回顧 小樽〜倶知安間の蒸気機関車の運行・・・
17・9・8(木)
蒸気機関車が北海道から姿を消して早や20年以上たとうかとも思われますが
蒸気機関車(以下SLと云う)に従事した者としては、幾ら車両が近代化となって
も矢張り忘れえない哀愁めいたものをSLに感じてならず 今回何か思い出を
残せたらいいなァ!との想いから何回かに分けてSLに携わった作業内容の一端
を綴ってみて 皆さんにも知ってもらえたらいいかな と云う事で記しました。
どの様な内容になるかは 辿って来た軌跡を懐古の思いで進めて行きたいと考えてますが 何せSL
から離れたのは昭和50年でして 永い空白がある
ので思った通りの内容を上手く表せれるかどうか疑心の所もありますが 書いてみ様と思った以上は頑張って完成させたいと思っています。
私がいた職場は、当時「東洋一」の規模を誇っていた所だけに所属するSLも C12,、9600形式から始まってC57、D51、C62と当時の花形機関車
を一同に介してのSL王国でもありました。
其の中でも山線(小樽から長万部方面)の花形機関車は、なんと言ってもD51形式でして 安心して仕事が出来たものです。
(シロクニと言う人もいるかも知れませんが 私は思っています。)
昭和40年台のSL最盛期には C12=3両、9600=11両、C57=18両、C62=6両、そしてD51=39両を保持して花形機関車のオンパレード
でした。
さて、皆様御承知の通り小樽〜倶知安間は20/1000の勾配を上ったり下がったりのアップダゥンの外に、まだ記憶に新しい尼崎の脱線、転覆事故で
すっかり有名になった半径300Mのカーブ(SLでは60K/h)が数えきれないほどにあり 所によってはそれよりも更に小さい半径250mと云う所も
あって 機関士を悩ます線区でもあります。
SLは石炭を燃料源とし、ボイラーで作られた蒸気圧によってピストンを動かし その働きを動輪に伝えて動輪とレール間の粘着力によって前進したり
後進したりの走行が可能になる訳ですが その始まりがボイラー圧すなわち蒸気が上るかどうかです。 石炭を燃焼させてその結果が
上手い具合に蒸気が上るかどうかにかかるわけで 機関助士にかかる負担は大きなものがあります 何か前置きが永くなりましたね!
それではそろそろ本題のページに入る事にいたしましょう。
最初の章は機関士、機関助士が出勤してからの行程を順を追って綴って行く事にしましょう。
勤務体系は、乗務員は毎日同じ列車に乗務するのではなく一週間から十日位の回りで、色々と種別の違う列車の運転に携わる事になります。
其の日、其の日の 乗り込む交番(決められた運行表)によって出勤や退庁時間が定められており その乗務する列車によって深夜帯の出勤だつ
たり、或いは夜遅く22時とか23時の出勤 或いは昼間の時間と云う様にそれは全くもって不規則この上もない勤務体系な訳です。
機関士、機関助士(以下機助と云う)は一ヶ月の乗り組みが決定すると、余程の事が無い限り同じ顔ぶれで仕事にあたります 故に二人共
決められた出勤時間の何時つ分か前には自分の名札を出勤状態に返してその旨を報告します。
機関士も機助も出勤してまず始める仕事は、自分達の乗務列車に関係ある達示類 或いは速度を制限しなくてはならないケ所(キロ程)等を
キチット所定の手帳に記入し、これが終わって機関車の出区時刻(簡単に言うと停留して所から駅の境界に向う事)の40分位前に 其の日の
当番助役との点呼を受け関係事項等の報告や伝達事項を受け運転時刻表を受取り、機関士は懐中時計の整正をして点呼を終わります。
これで いよいよ今日、自分達が乗る機関車に出向く事となります。
始まりの第一章は此処までとして一休みします 次回は愈々「運転の章」に移ります 乞う、御期待を・・・(?)