかったから、ちょうどいい、阿呆話をしてやれと思った。
――大佐の家にはじめて入ったとき、メシを作らせられて、ご相伴に預かったんだわ。
生活感のない家のくせに、妙に食器だけは多いんだ。
あー、鍋が一個しかないんだぜ?しかも、使った形跡すらなかった。
オレがその鍋を見つけたとき、まだ、箱に入ったままだったんだ。
そんな家に、なんで食器だけは大量にあるんだって思ったぜ。
まあ、だが、謎はすぐ解けた。
あの家に行く人間が持ち込んでたんだ。
何にもない家だからな。
皿とフォークとコップ持って、上官の家に行くなんてどうだよ?
普通、ありえねえだろ。ありえねえんだって!
あー、まだ、続きがある。つうか、ここからがメインだ。
その不自然なほど大量にあった皿には、名前がプリントしたものが大半だった。
特別注文ってやつだな。
大佐の名前が入った皿以外にも、いろんな名前が入ってた。
主に、ヒューズ一家の名前の入った皿が一揃え置いてあんだわ。
ヒューズ中佐って言うのは、アレだ。アレ。
大佐の有名な仲良しの友人で、軍法会議所のヒゲとメガネの人だ。
知ってるだろ?えれえ若いのに、軍法会議所のエースって呼ばれてる変態だ。
―――ツッコミどころはいろいろだろうが、ひとまず、それは置いておけ。
わざわざ、この話をしたポイントは大佐の使ってる皿のことなんだ。
あの人、ヒューズ中佐のご息女が選んだっつう皿を使ってんだよ!
いいか、黒猫の絵が描かれたファンシーな子供用の皿だぜ!
それ見て、さすがにオレは腹を抱えて笑うのは堪えたけどよ。
あのホークアイ中尉は大笑いしてたんだぜ!
あー、もう、最高!
なんでも、そのご息女が、大佐が1人でメシ食うのかわいそうだから、寂しくないように、って選んだらしいんだ!
1人のときにも、あの人、約束したからって、律儀にその皿使ってんだぜ!
どうだ?笑えるだろ?あー、おかしい!
こんなにおかしい話をしてやったのに、そいつはにこりともせず、それどころか顔を引き攣らせた。が、オレの小隊員には大ウケだった。そうとも、酒のつまみは上官の悪口が一番だ!
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「オイっ!ハボック!下ろせ!!」
「そんなこと言ってる場合じゃないっスよ!」
「命令違反だぞっ!わかっているのか!?」
「死んだら元も子もないでしょ!?」
マスタングを問答無用に力任せに肩に担ぎ上げながら、ハボックは自分の小隊の隊員たちに撤退を叫んで、戦場をひた走る。
肩に担がれたマスタングが大きな舌打ちをして、大きな焔を練成した。
野営地が辛うじて見えてくる頃、担ぎ上げられたままのマスタングが不機嫌な様子を隠しもせず、下ろせと言った。ハボックとしては、その言葉をもっと早く聞きたかったのだが、強引に担いだ以上、下ろすに下ろせなくなっていた。担いで走れば、腹部が圧迫されて痛いくせに、我慢し続けたところにハボックは、マスタングの機嫌の悪さを感じ取っていた。
対照的に、怪我人もなく、一応、命令を遂行されていたため、隊員たちは皆、緊張感が解け、マスタングとハボックのいつものやり取りに傍観者を決め込み笑いを堪えている。命令を堂々と無視され、面目丸つぶれと言った風のマスタングだが、日頃のホークアイとのやり取りを十分に知っている隊員たちは、マスタングが面目を気にする人ではなく、結果を正当に評価をする人だとわかっている。それに、もはや取り繕うものなど持っていないことも。マスタングはただ、もう、面白くないと言った態なのだ。
そして、これは現場ではよくあることだった。
しかし、ただ1人、新兵だけが青くなっている。
他のところなら、間違いなくハボックは降格処分だろうから。
「―――ハボック」
唸るような地を這った低い声に、ハボックがいろいろ言われる前に先手を打って謝罪した。滅多にしない敬礼つきで。―――命令違反して申し訳ありませんでした。しかし、あの状況では正しい判断だと考えました、と悪びれた様子もなく。
「こういう時、自分より背の高い部下は実に嫌なものだな。ハボック少尉。正座だ」
「あの、ここ、じゃり道っスよ?」
「そうだな。少尉」
しばらく、2人は無言のままだったが、マスタングが引く気がないとわかると、ハボックは肩を落とし、マスタングの足元に正座した。それを見て、隊員たちが一斉に歓声を上げた。
