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春分の夜のご一行 +
ある夜のことです。自宅太白神社の自室で幸せな眠りについていた天流闘神士ヤクモさんは、不意に動いた気配に気付いて目を覚ましました。その日は3月の21日――いえ、まだ20日です。壁の時計は深夜12時すこし手前を指していたのでした。
・ 場面1 ・
「ヤクモ様、……ヤクモ様」
目を開けたヤクモさんがぎょっとしてしまったのは、目の前にブリュネの大きな口があって、尖った爪がその前に立てられていたからです。ヤクモさんの青龍は「しーっ」と言って、声を上げかけたヤクモさんを制しました。
「時間がないであります。急いで出かけるお支度を」
ヤクモさんは瞬きしてブリュネを見つめました。降神した覚えも無いのに実体化したブリュネが、布団のわきに座っているのです。そしてヤクモさんをせかすのでした。
「お早く。時間がないのであります」
ヤクモさんは慌てて布団から起きだし、パジャマからTシャツとジーパンに着替えました。そしてポケットに神操機をつっこむなり、
「さっ、こちらであります」
歩き出したブリュネについて、ヤクモさんも急ぎ足になります。障子を開けて踏み出した縁側には、うっすら雲のかかる半月から、おぼろな光が降っているのでした。
辺りはしんと静まりかえり、モンジュさんもイヅナさんも、太白神社そのものも、深い眠りに落ちているようでした。ヤクモさんはその眠りを覚まさないように気をつけながら、ブリュネの後を追って縁側を早足に駆けました。
春まだ浅い夜の空気はひんやりと冷たく、薄着のヤクモさんは少し身を震わせましたが、コートを取りに戻る時間はなさそうでした。そのまま縁側に出してあった草履を履いて庭に下り、そこからさらに神社の境内を抜けました。そこでふと、
―――俺は一体なにをしてるんだ? ブリュネはどこに向かってるんだ。
そんな疑問が胸に浮かんだのですが、先を急ぐブリュネの背中を追って走るうちに、それもどこかに解けてしまったのでした。
月影の落ちる町並みにはひと一人おらず、ただ走る二人の影ばかりが、道の上に長く伸びておりました。やがて町外れの竹林にたどりつき、
「足元が危ういであります。お気をつけを」
ブリュネはそのまま慎重な足取りで竹林のなかに分け入ってゆきます。ヤクモさんも用心しいしい、竹の葉をすり抜けた月光が細く差し込むばかりの竹藪の中を歩いたのでした。やがてそうっと竹林をかき分けた先には、ぽっかりと竹の生えていない丸いスペースがありました。ヤクモさんの自室ほどの広さもない場所でしたが、そこには先客の姿があったのです。
ヤクモさんは息を飲みました。
・ 場面2 ・
「……そろったか」
「遅かったね、ブリュネ」
「面目ない。少々時間の読みを誤ったであります」
そこにいたのはコタロウとキバチヨ。一体はともに戦い、一体は敵として向かい合った式神でした。そしてその後ろには、ヤクモさんもよく知る、二人の闘神士がいたのです。キバチヨの闘神士、マサオミさんと、コタロウの闘神士、ツクヨミさんです。ヤクモさんのよく知る二人は、ヤクモさんのよく知るあの頃のままの姿で、宵闇の中に立っていたのでした。
3人は不思議な気持ちで顔をあわせました。
「ヤクモくんなのか……? ずいぶん大きくなったな」
「ツクヨミさん……。なんで、ここに。マサオミも」
もっと具体的に尋ねたいことがたくさんあるはずなのですが、それ以上の言葉が口から出てこないのです。それはマサオミさんも同じだったようで、
「……それはこっちが聞きたいよ」
困ったように小首をかしげ、彼はそう言ったのみでした。
「マサオミ、時間がないよ。Hurry up!」
キバチヨが明るい声を投げました。その声につられて3人が振り向くと、コタロウの長い腕が竹林の奥を指していました。そこにはいつのまにか、一本の木が立っていたのです。闘神士たちは目を見張りました。
「さっきまで、あそこに木なんてあったか?」
「いや、それに……」
ヤクモさんたちが眉をひそめたのは、その木には真っ白な雪がどっさりと積もっていたからです。底冷えのきつい京都郊外とはいえ、3月下旬になってまでこんなに雪が残っているはずはありません。ここ数日に雪が降ったような覚えも、またヤクモさんにはないのでした。
そういえば、ひどく冷えるような気がする。そう思ってヤクモさんは身震いしました。Tシャツ一枚ではとてもこらえきれないような寒さが、埃っぽい雪のにおいとともにあちらからただよってくるのです。
「残りはこれ1つだな」
コタロウがそう言いながら矛を掲げます。キバチヨとブリュネもそれに倣いました。
「OK! 最後の仕上げだね!」
「ヤクモ様、神操機を」
ブリュネがそう言ったので、ヤクモさんは神操機を掲げました。マサオミさんとツクヨミさんも各々の式神にうながされ、神操機と符を掲げます。
