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おそく起きた朝に +
御簾の間から朝日がさしてきて、衣に埋もれるようにして眠っていたタイザンは薄目を開け左手で枕もとあたりを探った。指先に触れる腕時計をつかみ寄せ、開ききらない目で文字盤を眺める。
そしてはね起きた。
「遅刻……! オニシバ! 私の鞄はどこだ!」
『ダンナ、落ち着いて下せェ。今日は仕事に行かなくてもいいんですぜ』
神操機から出てきた式神の冷静な一言に、タイザンは一瞬かなり間抜けな表情になった。
『この書類さえ作り上げちまえば明日は休めるって、昨日の昼ころ言ってたじゃありませんか』
ぽかんと開いていた口をゆっくり閉じたタイザンは、いきなり布団代わりの衣にもぐり、頭までかぶってしまう。
『フテ寝ですかい、ダンナ』
「眠いだけだ」
間髪入れずくぐもった声が戻ってきたあたり、オニシバの一言は図星だったらしい。
『……長ェ間の習慣なんだから仕方ねェと思いやすがね』
「うるさい」
『ダンナの気持ちも分からねェわけじゃありやせんが……。ねえ、ダンナ。地流の兄さん姐さんがたも、ダンナのことを頼りにしてやすぜ』
「……は?」
『クレヤマの親分もよくダンナのことをほめてるじゃありやせんか。ナンカイの親分も、特に何も言ってこないのはダンナを認めてるからですぜ。オオスミの姐さんはあんなお人だからあっしにも正直さっぱりだが、ああやってよくダンナにかまいに部屋まで来るのは結構ダンナを気に入ってるからじゃありませんかい』
「……何のことだ」
『自分がいつのまにか仕事人間になっちまってるってことに気付いたからって、そんなに悔しがることはないんじゃねえかって話ですけどね』
ぶんと音がして腕時計が飛んできて、霊体のオニシバをすり抜けて庭のほうへ飛んでいってしまった。投げた後で降神していなかったことを思い出したらしいタイザンは、引っかぶっていた衣から少し顔を出し、庭のほうを眺めてしばらく考えた。
「オニシバ、取ってこい」
『降神してもらわなくちゃ取ってこれませんぜ、ダンナ』
当然の返事を返すと、契約者は「ふん」とつぶやいた。
「巷では雑種犬でさえ『取ってこい』ができるのに、おまえは出来んのか?」
『ミカヅチビル前の広場で、よくふりすびーで遊んでる兄さんと犬のことですかい』
「ああ。ただの犬でさえ飛んでゆくフリスビーを空中で捕らえて持ってくることが出来るというのに、どこかの式神はただの『取ってこい』すらできないと。嘆かわしいことだ」
声音が勝ち誇っている。おそらくはムッとすることを期待されているのだろうなとは分かったが、
『……ダンナ』
あえて言わずにいられなかった。
『いつも見てるなあとは思ってましたが、やっぱりあの兄さんがうらやましかったんですかい』
二秒ほど間があって、タイザンの手が枕もとあたりを探った。投げるものがほしかったようだが、あいにく何もない。そんな契約者を、オニシバはかなりの苦痛とともに眺めていた。……つまり、こみ上げてくる笑いを必死に我慢していたのだ。吹き出したが最後、契約者は荒れまくるか口をきかなくなるかどちらかなので。八つ当たりの道具が見つからなかったタイザンは、かなりぶすっとした顔のまま、ようやく起き上がった。
『……着替えもしねェで眠っちまうから、制服がしわだらけだ』
ここでなら笑ってもいいだろうと思いながら指摘してやると、タイザンは不機嫌極まりない表情で夕べから着たままの赤い制服を見下ろした。それから、初めて気付いたように赤い衣をたぐりよせる。
「これはおまえがかけたのか?」
『いや、ショウカクの兄さんでさァ』
「……ふうん」
そう言ったタイザンの表情が、なんだか内心の読めないものだったのでオニシバは瞬いた。
『どうかしましたかい、ダンナ』
「…………別になんでもない」
とてもそう思っている顔ではなかったが、それ以上追及するなという断固たる意思のようなものが漂っていたので何も言えなかった。ただ少し、不機嫌になったように見える。
昨夜、制服のままで伏魔殿に戻ってきて、たまたま近くを通りかかったショウカクをとっ捕まえ、持ち込んだビールをあおりつつグチの相手にしたところまではたぶん本人も覚えているだろう。
「社食が毎日のように洋食というのはどういう了見だ。A定食の本格キーマカレーしか残っていないというのは、私への嫌がらせか?!」
この程度の文章にでもついてこられないショウカクが目を白黒させていたので多少溜飲が下がったか、6本あったビールの3本目を開けた直後辺りに契約者は眠りこんてしまった。ショウカクは意外にもビールが気に入ったらしく、残り三本をちびちびと空けたのちタイザンが伏魔殿でよく着ている赤い衣を布団代わりに掛けてくれてからその場を去った。どうも気を利かせたつもりだったらしい。
とまあそのような経緯があって、今のタイザンの状況……つまり地流の制服のまま、赤い衣を毛布代わりに伏魔殿の屋敷の一つで眠りこんで朝を迎えた、ということがあるわけだ。起き上がったタイザンは、辺りを見回した後、手を伸ばして少しはなれた場所に放り出してあった携帯電話を取ってディスプレイを眺めた。それから舌打ちする。
「もうこんな時間か……寝過ごしたな」
『いいじゃありやせんか、今日はめでてェ休みの日だ。それとも、何か予定でも立ててましたかい』
「……別にない」
『なら、そう焦ることもねェ。もう一度寝直しちまったっていいし、ぶらぶら伏魔殿を散歩したっていい。一日ゆっくりしましょうぜ、ダンナ。……その前に、朝飯の段取りをつけなきゃならねェでしょうがね』
「寝直す気にはなれんし、いまさら伏魔殿をぶらぶらしたところで、ショウカクとヤタロウが口論しているのに遭遇するのが関の山だ。つまらん」
おっと、随分ご機嫌ななめになっちまった。さてさて、あっしァ何をやらかしたのかねェ……そう思いながら、オニシバは笑った。
『それじゃ、ミカヅチビルの前まで行って、あっしとふりすびー遊びでもしますかい?』
明らかにムッとした顔で、タイザンがこちらを睨みつける。それから懐を探り、神操機を取り出した。
「式神、降神。……オニシバ、取ってこい」
実体化したオニシバに向け、指差す先は庭の腕時計だ。こらえきれず大笑いすると、契約者はさらに目を吊り上げて「取ってこいと言ってるんだ!」と床を叩いた。
「へいへい。ダンナのご命令のとおりにしやすよ」
庭に下りて腕時計を拾い上げ、軽く土を払って契約者の元に戻った。差し出す腕時計を受け取りながら、
「…………からな」
「へい? なんとおっしゃいやした?」
「なんでもない。腹が減ったな……。なにか朝食になりそうなものはあったか」
「ちょいと行ったところの庭園に、果物がなってたと思いやすぜ」
「じゃあそれも取ってこい。……何を笑っている」
「いやいや、笑ってなんざいませんぜ。それじゃ、ちょいと行ってきまさァ」
別にうらやましくなどないからな、と言ったのは聞こえなかったことにしておこう。
ひょいと庭石を蹴って塀を跳び越えると、広がる空は青、眼下の野原は緑があざやかだ。
せっかくの休みだ。あのお山のふもとまで、笛でも吹きに出かけましょうぜ。そんな言葉を用意しながら、オニシバはもうひと跳び、果樹園へ続く飛び石を蹴った。
05.11.19