LOVE BOMBS
T-01

犬を買いに行こう。念願の犬。ちゃんと私にだって飼えるということを証明してみせる。



それは、フサフサの、フワフワの、大きな犬を買いに行く途中だった。その証拠に私の手にはむき出しの札束が握られたままだった。
自分の石畳を行く足音しか聞こえないはずの深夜の静寂の中、そこに不自然な音が混ざりこんだ。まるでゴミを漁るかのような音に近くにゴミ捨て場があることを知り、思わず路地裏に目を向けた。そして、そこのゴミ捨て場にいた一匹の犬と目が合った。
痩せ過ぎの、毛皮をタールに汚す犬。
しかし、敵意をむき出しに睨んでくる目が夜目にも青くて、思わず足を止めてしまった。まだ成犬になりきらないが、最もかわいい盛りの過ぎたサイズ。
やっぱり、犬は子犬から育ててこそだろう。でも、青い目の犬はいいかも…。

不躾にも自分を凝視する人間を追い払うようにその犬は数回吠えたが、自分に危害を与えないとでも判断したのか、すぐに私から目を逸らし、ゴミに鼻を近づけ匂いを嗅いだ。
そういえば、近所のクリーニング屋の娘さんが近々役所が増えてきた捨て犬の駆除をすると言っていなかっただろうか。そうなると最近の役所は人手不足で、一々捨て犬を捕まえるために人員を避きはしないだろうから、毒薬の入った餌をばら撒く…。そうだった。この話を聞いたときは、今後犬を飼うこともあるかもしれないから、犬に拾い喰いをさせないようにしなくてはと思ったんだった。
目の前の犬にも忠告をしてやろうと思った矢先、その犬が不自然に倒れ、痙攣を起こし始めた。毒の入ったものを食べてしまったのか。思わず、その犬に走り寄り覗き込んだ。
犬は口から泡を出しながらも、威嚇する気にあふれた目を私に向ける。
生きることに貪欲なことは素晴らしい。
私はこの犬を助けてやりたくなった。例え、この犬がそれを望んでいなかったとしても。

毒入りのものを食べてしまった可能性が高いだろう。
そう、一応説明してから、それを吐き出させるために犬の口を強引に開き、手を喉の奥に突っ込んで人間が吐く要領でえずかせる。犬は人の滅多にない親切を介さず、嫌がって噛み付いてきた。
死ぬか生きるかの瀬戸際の行動には力が篭ったが、犬の最大の攻撃である噛むという行為は同時に弱点である口腔内をさらすことでもある。また、単に噛まれて痛かったこともあってちょっと強く犬の舌を掴んでしまった。青い目に涙が浮かび、こみ上げてきた吐嚼物を吐き出すと同時に涙がぽろりとこぼれた。私はこの時初めて犬が泣くことを知った。

胃液まで吐かせてから近くの公園に連れて行き、今度は大量の水を強引に飲ませてから、再び吐かせる。もうこの頃になると、犬はぐったりとしてたいした抵抗はなかった。私は自分の処置が遅かったのかと焦ってきてさらにこれを2、3回続けたら、犬はピクリともしなくなった。

私は間に合わなかったのだ…。
朝を待ってちゃんと供養をしてやろうと、私は犬の亡骸を抱きかかえて帰った。手の中の犬はびしょぬれで冷たく、見た目よりもずっと重かった。
犬を買いに行ったのに、私は死んでしまった犬と一緒に帰宅する。
お前には絶対生き物を飼うなんて無理だと言い切った男のひげ面を思い出してしまった。確かにそうかもしれない。私には死んだ犬の弔いがせいぜいなのだろう。

家に帰って大きな白いバスタオルで亡骸を包み、最後の夜を添い寝をして過ごした。それがせめてもの私からの弔いだった。



翌朝、自分のベッドの上に奇妙な生き物を見つけひどく驚いた。
随分汚れた金髪の青い瞳のかなり汚い青年がベッドの上に正座をして、私の右手を両手で握っていた。その青い瞳が涙で潤んでいる。しかし、これぐらいでは私は驚かない。
青年の頭にはなんと耳が生えていたのだ!
頭の上にぴんと立つ、紛れもなく犬の耳。私は耳を四つもつ存在をはじめてみた。
私が起きたことに気が付いた青年は即座に叫んだ。
「血が止まんないだっ!」
言われて、私は気が付いた。白いベッドシーツも何もかもが血塗れに赤く染まっていることに。青年が右手の傷口を両手で押さえていても、血は青年の手を伝ってベッドを赤く染めていく。
昨日、犬に噛まれた傷は思いの他深かったらしい。
何とかしろっと迫られても私は目の前の素っ裸の青年の方が気になるのだが、青年の剣幕に押されるように自分の右手を見つめた。何か止血するものが必要だろう。
私がベッドから降りるとき、青年も傷口を押さえたままに一緒に降りた。
青年の素っ裸の尻にはなんと尻尾までついていた!