青龍たちもそれぞれ矛を掲げました。3本の矛がぶつかり合い、3体の口が同時に開きます。
「この太極に、ご加護のあらんことを」
りん―――となったその音は、武器の音というよりはまるで鈴の音のようでした。そしてその音がヤクモさんたちの耳に届くと同時に、木の枝の雪が色づき始めたのです。あるところは赤、あるところは黄、あるところはよりあたたかい白に。
3人はは声もなく光景に見入りました。よくよく見れば色づいた雪はすでに雪ではありません。色とりどりの花です。春に咲くさまざまな花が、1つの木の枝々に連なっているのです。それはおぼろな月光に照らされて、深夜の闇の中に浮かび上がっておりました。
ふわり、と春風が吹いてきました。冴えた夜気と混ざり合いやわらかく暖かなその風は、ヤクモさんの周りに花の香を残して吹き過ぎたのでした。
青龍たち三体はうなずいて矛を下ろしました。
「これでようやく全て春になったでありますな」
「うむ。ではまた来年のこの日に」
「See you agein!」
あいさつをかわし、青龍たちはこちらを振り向きました。
「ツクヨミ殿、帰りましょうぞ。月が高くなりすぎました」
「あ……ああ」
当然のように言う式神につられたか、歩み寄りかけたツクヨミさんでしたが、ふと足を止め振り返りました。
「ヤクモくん、」
そのまま言葉をさがすような沈黙が挟まったのですが、
「…………いずれ、また」
「はい、ツクヨミさん。いずれまた、どこかで」
結局ツクヨミさんの口から出てきたのはそんな言葉でした。
「マサオミ、月が高いよ。早く帰らないと怒られちゃうよ!」
ツクヨミさんとコタロウの背が竹林に消えるなり、キバチヨも闘神士をせかし始めました。マサオミさんは苦笑いして
「わかってるよ、キバチヨ。――そんじゃな!」
とヤクモさんに軽く手を掲げて見せたのでした。
ヤクモさんもなんとなく笑顔になってその背を見送ります。彼らは音もなく竹林の闇の中へ消えてゆきました。
「ヤクモ様、それではわれわれも帰還するであります」
ブリュネもそう言い、二人はまた竹林の中へ踏み込みました。竹の葉が生い茂り、先ほどまで差し込んでいた月の光も見えない暗い夜道です。先を行くブリュネの気配だけを頼りに歩いていると、だんだんに波間を漂うようなめまいが現れ、ヤクモさんは次第に頭が重くなるのを感じました。
それは深い眠りに落ちてゆくときと、とてもよく似た感覚だったのです。
・ 場面3 ・
「ヤクモ様、朝ごはんは出来ていますよ。もうお目覚めになってください」
イヅナさんの声がして、ヤクモさんはうすぼんやりと目を覚ましました。枕もとからも式神たちの声がします。
『ヤクモ、朝だよ』
『せっかくの味噌汁が冷めちゃいますよ〜』
『ヤクモが寝坊とは、珍しいこともあるものだ』
『お疲れなのであろ。祭日くらいゆっくり寝坊してもよいでおじゃる』
『同感であります』
ブリュネ! と思った瞬間、ヤクモさんは跳ね起きていました。枕もとに浮いていた霊体たちは、びっくりしたようです。
『ああ、ヤクモ様、起こしてしまったでおじゃるか?』
『今、寝坊もいいかなって話してたんだよ』
『でも味噌汁が冷めちまうからな〜』
『せっかく起きたのだ。暖かい食事をとってもらうほうがよい』
そんな会話を交わす式神たちの真ん中で、ヤクモさんはその中の一体、ブリュネをまじまじと見つめてしまいました。
『ヤクモ様、どうかしたでありますか』
「…………ブリュネ」
『はっ』
「………………いや、いい。……夢……か」
式神たちは―――ブリュネも含め―――きょとんとした様子です。
『ヤクモ? ちゃんと起きてる?』
「ああ。…………たぶん」
『おお、サネマロの物まねですな!』
『これリクドウ、ヤクモ様をそちのようなイロモノ扱いするでない』
式神たちの笑い声を背中に聞きながら、ヤクモさんは布団から起き上がって伸びをしました。縁側に続く障子を開けると、ふうっと風が室内に入り込んできます。それはゆうべ、月光の差す竹林の中でヤクモさんの頬を撫でたあの春風と同じやわらかさで、ヤクモさんの髪を揺らしたのでした。
「あ、ヤクモ様。お目覚めでしたか」
縁側を静かに踏んでイヅナさんがやってきました。
「うん。おはよう、イヅナさん」
「おはようございます。庭をご覧になっていたのですか?」
縁側から外をながめるヤクモさんの横に並んだイヅナさんは、吹き寄せる春風に目を細め、静かに微笑みました。
「もうすっかり春ですね……。この間まであんなに寒かったのに。節季のうつろいとは不思議なものですね」
「うん」
ヤクモさんもちょっと笑いました。節季が正しくうつろう、その理由を知っているような気がしたからです。
でも、それはきっとみんなにはひみつなのです。
― 完 ―
06.4.10