+  梅雨前線通過中  +


 ぱらぱらと音がしたような気がして、タイザンは書類から顔をあげ窓を見ました。
「また雨か……」
 空は曇り、窓ガラスにはぽつぽつと水滴が落ちてきているのです。タイザンはげんなりとつぶやきました。
「降るのは昼過ぎからではなかったのか。全く天気予報も当てにならぬ」
『もう昼過ぎですぜ、ダンナ』
 デスク上に放りだしてあった神操機からそんな声があって、タイザンは慌てて時計を見ました。短針がもうすぐ二時を指そうとしているのです。
「気づいていたなら言え! どうりで腹が減っていると……」
『いや、まさか気づいてねェとは思わなかったもんで』
 ぶつぶつ言いながらタイザンは椅子から立ち上がりました。昼過ぎと分かればさっさと食事に行くに限ります。オオスミ部長がやってきたり、何か失敗した部下が泣きつきにやってきたりすれば、食事に出るタイミングなどあっという間になくなってしまうのですから。
 幸いコアタイムをはずしていることですし、行きつけのひなびたそば屋でゆっくりするのも悪くないでしょう。タイザンは前向きにそう考えました。
 が、財布を内ポケットに突っ込んだ瞬間、雨音がいきなりザーっという激しいものに変わったのでした。見れば空は真っ黒な雲に覆われ、街には大粒の雨が降り注いでいるのです。
『ダンナ、あっしァ今思い出したんですがね』
 唐突にオニシバが言いました。
『置き傘、おととい差して帰っちまったんじゃありやせんでしたかい』
「………………」
 言葉もありません。タイザンもちょうどそれを思い出したところだったのでした。
 もう一度外を見ます。激しい雨が降っています。傘なしで歩けば、一足はやい海水浴気分でしょう。
「……今日は昼抜きか」
『いきなり諦めるんですかいダンナ』
 ぐったりと椅子に座りなおしたタイザンに、神操機から出てきたオニシバが言いました。
『大急ぎでシャショクに行きなせェよ。まだ開いてる時間ですぜ』
「私に社食で何を食べろと言う気だ」
『………………“本格なぽり風三種類のちーずをのせたばじるぴっつあ”とか』
 さすがにオニシバは小声でした。ミカヅチ社の社員食堂は、世界的大企業の社員食堂だけあって、社食という言葉からは想像もつかないほどおしゃれなカフェ風なのですが、あまりにおしゃれすぎて、平安生まれのタイザンなどには食べられるものがなかったりするのでした。
「第一この時間に行っても、現代生まれでさえ手を出しかねる創作料理しか残っておらぬ。アレを食うくらいなら一食抜いた方がましだ」
と言いつつも、一度意識してしまったら気になって仕方ない空腹感に、タイザンは我知らず胃のあたりをさするのでした。
『傘があればいいんでしょう? 部下の闘神士連中から借りればいいじゃありやせんか』
 それもそうだ。タイザンは部長室を出て天流討伐部室へと急ぎました。がちゃりとドアをあけますと、
「お、こりゃあタイザン部長」
 だらしなく座っていた闘神士ムラサメが慌てて姿勢を正しました。広い部室内で、ムラサメだけが。
「……他の者はどうした」
「他の? 誰も来てませんよ」
「天流狩りに出ているユーマやソーマはともかく、イゾウは今日は報告日のはずだがなぜ来ていない」
「イゾウからは、雨が降るから出社できないって電話がありましたね」
 タイザンは平安生まれでしたので「ハメハメハ大王かあやつは」という高度なツッコミは浮かびませんでした。イゾウの左遷を宗家に打診するための理由ならば10ほども浮かびましたが。
「誰かに用事だったんですか?」
「いや、もういい。ムラサメ、悪いが傘を貸せ。昼食に行ってくる」
「いやー、それがですね部長、自分も傘を忘れてきまして……」
 頭をかくムラサメを前に、タイザンは二の句も告げません。それにも気づかず、
「部長まだ食べてなかったんですか? 今なら社食やってますよ」
 ムラサメは愛想よくそんなことを言うのでした。


「頼りにならぬ部下どもだ……」
 タイザンは歯軋りして天流討伐部室を後にしました。とりあえずこの悔しさは明日イゾウに3倍にしてぶつけてやろうと思うのです。
 次に向かったのは伏魔殿捜索部長室です。ノックし、応答を待って、「失礼します」と扉を開けました。
「おお、タイザンか。今日はちゃんと昼を食べられたか?」
 いきなりど真ん中の直球を放ってくるクレヤマ部長に、みぞおちにデッドボールをくらった気分になりつつ、
「お仕事中申し訳ありません。クレヤマ部長、ビニール傘でもお持ちでしたら、30分ほど貸していただけないでしょうか」
と丁重に切り出しました。クレヤマ部長には、オオスミ部長にするような態度はなんとも取りづらいのです。
「なんだタイザン、やはり昼を食べていないのか」
「今から行こうかと。さっき手が空いたばかりなので」
 意味もなく取り繕ってみるタイザンに、クレヤマ部長は笑ってデスクの引き出しを開け、取り出したものをタイザンに渡します。
 それは、カップラーメンとあんパンでした。
「…………あの、クレヤマ部長?」
「残業の時に食べようと思ってストックしてある、非常食だ。持っていけ」
「あの、もしかして」
「通勤電車の中に傘を置き忘れてきてなあ。もうこれで20本目だ。まったくうっかり屋で困るな。はっはっは……」
 クレヤマ部長の笑い声は、腹式呼吸で実によく響いたのでした。