驚きに言葉を失う私を青年は無視して手当てを促す。
傷は思ったよりもずっと深く、結局医者を呼んで25針縫うことになった。しばらく利き手が使えないとは大変だ程度にしか思わない私と対照的に、その青年は落ち込んでいた。
頭の上の耳が、どうにも垂れ下がっているのだ!


T-02

人間は鼻が悪いし目も悪い。挙げ句に耳まで悪い。なんとも脆弱な種だ。
オレは自分の種族を誇りに思っている。



スプリングの効いたベッドがあまりに気持ちがよかったからか、気が付いたら人型にメタモルフォーゼしていた。だからきっとこの目の前の異常な状況に気が付かないでぐーすか寝ていたんだろう。そうとしか考えられない。
一旦、意識し出したらもう止まらない。
血液特有の鉄臭さがこの家の至るところからした。

人間が寝ているベッドに自分が寝ている成り行きは大体覚えていた。オレの命を助けてくれた人間が意識のないオレを自分の家にまで連れてきてくれて、体を温めてくれたんだ。こんなに汚いのに自分のベッドにまで入れて。
――なのに、オレは命の恩人の手を強く噛んでしまった。口の中に手を入れる理由を説明してくれたのに、オレは反射的に牙を立ててしまった。単に骨を噛み砕かなかったのはこの人がオレの舌を掴んだために過ぎなかった。
血の臭いが隣に眠る人の右手からするとわかったときから、手元にあったタオルでその傷口を押さえていたが、すぐに白いタオルが赤く染まっていった。生温かい血は止まる気配すらなくて、赤いタオルを捨てて慌てて傷口を手で塞いだ。
色の白い、黒髪の男は目を覚まさない。このまま目を覚まさなかったらどうしよう。
どんどんオレは怖くなってきた。

部屋がわずかに明るくなってきた頃、男は唐突に目を覚まし漸く自分の怪我の状況を把握したようだった。血液が減ったせいで男は随分呆けてて、急かして急かしてやっと医者を呼んで手当てができた。



今だ呆けたままの男はリビングのソファに深く座って足を組み、腕から輸血を受けながら不思議そうにオレを見ていた。正しくはオレの動く耳を…。
「えーっと、君は?」
命の恩人には義理を欠いてはいけないというのが家訓だった。言ってもわかってもらえないことは経験的にわかっていたから、目の前で実際にメタモルフォーゼして犬型になってみせた。男は、何だ妖怪かとだけ呟いて目を閉じた。
「―――腹が減っているのなら、この家にあるものを何でも食べたらいい」
そう言うだけ言って眠りに落ちていった。

オレ、妖怪じゃないんスけど…。
オレの呟きは男に届かなかった。



かなりの時間がかかって、でっかい家の中からかき集めたわずかな食料から適当にメシを作ったらリビングで寝ていた人が目を覚ました。アンタも食います?と聞いたら、うれしそうに頷かれ、2人で湯気が立つ温かいだけの適当な料理を突く。利き手が使えない人は悪戦苦闘しながらも左手でなんとか食べていた。

オレは空腹を辛うじて満たしてから、もう一度自分のことを話し妖怪ではないことを説明したが大した差はないだろうと言われた。こうなるとなんて言ったら分かってもらえるかなんて何も思いつかなかった。困惑に口を噤むオレとその困惑に首を傾げる向かいの男。――沈黙に口を開いたのは男だった。
「あー、それより、食べるものに困っている生活を送っているように見えたのだが…」
「――まあ、控えめに言ったらそうなんスけど」
男はオレの言葉に少しほっとした顔を見せた。
「だったらここに住まないか?私としても自分で食事の用意ができて、自分で散歩をする犬を飼いたいと思っていたところなんだ」
「――オレは犬じゃないっスから」
それに、そんな犬はいないし…。
「でも耳も尻尾もある。この際あまり細かいことは気にしない」
「……………」
「まあいいじゃないか。行く当てがないのならしばらくここにいても。時々犬型になって、私と散歩してくれればちょっとうれしいなあ」
男ははにかむように笑った。人間に飼われることは我慢ならないが利き手が使えない命の恩人を放っておくのは家訓に背く。
「名前があるのだろう?教えてくれ」
「―――ジャン・ハボックっス」
「よろしく。ハボック」

なんか変なことになってきた。


T-03

「では、まず、洗わないとな!」

ロイ・マスタングと名乗った人は輸血を終えると、嬉々としてオレを風呂場へ引っ張って行った。はじめは犬型を洗いたいと散々駄々を捏ねられたが、利き手が使えないのに洗うなんて無理に決まってるでしょと言うと途端に肩を落とす。――なのに、人型のオレの歩くと揺れる尻尾を見ると機嫌が直るようだった。直ぐに雰囲気が抑えきれないほど明るくなった…。
「何故、こんなに汚れている?」
「オレの頭、派手な金髪なんで目立つんスよ。だから、こう、時々、タールとか泥とかつけないと路地裏で目立っちゃって」
アンタみたいな黒髪だったらよかったのに。闇に紛れてしまえる。
「ふうん。――でも、これからは汚さなくてもいいだろう?」
期待にこもった視線に逆らえ切れず、オレは思わず頷いてしまった。
命の恩人はたかがこれしきのことにうれしそうににっこり笑った。