―――アイツら、面白がりやがって!大佐は、顔色1つ変えないし。
「少尉、お前の判断は、結果的に正しかった。わかるか?結果的に、だ。怪我人1人も出さなかったことは評価に値する。私は、お前の現場での判断を高く評価している」
オオー!っと、ギャラリーからどよめきが走る。
いつの間にか、隊員たちはマスタングとハボックの周囲を囲んでいた。すでに、見世物扱いになってることにハボックは思わず片手で顔を覆った。
「―――しかし、お前のしたことは、全体の緻密な作戦の中では、イレギュラーな行為だった。ここで我々全員が生き残ったために、他の部隊に大きな被害が生じる可能性もある。つまり、作戦全体の成否を左右し兼ねないということだ」
「‥‥‥うス」
「今回は作戦があまりにずさんだったと言うこともあり、この作戦を立案した将軍のメンツを潰す形で我々は目的を達成してしまった。これは由々しき事態である。しかし、私なら、将軍のメンツを潰すことなく、作戦を遂行できたはずだった」
にやりと笑って、目の前のことしか見えてないお前と違って、と続けた。
ハボックとしては、それは確かにそうなのだろと思いながらも、腑に落ちない。何だかんだ言われても、自分の判断は正しいと言う気持ちは強固にあった。自分は、小隊長であると同時に護衛官でもあったからだ。
マスタングは正座したままのハボックの頬をぎゅっと抓り上げた。
「イタタタタタッ!」
「お前のせいで、私が何時間、いやみを言われると思っているんだ。全く!」
「イテエっスよ!マジで!!マジっスから!!」
ハボックの目が潤んできて、マスタングはやっとハボックの頬をやっと離した。
「心を込めて、私に詫びろ」
結局ここにたどり着くのかとか思いながらも、ハボックは釈然としないまま、小さな声で謝った。
「‥‥‥スンマセンでした」
「当然だっ!!―――だが、まあ、今回は、怪我人を出さなかったことを評価し、野営地に戻ったら、そのまま解散。各自、適当に明日の準備をしておけ。私は戻り次第、将軍に報告しに行かないとならないだろう。私を待つ必要はない。わかったか」
「イエッサー!」
都合のいい命令に、現金な隊員たちは一斉に姿勢を正し敬礼をした。
マスタングは、そんな態度を気にするでもなく、小さく頷いた。
「よし。戻るぞ」
「イタタタタ、足、しびれた‥‥‥」
蹲っているハボックを、容赦なくマスタングが背後から蹴り倒した。
「もっと、反省したまえ」
容赦のない笑い声が隊員たちから上がった。
+ + +
秋雨の朝。銀糸の雨が大地を労わるように静かに降り注ぐ。
晴れが続いた最中の恵みの雨となった。
ハボックは、少し肌寒い室内を背中を丸めて歩く。―――あー、さみい。無駄に広すぎるんだよ、この家は。ぶつぶつ文句を言いながら半分自分の家と化しているこの家を好き勝手に、朝の光景に変えていく。
カーテンを開けて、部屋や廊下の至る所に転がる本を片付けつつ、目的地であるキッチンへ。まだ、薄暗いキッチンに秋の本格的な到来を感じて、ハボックは勝手口のドアを開けた。雨が降っている。穏やかな雨に今日はここで一日中ごろごろしていようと決めて、この家にある最も高いコーヒーを煎れて、目覚めのタバコに火を付けた。
雨が降れば休みを連想するのは、田舎に育ったからだろう。都会育ちのあの人は、服が湿っぽくなると言って、朝の雨にあまりいい顔をしない。
ハボックは自分の想像に笑った。―――きっと、あの人、小さいとき、雨の日に仮病を使って、学校をサボったりしてたんだろう。オレは、雨の朝は、早起きして近所の馬の世話をしなくて済むから、いつもより長くベッドの中にいられてうれしかった。
近づいてくる足音と、時々、壁にぶつかるような音にマスタングが起きたことをハボックは知った。やがて、昨夜の深酒で早々にダウンしたマスタングが、着乱れたパジャマのまま、髪に寝癖をつけてキッチンに顔を出した。
「ハボック‥‥、頭が痛い‥‥‥」
まるで、たった今自分が想像していたままのマスタングの姿に、ハボックは込みあがる笑いを堪えるが、それどころじゃなさそうなマスタングはそんなハボックに気が付かない。
「あー、起きたんですか。まだ、寝てたらいいでしょ。せっかくの休みなんスから」
「こんなに頭が痛くて、寝てられるか‥‥‥」
頭は痛いがまだ眠いようで、マスタングがしきりに目を擦る。
「飲みすぎなんスよ。昨日あんなに言ったのに」
