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某大企業の日常 +
広い机の上にあるのはすっかり冷めたコーヒーのカップ、それからペン立てつきのメモ帳、あとは薄いノートパソコンだけ。広い室内には大きなファイルキャビネットとデスクだけが置かれ、このビルのほかの部屋のように備品やらファイルやらが散乱しているということもない。
身の回りがいつも片付いていなくては落ち着かない彼の性格をよくあらわしているというものだ。オニシバはさっきから一心不乱にパソコンと格闘している契約者の背を見ながらそんなようなことを思った。
『ダンナ、4時になりやしたぜ』
「うるさい、わかっている!」
4時になったら教えろと言ったのは自分のくせにこの言い草。まあいつものことだ。オニシバはのんびりとあくびなどしながら、壁にかけられた時計を見上げる。『ミカヅチグループ30周年記念品』のロゴが入っている掛け時計はこの部屋の雰囲気にまったくそぐわないのだが、ここが本社の一室である以上、勝手に他の時計に変えるわけにもいかないのが辛いところだ。
と、控えめなノックの音が天流討伐部長室にかすかに響いた。音もなくドアを開き、
「失礼いたします。タイザン部長、科学技術研究部に提出する書類を取りに参りました」
いつもの丁重な態度で入ってきたのはミカヅチの秘書だ。静かに頭を下げる彼女に、タイザンは一瞥もくれず、
「なぜわざわざ取りに来る。メールで直接、技術研に送ると言っただろう」
邪険な声を投げつけた。いい加減彼のかんしゃくにはなれているのか、秘書はまた静かに一礼する。
「科学技術研究部から、しめ切りの4時ちょうどに直接取りにあがるよういわれておりますので」
オオスミめ…・・・と口の中でつぶやいたのがオニシバには聞こえた。
「・・・・・・まだ完成していない」
「とおっしゃるだろうけれども出来たところまでむしりとって来いとオオスミ部長から言い付かっております。そのパソコンをお借りできますか?」
「完成していないものを提出できるものか。帰れ」
「そうも参りません」
慇懃な態度ながら、彼女は一歩も引かない。さすがミカヅチの秘書と言ったところか。殺気立った目でそんな彼女と、さっきからずっとああでもないこうでもないといじりまわしていた画面上のグラフを見比べながらタイザンは低くうなるような声を出した。オニシバは思わず笑いをこらえる。
「オニシバ、何がおかしい」
『何もおかしくなんざありやせんぜ。姐さん、ご勘弁を。これァダンナの病気なんでさァ』
「余計な事を言うな!」
『ダンナ、姐さんにゃあっしの声は聞こえませんぜ』
苦笑交じりの声にタイザンはやっと闘神士ではないもう一人のことを思い出した。見れば彼女は、いきなり声を張り上げたことに驚いたようではあったが、さすがに地流宗家の秘書を勤めているだけあってすぐ式神に向けた言葉だと理解したようではある。タイザンはせき払いし、今度はすこし重みのある声を出した。
「とにかく、対天流宗家戦の総合データはまだ提出できない。今日中には送るから待つように技術研に伝えろ」
「そんなの待ってられないわね」
ノックもなくドアが開いた。大またで入ってきた白衣の女性は科学技術研究部長、オオスミだ。闊歩という表現がぴったり来る足取りでずかずかとタイザンのデスク前までやってくる。片手に持った『わに』のマグカップを叩きつけるようにデスクに置き、
「完璧主義もいいけど、いい加減にしてほしいわぁ。そういうことだから、さっさとデータ渡して」
ずいっと右手を差し出すオオスミに驚かされたのはタイザンだけではなかったようだ。秘書もまた眼を丸くしている。
「オオスミ部長・・・・・・」
「あなたじゃ頼りないと思ってね、直接来たのよ。どれどれ。あら、できてるじゃないの」
勝手にノートパソコンを自分の方に向け、ついでにタイザンの左手からマウスをかっさらって保存をかけてしまう。タイザンはあわててマウスを奪い返した。
「まだ完成していないと言っている!」