「あ、ちょっと待て。キッチンに用がある」
キッチンには特に何もない。さっき食べてしまった食料がこの家にある全てだった。
それでもあえて言うなら、皿が数枚とグラスが4つフォークとナイフスプーンが少しに、鍋が1個。調味料ですら塩が1袋のみ。生活臭が恐ろしく乏しい。
オレははじめこの家はこの人のセカンドハウスかなんかなのだと考えていた。
「――何にもなかったっスけど?」
「そんなことはない。洗剤を買って置いておいた記憶がある」
広くて物のない殺風景なキッチンを横切って、恩人はシンク下を覗き込んだ。しかし、そこには何もない。当てが外れた人は周囲をきょろきょろと見回すと、物のほとんど入っていない食器戸棚の上に置かれたダンボール箱に目を止めた。そして、そのままダンボール箱を取ろうと両手を挙げて背伸びをする。
オレは慌てて後ろから手を伸ばし、お望みのものを下ろした。

ダンボールの中から店のロゴの入った紙袋を見つけるとその人はああ良かったと言った。そこから使われた形跡のない食器用洗剤が出てきた…。言いようのない漠然とした不安がオレを襲う。
「――まさかとは思いますけど。これをオレに使えって言うんじゃないでしょうね?」
食器用洗剤で犬を洗うなんていう話も聞いたことがない。
「ハボック。その汚れが普通の石鹸やシャンプーで落ちるとでも思うのか?」
「――何で、落ちないと思うんスか?」
汚い自覚はあるがそこまで汚いとは思わない。それに汚いのは表面だけだし。
「この前、新聞に書いてあった」
「犬は食器用洗剤で洗えって?でも、オレは犬じゃないし、今は犬型でもないっスから」
人間の考えることは理解できない…。
「違う。そうじゃない。重油まみれになってしまった鳥をこの食器用洗剤で洗ってたんだよ。きっとお前もこっちを使ったほうがいい」
その言葉には善意のにおいがするものの、なかなか素直には頷けなかった。
「――はあ…」



ここがバスルームだと言うとその人はドアを開け放ち、そこに堂々と座り込んだ。まるで見物する体勢は整ったと言わんばかりに。
「―――なんで、そこで見る気満々なんスか?」
「私は妖怪を見るのははじめてなんだ。何もかもが興味深い」
「オレは妖怪じゃないって何回も言ってるっしょ?それに風呂入ってすることは人間とそう変わりませんから」
その人はすっごく意外そうに目を見開いた。オレとしてはむしろそのリアクションに同じ反応を返したい。
「もしかして、恥ずかしいのか?」
「もしかしなくとも、恥ずかしいでしょ!」
アンタは恥ずかしくないのかっ!?
「―――医者が来ても素っ裸だったのに?」
「だって!あれは慌てててっ!」
アンタは呆けてるし、体温がどんどん下がっていくし!
この人も医者も特に何か言うわけではなかったから、素っ裸でも気にならなかっただけだ!
「ふうん。では、人型のときには服を着る習慣があるんだな?」
「当たり前だっ!」
その時、ちょうど運よく電話が鳴った。助かったと思って安堵の息を漏らしたが、目の前の人は動く気配を見せない。――電話ですよ?と咎めるように言ったら、漸く腰を上げてくれた。

電話が鳴ったおかげで見物人の前で体を洗うハメにならずにすんだ。よかった…。
だけど石鹸やシャンプーではどうにも汚れは落ちなくて、結局あの人が用意してくれた食器用洗剤を使うハメになった。今後、毛皮を汚すときは、汚れを落とすときのことを考えて汚そうと思った。


T-04

腰にタオルを巻いて風呂から出たら、あの人の呼ぶ声がした。

リビングには色とりどりで様々の形の無数のパンツが目の前に並んでいた。
もちろん、そこにはパンツだけがあったわけじゃないけど、広大なリビングの端から端までずらーと並んだパンツは実に壮観だった‥‥‥

その人はそのパンツの中央に陣取りパンツを両手でびよーんと引っ張りながら、実ににこやかにオレに好きなものを選べと言った。ここで何を言ったらいいのかわからないのは、オレが人間じゃないからだとはとてもじゃないけど思えなかった。
だけど、人型のオレにパンツが必要なのは事実で…。
好奇心を隠しもしないその人とできるだけ視線を合わせないようにして、一番近くにあったちょっと派手な柄のトランクスを手に取る。はっきり言ってパンツなんてなんだってよかった。この人が口を開くまでは。

