+ 現代地球の歩きかた +
「楽しみよねえ、今度の慰安旅行」
などと他3人の部長が話し合うのを聞いて、タイザンが書類の端を揃える手を止めたのは、幹部会議のために集まった地流4幹部が、会議室で宗家ミカヅチを待っているときだった。
「慰安旅行?」
「あらタイザン、メール見てないの?」
「今日の……11時以降のものは」
「また資料作りに没頭していたのだろう」
クレヤマが言って、部長達は明るく笑った。
「来月に急遽慰安旅行をすることになったのよ。タイザンももちろん参加するでしょ?」
こやつらとか。というのが正直な感想だった。が、冷静な部分でこれも業務のうちと判断する。
「そうですね。私も……」
「楽しみじゃのう。飛行機に乗ると思うと、わくわくするわい」
ナンカイの弾んだ声に、タイザンの背は凍った。
「ナンカイ部長は本当に飛行機が好きねえ」
「おう、何度乗ってもいいのう」
「ひ……こうき?」
タイザンは震えた声を絞り出す。
「ああ、成田から空路だが」
「私は陸路で行きます」
クレヤマの言葉をさえぎって早口に言った。それにオオスミがあっさりと、
「無理よ。行き先はパリ・ローマ周遊よ?」
パリ? ローマ? 確か飛行機でも十数時間かかるのではなかったか? 体中から血の気が引いた。
「私は不参加でお願いします。その、外国には鬼がいるから行くなと祖母の遺言で」
「いつの時代の話だ」
「相変わらずタイザンは飛行機がダメなのねえ」
オオスミが鼻で笑うようにした。図星をさされたこともあって一瞬カッとなりかけたが、この状況で口論になっても勝ち目はないので、何とか自制する。
オオスミはシニカルな笑いのまま内ポケットに手を入れた。
「まあ、安心なさいよ。そんなときのためにわが技研が」
「お断りします」
「最後まで聞きなさい。怪しい物じゃないわよ。
ほら、これ。この超強力睡眠薬を離陸前に飲めば、まる一日はぐっすりよ。
乗って、飲んで、目覚めたときには花のパリ。素敵だわあ」
無責任な笑いとともに差し出された黄緑色の錠剤を払いのける。
「お断りします。オオスミ部長の前で意識を失うくらいなら、妖怪の群れに丸腰で突っ込む方がマシです」
「失礼ねえ、人をマッドサイエン」
「だから違うとでも言うつもりか!」
「落ち着けタイザン」
タイザンが床を蹴ったのを見て、クレヤマがいさめた。
「飛行機が怖いのは分かるが、」
「怖いのではありません。生理的に受け付けないのです」
「……ま、まあそうしておくか。
だがなタイザン、たかが飛行機のことで、せっかくの慰安旅行をフイにすることもないだろう。技研に薬をもらって、安らかな気持ちで参加したらどうだ。
オオスミ部長だって、わが流派の同志にそれほど無体なまねは、……たぶん………あまり…………しない、だろうと思うのだが……」
消えそうな語尾が本音を雄弁に語っている。ほら見ろ、クレヤマさんだってこやつをマッドサイエンティストと思っているのではないか。タイザンは決してオオスミの睡眠薬など飲むまいと心に誓った。
「タイザン、こんなものは慣れじゃ慣れじゃ。何度も乗ればだんだん楽しくなってくる」
わしのようにな、と胸を張るナンカイは参考にならないと判断した。
「おぬしとてこれから結婚でもすれば、新婚旅行で海外に行くことになるぞ。そのときにビクついていてどうする。子供でもできれば家族でハワイでも行きたくもなるだろうが。だから今のうちに……」
「……ナンカイ部長はよくご家族と海外旅行なさるのですか? 仲のよいご家庭ですね」
「ぐっ」
ナンカイはカエルがつぶれるような声を漏らして黙った。
……ふん、年に数回家に帰るかどうかの仕事中毒者に、家族での海外旅行など語られたくはない。
深刻な顔になって何か考え込み始めたナンカイを放置し、オオスミがなおも言ってくる。
「うちの気鋭の若手はわがままねえ。
じゃあこういう薬もあるわよ。一粒飲めばもう怖いものなし。とっても楽しい気分になって、それこそ妖怪の群れに丸腰で突っ込むのだって、笑顔でできちゃうわよ」
「そんな怪しい薬をだれが飲むか!」
「とっても楽しい気分なタイザン……。見てみたいな……」
「クレヤマ部長?! あなたもこやつの一味なのですか!」
「い、いや、誤解するなタイザン」
指を突きつけられたクレヤマは、たじたじとあとずさった。
「ほら……あれだ、飛行機が苦手と言っても、参加しないというのもどうかと思うぞ。せっかく宗家が用意してくださった慰安旅行なのだ。ご好意を無にするわけにはゆくまい」
それを言われると返す言葉もない。伏魔殿を通ってパリの鬼門に出ることはできないか、とタイザンは本気で考えた。
「オオスミ部長の薬が嫌なら、うちの産業医に普通の睡眠薬をもらえばいいではないか。
本でも持っていくのもいいし、機内で映画を見てもいい。
ただ仕事を持ちこむのだけは勘弁してほしいがな、ははは……」
努力した感のある笑い声が、会議室に空虚に響く。張り詰めた空気を和ませようとする心遣いは理解できたのだが、
「………確かにそうですが……ですが………」
やはり十数時間も飛行機に乗ることが我慢できるとは思えない。九州出張の数時間さえ耐えがたかったのだ。
言いよどむタイザンに、オオスミがふうっと息を吐き出した。
「仕方ないわねえ。これだけは使わないでおこうと思ってたけど」
そしてまた内ポケットに手を突っ込んだ。
「……何ですかその注射器は」
「ああ、注射も嫌いだったわね。まあ我慢しなさい。飛行機に比べれば一瞬よ」
「誰がそんな話をしている。その怪しい薬品は何だと聞いてるんだ」
「文系男には説明してもわからないでしょ。ハイ腕を出して」
「断る!」
「本当にわがままねえ、うちの気鋭の若手は」
言いながら、じーりじーりとオオスミが距離を寄せてくる。
「……それ以上近づいたら私にも考えがありますよオオスミ部長」
「あら、私にもあるのよ。奇遇ねえ」
やらなければやられる……ということか? タイザンは迷うことなく内ポケットから神操機を抜き取った。オオスミもまったく同じ動作で神操機を構える。視界の端でクレヤマが青くなった。
「お、おい、やめろタイザン、オオスミ部長も!」
『式神
』
ハモった声の後ろで、ばたんと会議室のドアが開いた。
「宗家からご連絡が」
秘書だった。書類を手に入ってきた彼女は神操機を握ったままにらみ合うタイザンたちに一瞬視線を止めたが、いつものことだと思ったのかすぐ事務的な声で用件を続けた。
「大鬼門と四季門について、トラブルが起こったので本日の会議は欠席するとのことです。ナンカイ部長は早急に琵琶湖の四季門建設用地まで来るようにと。それと……」
ちらりとまだ神操機を突きつけあっているタイザンたちを見てから、
「そういうことですので、来月の慰安旅行は無期限の延期とするそうです」
「延期?」
「無期限ですって?」
「トラブルとは……またウチの部がいそがしくなるわい」
3人の声が交錯する中、タイザンは1人安堵に胸をなでおろしていた。
07.9.15