オオスミも即座に取り返そうとマウスに手を伸ばす。
「どうせまたグラフの形だのフォントの大きさだのにこだわってるんでしょ? 私たちはデータがほしいんであって、見た目の美しさなんかどうでもいいのよ。これだから文系男はいやね、ミユキ?」
『その通りよ、オオスミ。美しさが必要なのは世界でこの私だけ。そうでしょ?』
『こりゃ甘露の姐さん。ご無沙汰してやす』
『あら、霜花の。久しぶりねえ』
のんきに挨拶を交わす式神たちの横では、闘神士2人が一つのマウスを奪い合っていた。
「こんな不完全なものを人目にさらせるか! あともう少し手直しすれば完璧に仕上がるんだ!」
「タイザンのあと少しはいつまでも続くって社内で有名よ? ぐだぐだ言ってないで私に貸して」
「レイアウトとグラフの表示方法を少し直すだけだ! そのくらいも待てぬのか!」
「わが技研は忙しいのよ! ヒマをもてあました天流討伐部に付き合ってる時間はないの」
「なんだと? うちの部を愚弄するか?!」
本格的な口げんかに突入しつつ、2人分の腕の間を小さなマウスが行ったり来たり。時折ガタンと音がするのはUSBケーブルを引っ張りすぎてパソコン本体まで動いてしまっているからだ。数歩離れたところで秘書が物静かにおろおろしているが、すぐそばで観戦している式神たちは呑気なものだ。
『相変わらずきかん気ねえ、そっちの闘神士』
『ダンナはああいうお人ですからね。姐さんの親分も、たいした女傑ですぜ』
『あれくらいじゃないとこの私の闘神士はつとまらないわ。オオスミ、負けたら許さないことよ』
『おっと、うちのダンナの負けず嫌いを甘く見ねぇでもらいやしょうか? ダンナ、がんばって下せえ」
式神たちが軽〜くエール(?)を送ったのが利いたのだろうか。
「か・え・せっ!」
「よこしなさいっ!」
奪い合って宙に浮きかけたマウスを二人は同時につかみ、思いっきり自分の方へと引っ張った。……引っ張ろうとした。お互いがお互いの腕力に影響され、マウスは宙をすべりふっとんだ。
パソコン本体ごと。
『あ』
というミユキとオニシバの声が闘神士たちの耳に届く前に、パソコンはデスクから滑り落ちよく磨かれた床に墜落して一度跳ねた。ぐしゃっというかゴンっというか、とにかくイヤな音とともに。
さらに1秒後。ケーブルに引っ掛けられた『わに』カップが回転しながら落ち、あたりの床に湯気とコーヒーを盛大にまき散らした。もちろん、床に転がるノートパソコンの上にも。
『ま、こうなるんじゃないかって予想はしてやしたけどね』
『そうね、ちっとも美しくない結末で面白かったわ。あらオオスミ、どこに行くの』
「帰るよミユキ」
『あらもう? 待ってオオスミ』
ミユキを引き連れた技術研部長は、あらゆるボタンを押してもまったく反応しないノートパソコンを前に肩を震わせているタイザンを尻目に、ものすごい早足で去って行った。秘書の逃亡はそれより早かったらしく、いつのまにか姿が見えない。取り残されたのは床の上に正座したタイザンと、霊体で浮かび上がるオニシバ、それから床の上で神妙に沈黙するノートパソコン――だったもの――のみ。
『ダンナ、しっかりしてくだせえよ』
「………………」
『ばっくあっぷくらいとってあるんでしょう?』
「…………………」
『取ってなかったんですかい。一度勢いがつくと夢中になっちまうのもダンナの悪いクセですぜ』
「……………………」
『ダンナ……。泣いてるんですかい?』
「怒ってるんだっ!!」
怒号とともにノートパソコンが飛んできて、半透明のオニシバを通り抜け、背後の壁にぶち当たってむなしい音を立てた。
後日、秘書の手配かオオスミの手配か、最新式のノートパソコンが天流討伐部長室に届けられたまではよかったが。
「どうしてここにバックスペースキーがないんだ! ああもう使いづらい! いやがらせか!?」
キーボードの配置が違ったために、短気な天流討伐部長をさらにわめかせる結果となったのは、もしかしたらどこかにミカヅチの対神流計略でもあったのかもしれない。
05.7.5