「――やっぱり、トランクス派か。そうだと思ったぞ。犬はフルチンだからな。締め付けのあるパンツは受け付けないんだろう?しかし、そんな派手な柄モノを選ぶタイプには思えなかったが…。確か一説には派手な色を選ぶと言うのは自身に自信がないタイプが多いと言う。もしくは深層意識で自信がないタイプ。だが、お前のモノはなかなか立派だ。そうなると、もしかしてお前は早漏なのか?犬は激しい持久力のある交尾を行うと言うが三擦り半で果てるなら犬の世界では自信喪失に繋がるだろう。うん。でも男の価値はセックスだけじゃない。気にせず強く生きたらいい。私はお前が早漏でも馬鹿にしたりしないよ。ハボック」
はらりと、オレの手からパンツが落ちた。なんかこのパンツだけは男としてはいてはいけないような気までしてきた。その人のオレを見る生温かい目がさらにこの気分を加速させる…。そんな目でオレを見ないでくれ…!
「ち、近くにあったから、手に取っただけっスから‥‥‥」
さらに、その目に浮かぶ哀れみの色が濃くなった。嫌な汗が背中を伝って行く。
地味で、極力、地味なパンツを目が探す。
「これっ!これにします!!」
最も地味なトランクスをオレは急いで握り締めた。
「――柄パンが早漏を象徴すると考え、無地なアースカラーのパンツを選ぶ。つまり、自身のソレにコンプレックスなどないことを主張したい訳か?なるほど、お前は深層意識下で自信がないタイプなのだな。推測するに、身体的には何の問題もないが初体験で誤射等の失敗を犯し不本意な思いをしたことがあるのだろう。きっとグラマラスな年上の相手に『カワイイ』とか『速いわね』とか、クスッと笑みを浮かべられながら言われたに違いない。そのトラウマを今だに抱えていているがために、派手な柄パンツをはくことによって周囲だけでなく自分すらも威嚇し鼓舞することにより、過去の記憶を払拭しようとしている…。ハボック、遠慮する必要はない。好きなだけ柄パンをはきたまえ。こういうことは時間をかけて克服していくものと言う。今後、再び同じことを経験したらお前の傷はより酷いものになってしまうだろうからな!」
例えば、これがふざけた調子で言われたならオレにしても何かしら言いようがあったと思う。それにこの人が言ったことはあながち間違いとも言いずらかった…。
オレは何故パンツ一枚にこんなにイヤな汗を流しているのだろうと心底、思った。

言葉を失っている内にその人は例のパンツ以外を残さずダンボール箱に入れはじめた。そして、床に広がったパンツを全部片付け、立ちつくしたままのオレが握り締めていた地味な無地のトランクスに目を向けると、パンツを握ったオレの手を両手で包みこんでオレを覗き込み真剣な目をして言った。
「これは持っていたまえ。トラウマを克服したときのために」

オレは本当に近くにあったパンツを手に取っただけなのに…。



その後、パンツ以外の服を選んだ。もちろんGパンとTシャツ以外にオレが選ぶものはない。スーツとかタキシードとかを必死に進められたが謹んで拒否した。
「――確かにGパンの似合う雄は魅力的だろう。だが、Gパンの似合う男がタキシードが似合うとは限らないが、タキシードの似合う男はGパンすらはきこなす。タキシードは着る機会を考えるよりも一着持っていることが男を磨くことになるんだ。強いてはお前のトラウマを克服することに繋がる。ハボック」
同情に満ちた目で諭すように言われたが、オレは何があってもそれを着ないとたった今心に誓った。その人は頑なに首を縦に振らないオレに対して怒るでもなく、メジャーをポケットから出しオレの体の部分を測りはじめた。
「何してんスか?オレ、マジでタキシードなんかいりませんよ」
「うん。わかってる」
「じゃあ、何のためにしてんスか?」
「――趣味だ」
「……………」

きっとこの人はオレのと勝手に言っているトラウマというものを克服できるようにと思ってくれているんだと思う。
自分の趣味と言い切ってまで、不自由な利き手でなんとか腕の長さとか胸囲とかを測ろうと不器用にも奮闘する姿にこれ以上強く言えなかった。
かなり馬鹿にされている気はするものの服を貰ったことは事実でありがとうございますと礼を言ったら、笑顔で首輪とリードも揃えないとな、何色がいいだろうと言われた。


T-05

ぐーっとオレの腹が鳴ったら、その人は買い物に行こうかと言った。腹が減って倒れそうなほどのオレとしては否はない。それにこの家に食料らしいものがないことも知っていたし、どの道買出しは必要だと思っていた。
貰ったばっかりの服を着て、靴を履いて、一緒に家を出る。鍵を掛けたその人が鍵をもう一本作らなくてはなと少し恥ずかしそうに頬をピンクにして言うから、何だかオレも異様に恥ずかしくなってしまった。