「お前、私の肝臓が、あれしきのアルコール量の消化が難しいほど老化しているとでも言いたいのか‥‥‥」
「そんなこと言ってないっスから。被害妄想ですよ」
「被害妄想‥‥‥!お前の口からそんな言葉を聞くとは思わなかった‥‥。もしかして、まだ、夢の中なのか‥‥‥?なんて嫌な夢なんだ‥‥‥」
そう、夢うつつに呟いて、マスタングは踵を返した。時々、壁にぶつかりながら、寝室へ戻っていく。
「―――寝惚けてんのは、アンタだろ。全く」
ハボックは薫り高いコーヒーをマグカップに注ぎ、あの人が起きるまで何をしようか考え始めた。
+ + +
準備に追われる部下たちの間をウロウロするマスタングを迷惑そうに追い払っていた同僚に睨まれ、ようやくハボックが重い腰を上げた。
「あー、大佐はこんにゃくをお願いします」
「む。任せたまえ。で、どうしたらいいいいんだ?包丁はどこだ?」
ぐるりと周りを見渡したマスタングから、誰もが一斉に包丁を隠した。
「ハボック‥‥‥」
明らかに周りの反応に不満を訴えかけてくるマスタングと目は合わせず、ハボックは包丁はいいんですと言った。
「手でちぎって下さい」
「ハボック?」
周囲を見渡せば、ごぼうをささがきするもの、にんじんを切るもの、里芋の皮を剥くもの、たくさんいる。みんな、包丁を持って。ホークアイだって、豚肉を切り刻んでいる。どうして、私だけ?
ハボックは自分の手元から目を離さない。
「こんにゃくは手でちぎると味が浸み込みやすくなるんですよ。決して、アンタに包丁を渡すと後が面倒だからじゃないです。それにアンタが言ったんじゃないっスか。旨みは味だけじゃなくって、食感も大切だって。こんにゃくは豚汁の中じゃ食感が違うから必要不可欠でしょ?」
ハボックの言葉に耳を澄ましていた人間が口々に同意の声を上げた。次第に、それはこんにゃくコールに変わっていく。
「―――よし!わかったぞ!こんにゃくは任せたまえ!」
マスタングは、大鍋の端に堂々と立ち、ダンボール一箱のこんにゃくに手を伸ばしちぎりはじめた。
事の発端は、数日前の焼き芋をマスタング直接の部下たちが全員ボイコットしたことにある。しかし、マスタングは打たれ強く、野外訓練時の炊き出し用鍋を職権乱用で借り上げ、今度は用意周到にも、東方最高司令官の判を押された芋煮会強制参加の命令書を手ににこやかに笑って言ったのだった。―――芋煮会をやるぞ、と。
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聞き慣れた排気音が背後から減速してくる気配を感じたときから、嫌な予感はしていた。
わざわざ、オレの進行方向を塞ぐように停められた軍用車の窓が降りて、見知ったヒゲとメガネの顔が現れた。
「よお!」
せっかくの休暇が、せっかくのデートが、不吉な色に彩られたのを感じる。
「―――ヒューズ中佐‥‥」
勘弁してくれ。もう、ホッントに勘弁してくれ。
厄介な上司なんて、1人で十分なんだよ!
人の困惑は全く見ずに、人の迷惑がそれはもう大好きな上官が実に嬉々として話しかけてくる。運転手の怪訝そうな視線が痛かった。
「なによ、ハボック君?潜入捜査中?」
もし、マジでそう思ってんなら声なんかかけてくる人なんじゃない。人のことをからかう雰囲気を隠しもしないその態度に、こめかみがヒクリと痙攣したのを感じた。
「あらららら、花なんか持っちゃって。見舞いか?墓参りか?ん?」
その馬鹿にした言いっぷりに、相手にしてはならないという気持ちが砕けた。
「――――あのね、中佐。デートでしょ!?デートっ!!アンタたちが言ったんでしょ?デートのときには花ぐらい持ってけってッ!!!」
「そんなこと言った覚えはないぞ。いよっ!色男だねぇ!!」
人の恋路がかなり複雑で入り組んだものになっていることを知っている中佐に、これ以上何か言われることに耐え切れなくて、その場を駆け出した。きっと、今日のデートも失敗するだろう。そして、早かれ遅かれ、振られることになる。女は自分に好意があるかないかを敏感に察知する。
本当に好きな人は別にいるオレが振られるのは当たり前なのだ。手に持った花束が、途端にみすぼらしいものに見えてきた。まるでオレのようだと思った。
もし、あの人に花を贈るなら、何にしようか―――、彼女と待ち合わせたカフェが見えてくるまでそんなことを考えていた。