 カップラーメンとアンパンを抱え、タイザンは足取りも重くクレヤマ部長の部屋を後にしたのでした。
『ダンナ、かっぷらーめんは嫌ェじゃありやせんでしたっけ。菓子ぱんも』
「分かりきったことを聞くな」
 オオスミ部長相手なら突き返せるのですが、クレヤマ部長にはそうもしがたいのです。
「ナンカイさんは大鬼門の現場かもしれぬが、だめもとで行ってみるか」
 大鬼門建造部長室をノックすると、意外にも返答がありました。
「開いとるぞ。入れ」
「失礼します、ナンカイ部長」
 ドアをあけるなり、部屋の中から風が吹き付けてきて、タイザンは一瞬ひるみました。
「おお、タイザンか、いいところに来た」
 奥の広い窓が全開です。振り返ったナンカイ部長は神操機を手にして、満面の笑みを浮かべているのでした。そしてその向こうには、降神されたナマズボウが、降りしきる雨の中に浮かんでおおはしゃぎしているのです。
「梅雨っていいね〜ウミちゃん〜!」
「わっはっはっは。そうじゃのうナマズボウ。湿気万歳じゃわい!」
「ボクのお肌もつるつるだYO!」
 ばっちゃばっちゃと雨を蹴立てています。
「タイザン、おぬしもまざっていけ。なに遠慮はいらん」
「……いえ……またの機会に……」
 開けかけたままだったドアを、タイザンは音もなく閉めたのでした。


『ダンナ、あっしが言うのもなんですが、あんまり遠い目をしないでくだせェ』
 ナンカイ部長の部屋を出たタイザンが、一言の感想も述べずひたすら歩いているのを見て、オニシバはちょっとどころではなく心配になりました。
 と、曲がり角から一歩踏み出しかけたタイザンの足が止まり、素早く壁に身を隠すのです。
「じゃ、実験レポートは今日じゅうに上げてちょうだい。それから次の実験計画は今週中に提出よ」
「はい、部長」
 オオスミ部長の声がして、やがてハイヒールの足音がカツカツと廊下を去っていきました。
 タイザンは曲がり角から顔だけ出して、周囲の安全を確かめます。
「ふう……危なく狼の巣に足を踏み入れるところだったな」
『ダンナ……あっしァダンナの先行きが不安になってきたんですがね……』
 オニシバのぼやきに答えず、タイザンは額の冷や汗を拭います。それから、オオスミ部長が向かったのは逆の方向……つまり1F直通エレベーターへと向かったのでした。
 ミカヅチビル正面玄関の自動ドア越しに眺める外は、やはり景色をぼやかすほどの雨が降り続けています。タイザンはため息をつき、
「止みそうにもないな。部下どももダメ、クレヤマさんもナンカイさんもダメ、オオスミは最初から問題外……となれば、傘のあては全滅ということか。仕方あるまい。昼食はあきらめる」
『クレヤマの親分からもらったモンはどうするんで?』
「天流討伐部室においておけば誰かが食べるだろう。あとは夜までに雨がやめばよいが……」
「やまないだろうな」
 突然後ろから威厳のある声が響き、タイザンはあわてて振り返ると同時に背筋を伸ばしました。地流宗家ミカヅチが立っていたのです。
「この雨は深夜まで降り続くらしいぞ。残念だったな、タイザン」
 ミカヅチは薄く、不敵な笑いをたたえて言いました。そしてタイザンがはあともええとも返事ができないでいるうちに、
「こんな日に傘を忘れるようでは、このミカヅチを出し抜くことなどできんぞ」
 右手に持っていた黒い傘を無造作に差し出したのです。反射的に受け取ったタイザンを一顧だにせず、
「み、ミカヅチ様!」
 思わず呼び止めた声にも振り返らずに、ミカヅチは音もなくビルの奥へと去ったのでした。
 残されたタイザンは、ただ上がっていくエレベーターの階数表示を目で追うばかりです。
『ダンナ』オニシバが声をかけました。『いい具合に、ちょうど雨が弱くなってやすぜ』
 タイザンはなんともばつの悪いような、どんな表情を作ったらよいのかわからないような気分で左手の傘を見下ろしたのですが、
「……この程度で貸しを作ったと思うなよ、ミカヅチ」
『そこは素直にありがてェって言っておいたらどうですかい』
「うるさい、ここは一般フロアだ、黙っていろ」
 傘を広げ、幾分かやわらかくなった雨の中へと踏み出したのでした。

08.06.23



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やはり全員出さずにはいられない。
そういえばタイザンたちって、
一般社員の前でも「ミカヅチ様」とか「宗家」とか呼んじゃうんでしょうか。
想像するとどきどきですね。