外に出れば夕焼けがきれいで、家路に急ぐ労働者たちや学生たちの姿が目に付いた。最近ずっと食べるものを探して終わるだけの一日を送っていたことに今更ながらに気が付いた。まるで野良犬そのものじゃないか。
ガキの反抗期で些細なことを原因に、家族とケンカして故郷を飛び出して、そのままだった。自分の群れを作るつもりで群れから飛び出て、今だ1人。
自分はあの頃からちっとも成長なんかしていない。何をやらせても中途半端なままだ。人型となって人間に混ざって生活することもできず、犬型でも空腹に耐え切れず毒の入ったものを食べてしまった。自分は何がしたいのかすらわからなくなって、結局親父が喧しいほど言っていた家訓なんかにすがっている。
自由を束縛するもの全てから逃げ出したのに、それはオレの手には余ったのだ。
何かがなくてはもうこれ以上生きていられない。
自分を縛る何かを求める、自分の弱さに幻滅する…。

公園を横切って大通りにある量販店に行こうと言う、一歩オレより前を歩く人の利き手に巻かれた包帯が痛々しい。命の恩人に何針も縫うほど噛み付いて。
なのに、オレはこの人の手が治るまでは、この人の傍にいなくてはならないことにほっとしていた。与えられた大義名分と居場所は無自覚ではいられない程の安堵感があって…。
家訓とかしょうがないとかそうと零しつつも、ここに居たらいいと言ってくれた言葉にオレは甘えている。その手が治るのが遅ければいい。そう思わずにはいられなかった。

役に立とうとするなら人型を維持しなければならない。しかし、人型は犬型に比べて食べる量も多くなるし、着るものが必要になったりと手間も面倒も金もかかる。酔狂な人は全く気にしたそぶりも見せないけど、床に広げていたパンツだけでもかなりの額になる…。そもそも、あの量のパンツが金がいくらかかったかと言うより、家にあることの方がおかしい。だけど、オレ的にかなり好意的なことを考えてみた。
「あー、アンタ、服屋でもしてんスか?」
「ん?何故そう思うんだ?」
不意の、オレの疑問にすら楽しそうにその人は振り返り、少し首を傾げた。
「あんな大量のパンツやら、服やら、靴やら、服屋でなかったら出てこないでしょ」
「量販店に電話で言ったら持ってきてくれたよ。わざわざ買いに行く必要はない」
次元の違うハナシに口を噤んだ。――つまり、アンタは金持ちというわけ?
「私も聞きたいことがある。人型のときに飛び出ているその耳と尻尾は出し入れ自由自在なのかね?」
言われて気が付いた。今自分の頭に耳はないし、ケツにも尻尾はない。完全に人型になっている。あんまり意識していることではなかった。
「――自由自在です。あー、でも、ちょっと油断したり、びっくりしたら耳とか出ちゃいますね。出ている方が楽なんスよ」
「それは、何よりだ!」
その喜びようがなんか気になる…。



物珍しそうに周囲を見回してその人は大型量販店に入っていった。
「アンタ、カート使わないんスか?」
「カート?」
こんなトコ来たことないなんてありえんのかとか、単にオレをからかってんじゃねーのかとか思いながらも、あえて何も言わずに大型のカートに手を伸ばした。

「何が好きなのかな。苦手なものとか食べたら死んでしまうものとかはあるのか?そもそもお前は肉食なのか?骨格的に見て草食とは思えないが、雑食ということはあるだろうな。まあ、何でも欲しいものを言いたまえ!」
フライパンに、やかんに、まな板、包丁。若干の調理器具と各種調味料。冷蔵庫、洗濯機、掃除機…。瞬時にあの家になかったものが頭に浮かんだが、口から出たのはどれでもなかった。たぶん、この人がオレの好みに単純な興味を持ってくれたからだと思う。嗜好品を素直に告げた。
「――タバコ、いいっスか」
「食べるのか?!」
「んな訳ないでしょ!」
目を丸くして驚いた人が、今度は眉を顰める。
「煙草は妖怪にとっても健康に害あると思うが?」
「人間よりずっと長生きなんで、ちょっとぐらい不健康になっても人間よりはずっと長生きしますよ」
それに生命力は人間以上に強い。悪習だとわかっていてもアレがないと口元が寂しかった。
「煙草は喫煙するものだけに健康被害が及ぶものではないだろう?」
「――つまり、遠まわしにタバコはダメって言ってんスか?」
「ダ、ダメなんて言ってないだろう!いいとも!何カートンでも買いたまえ。ただ、吸う場所を考えろと言ったんだ」
「――うス」

何となく、この人との付き合い方がわかった気がした。


T-06

総額いくらになったのか考えることは早々に放棄した。
オレはただ生活に必要なものを片っ端から買っていっただけなのに、ちょっと震えが来るほどの額になったことは明らかだった。
しかし、それ以上に恐ろしかったのがこの人の全く無頓着に買い物をする姿だった。



大型量販店を出たら、もうすっかり日が落ちて暗くなってて街灯が灯っていた。
オレは持って帰れる限界に挑戦するかの量の調理器具や食料を抱えて歩く。
一歩前を歩く人はオレのタバコ5カートンを持ってくれていた。
量販店で買い物をしていた時も思っていたけど、この人には全く生活臭がなかった。むしろ浮世離れしているとでも言うような雰囲気がある。人間ではないオレよりもよほどこの人の方が妖怪じみている気がした。

「――アンタ、働いてんスか?」
金持ちのぼんぼん。きっとこの人の代で先祖代々の財産は底を付くだろう。
「働いているとも!」
胸を張りつつも後ろを振り返らずに高らかに告げられた言葉は意外なものだった。
「――何して?そのケガで働けるんスか?」
その人は思い付いたように自分の手に視線を落とした。
「―――あー、駄目かも」
「……………」
「私は物書きなんだ。利き手がこうだとペンが持てないな」
「――――……。オレ、働きます。日雇いならオレだって雇ってもらえますから!」
オレの言葉にその人は驚いて立ち止まり振り返った。
オレはその突然の行動に思わずぶつかりそうになってバランスを崩したが、辛うじて堪えた。大量の調理器具を道にぶちまけたくなかったから。
「そんなことしなくても大丈夫だ。私は金持ちだから」
何て非常識なことを言うんだ!
これだから食う苦労をしたことのないヤツは嫌なんだ。
「老後、どうするんですか。アンタ、浪費家っぽいから、金なんかいくらあっても足りなくなりますよ。外食ばっかなのは体にもよくないんです。金もかかるし。今から節約を覚えとくべきです。一通り、家の中、見させてもらいましたけど、ほとんど使われてない部屋ばっかりじゃないっスか。本ばっかりで。もっと小さな家にしておくべきだったと思いますよ。そうすればここまで家が荒れなかったはずだし。――ケガさせたの、オレっスからね。オレが責任を持ってアンタを養います!」
「――プロポーズ?異種間結婚か?」
「ふざけないでください!オレはマジで言ってんスよ!メシもこれからは自炊です」
マジ…?まあ、私は構わないがと俯き加減に呟くその人の頬は夜目にも赤い。
「――メシは、私は作れないぞ」
「オレが作ります。掃除もします。洗濯もします。何のために、調理器具と冷蔵庫と掃除機と洗濯機を買ったと思ってんスか!」
「お前が家事をしてくれると言うなら、食器洗浄機とか乾燥機付き洗濯機とかを買えばよかったな」
「無駄使いです。皿は洗えばすむし、洗濯物だって自分で洗って干せばいいだけです。まあ、アンタに期待はしてませんから安心していてください」
お前がそう言うならと少しだけスネた調子で言うとその人は踵を返して歩き始めた。その白い首筋まで赤くなっているように思えて、何故か猛烈にこっちまで恥ずかしくなってしまった。

「――あー、それより、何か食べたいものないんスか?」
前からぽつりとパンケーキと聞こえてきた。
「晩飯の話してんスよ?」
「もちろん!私もだっ!」
思いがけずその声が真剣で、オレは迫力に飲まれるように頷いた。
「――ベーキングパウダー買い忘れてきましたよ。この荷物置いたら、ちょっと買いに行ってきます」
よしと頷いて、その人は足早に歩き出した。





帰ったらすぐさま、ほらと実にあっさりと分厚いサイフを手渡された。オレみたいな身なりのヤツがこんなサイフを持ってたらそれだけで逮捕だ。
だから、紙幣を一枚貰って家を出た。

ちゃんとオレの話を聞いてくれたり、オレのこと信用してサイフを預けてくれようとしたり。そういうことをあまりに自然にその人がするから、世間一般の目というものをちょっと忘れていたんだ。現実なんてこんなもので、命の恩人にできることなんて買い物の荷物持ちぐらいしかなかったのに。
新しい生活に思った以上に浮かれていた自分がおかしかった。

ベーキングパウダーと渡されたレシートとおつりを握りしめ、あの人の待つ家に帰るに帰れなく、かといって行き場もなくただ公園のブランコに座る。迎えを待てる身分じゃないのに一度座り込んだ腰は重くてなかなか立ち上がれなかった。


T-07

腹減ってんなら、もう食っちゃってるかも。
でも作れないって言ってたから、オレが帰ってくるの待っててくれるかも。
オレの帰りが遅いって心配してるかも。
でも家を空けたら、行き違いになるかもと考えて探しに来れないのかも…。



都合のいいことをつらつら考えていたら、夜が明けてきた。

きっとあの人は腹が減って、たくさん買ってきた食材を食べて寝てしまったんだ。
今日は昨日買った大型の冷蔵庫と洗濯機、掃除機が配達される日なのに。もうオレは必要ないのかもしれない。今後あの人の生活の面倒を見るのは、オレじゃなくて冷蔵庫たちなのかも。
それでも視線は公園の入り口から離れない。
日が昇って来て会社や学校に向かう人たちが増えてきて、次第に足早に公園の前を通り過ぎて行った。
その人の流れを逆らうように息を切らしてオレを探しに来て欲しい。
オレを見つけて、安堵に息をついてほしい。
――その内、人通りは一気に減ってしまった。
そんなことを考えてるよりも、さっさと帰って朝食を作るべきだと頭の奥の方から声が聞こえてくる。そうしないと本当に帰る場所を失う、と。
途端にここで座り込んでいた時間が取り返しの付かないような気がしてきて、あんなに動かないと思った腰がするりと上がった。

「あ、ハボック、見つけた!遅いから心配したぞ!」

立ち上がった瞬間、ずっと期待していた声は背後から聞こえた。勢い勇んで振り返れば、その人は特に急いだ風でもなく、その手にはどこかで買い物してきた袋を持っていた。
オレを探しにきた訳ではない。
厳しい現実を思い知って、思わす憎まれ口を叩いてしまった。
「――本当に心配したなら、もっと早く来るのが普通じゃないっスか?」
自分でもスネた、甘えたことを言っている自覚はある。でも言わずにいられなかった。
「出自が普通ではないくせに、変なことに拘るんだな」
「そういう問題じゃあねえし…」
再び、ベンチに座り込む。
昼近くになってからオレを探しにきたと言う人は、ベンチの背後から回ってオレの前に仁王立ちした。
「出掛けに電話があったんだよ」
「電話?夜通し、電話っスか?」
長電話する付き合いのある友人がいるようには全く見えない…。
「――嫌なこと言うな、お前。まあ、でも、結果的にはそうなってしまったことは確かなんだが」
「――仕事の電話っスか?」
「あー、それに準じた話であることは間違いない」
「ふうん」
うそ臭い。でも、風呂のときにも長い電話をしていたことを思い出した。そういうこともあるのかもしれない…。
「それより、私はお腹が減ったよ。ベーキングパウダーとやらは買えたのかね?」
差し出した袋の中を覗いて、うふん、これがベーキングパウダーかとの一言にほっとした。少しだけ、ほんの少しだけ自信がなかったから。
「これでパンケーキができるのか?速く帰ろう」
穏やかな眼差しを見ていられなくて俯く。信頼を失ってしまうのが怖かった。



「――金、盗られました。節約って言った矢先なのに。アンタの金…」
どんなに生意気なことを言ったって、学がなけりゃあ何の意味もないだろ?
「お前が?身長190センチを超えててガタイのいいお前が?だから、落ち込んで帰ってこなかったのか?よし!私が仕返しに行ってやろう!誰にいじめられたんだっ!あー、お前を伸すような腕っ節の強い奴なら勝てないかもしれないが、その時は社会的に抹殺してやるよ。出版業界には顔が利くんだ。マスコミを利用すれば、そいつは二度と日の下を歩けまい。――ハボック、お前が早漏で家事しかできないウドの大木だとしても、私は気にしない。かわいそうに。一晩、ここで過ごすのは寒かったろうに」
早漏じゃねえし!伸されてもないし!!
きっと顔を上げたらまた生温い同情のこもった笑顔を浮かべていると思うと、顔を上げられなかった。でも、ウドの大木扱いされるのもごめんで、さっさと本当のことを話すに限ると思った。
「レジでおつりが少なかった、と思います。――オレが字を読めないことがわかってたんだ、アイツっ!」
くしゃくしゃに握りしめてしまったレシートとおつりを乱暴に押し付けた。オレにはここに印字されてることが何一つわからなかった。ただ、それを渡した店員の嫌な笑いだけが騙されたことを教えてくれた。
「えーっと?」
「――字が読めないんだよ!オレは!」
この世に文盲がいるなんて知りもしないインテリ階級。オレが生きてきた世界には文盲のヤツらなんてごろごろしていた。
「――悪かった。私が悪かったよ。お前が犬だということをすっかり忘れていた」
「犬じゃねえから!」
そうじゃねえし!――そうじゃないんだけど、自分が思っていたほど役に立たない現実こそ確かで、もうこれ以上何も言えなくなった。
沈黙の中、公園には犬を散歩に連れた人たちがわらわらと集まってきて、ここにこのままいるのも微妙な感じになってきた。

「あー、えーっと、私でよかったら、教えることはできると思うが?」
――ベーキングパウダー1つ買うのにも、昔オフクロが使っていたパッケージのものしか買えないようなオレでもいいの?
「帰ろう?」

自分に差し出された手を握ったまま、ゆっくり家路に付いた。
たくさんのことが悔しくて、でもなんかうれしくて涙がこぼれた。前を歩く人が何故か振り返らない気がして、思う存分まるで子供に戻ったみたいに泣いた。


T-08

玄関の中に梱包の解かれていない家電が届いていた。なんとなく、これらの梱包を解くこの人の姿が想像できなかった。オレが戻ってこなかったらこれらはずっとここに置かれたままだったかもしれない。オレは自分がここに帰ってきたことに本当に安堵した。
それ以外はオレが出て行った時と何にも変わらなかった。
と、なるとこの人は昨日の昼から何も食べてないことになる。オレは慌ててキッチンへ向かった。パンケーキを作るために。



昔、オフクロが作ってくれた、二段重ねのふわふわのパンケーキにバターとはちみつをたっぷりかけて、ダイニングテーブルに座る人の前に置いた。
「はい、どうぞ」
ちゃんとおいしそうにできたと思うのだが、この人は湯気が立ち昇るパンケーキを不思議そうに見て、手を付けようとしない。
「おいしそうだな…。私がかつて食べたパンケーキは、もっとこう色も悪かったし、こんなにふわふわでもなかった」
「――はあ?」
表面が焦げて、中まで火が通らないパンケーキを期待されたのか?
その人は眉間にしわを寄せながら、左手だけでフォークを操り一切れ、口に入れた。
「しかも、うまいぞ!」
「どうして、おいしくてそんなに不満気なんスか?」
「美味しくなかったんだ」
「んじゃあ、もう一度、作り直しますか?上手くできるかわかりませんけど、まずく作ってみます?」
オレはうれしそうに食べるとこが見たくて席を立った。オレのする些細なことで、うれしそうにはにかむ姿が見たかった。
「――いいよ。ハボック。美味しい方がいいじゃないか」
でも、ほらお前も座って食べなさいと言われて、静かに頷いてしまった。オレは確かに腹が減っていたのだった。

「昔、妹が作ってくれたんだよ。懐かしい。あー、こんなに美味しくはなかったんだがね。とにかくすごくまずかったんだが、まずいと言えなかった私は全部食べるはめになって、その夜高熱を出したんだ」
視線をオレの作ったパンケーキに落としたまま、その人は優しい声色でぽつりと言った。
「――妹いるんスか?何か、すごい美人っぽいですね」
「っぽいではない。美人だ。間違いないだろう。私の妹だからな。――だが、まあ、生きていたらの話だな」
「―――あー…、すみません…」
思いがけない話にド肝を抜かれた。途端に無闇に広いこの家が寂しいものになってきた。もしかしたら、家族の住む家だったのかもしれない。
「もう、ずっと前の話だ。気にするな。交通事故で妹は5歳で他界した。両親も妹と一緒に行ってやれたのが幸いだろう」
一通り見た家の中には家族の写真は飾られていなかった。穏やかな表情で話す姿には、もうそれは過去のこととして吹っ切れていると思えても、実際はそうじゃないのかもしれない。
「久しぶりなんだよ。家に誰かがいるのが、私は。お前は?」
生活感のない家の中、パンケーキは家族の思い出だったのか。新たなパンケーキは新たな家族としてオレを受け入れてくれたからなのだろうか。
「――ガキのとき家を飛び出してから、故郷には帰ってませんけど。ウチのはみんな丈夫で長命なんで健在でしょうね。弟2人と妹がいますよ。今はもう生意気盛りな頃だと思います」
そうか、と頷く笑顔が優しかった。



ちょっと早めの昼食を終えて、せっかく届いた家電の梱包と解いた。そして、設置する場所を掃除して配線する。空き箱や緩衝材を片付けなくてはならない。夕飯はテーブルに乗り切らないほどたくさん作りたかった。なのに、オレの予定を邪魔するようにその人は、オレの周りをウロウロしている。
ついに、何スか?と言ったら、ほっとしたように口を開いた。
「あー、散歩に行きたいんだが」
「―――はあ?」
「首輪とリードは用意したよ!今朝!」
「はあ」
あまりに必死に行きたい、行きたいと言うからオレは断れなかった。

「あ、先にトイレに行ってきたまえ」
「はあ?」
「トイレだよ。トイレ」
「散歩に行くんですよね?」
「そうだ」
「先にトイレに行ったら、何のために散歩に行くんスか」
「目的か?そうだな、あえて言うなら、お前を自慢するためかな」
「……………」
「それとも何か?お前、私にお前が道端でした糞を手に持って歩けと言っているのか?」
「……………」
「別にお前は犬じゃないんだからいいだろ?」
「アンタ、前に犬が飼いたいとか言ってましたよね…」
「自分で食事の用意ができて、自分で散歩ができる、な。ほら、早くトイレに行ってこい」
「……………」
「散歩に行きたいよう。ずっと、憧れてたんだよう…」
やっぱり断るべきだと思ったら、オレの気配を感じ取った人がしゃがみこんで泣きまねなんかする。ずっと一人ぼっちだった人の憧れのために首輪につながれてやるべきなのかもしれない。大きな溜息がこぼれた。
「―――わかりました」

公園で、犬型のオレの隣りにしゃがみこんで地面の土をならし、約束通りアルファベットを教えてくれた。まずはオレの名前からと。――JはジャムのJで、EはエッグのE、AはアップルのA、NはナッツのN。家に帰ったら紙に書いておこう、そう言って、優しく頭を撫でてくれた。思わずハイと応えたら、ワンだろうと言われた…。
初出:2005/9/11〜2005/10/14〜2006/04/05加筆修正