+ 迷道 +





 若草色の衣が、鮮やかな朱をかき分けて山奥へすすんでゆく。辺りは時折吹く弱い風に揺れる楓の音だけが耳に届き、何か小さな生き物の気配さえなかった。その中にただ、早足に草を踏み分ける少年の、少し早くなった呼吸音のみ。
 伏魔殿にうつろう四季はなく、春なら春が、冬なら冬が、完成した形としてその場所にあるだけだ。ある場所では永遠に雪が降り続き、ある場所では終わりなく花吹雪が舞う。そしてこの場所では常に、高く高く青い空が、燃えるような紅葉の大地をますます紅く際立たせ続けているのだった。   タイザンはその赤いばかりの景色の中を一人、山の奥へ奥へと歩き続けていた。目的があるわけではない。けれどせきたてられるように、奥へ奥へと。
『疲れやしませんかい、今度のダンナ』
 耳元に低い声が届いて、タイザンは思わず足を止めた。契約して、数日。未だ唐突に話し掛けられるのには慣れていない。そんなことに構わず、声は続く。
『ずっと歩き通しじゃ、くたびれちまって帰れなくなりますぜ。まああっしが背負って帰ってもかまいやせんがね』
 返事をしなかったのは無視しようと思ったからではない。余計な世話だとか、子ども扱いするなとか、おまえには関係ないとか、そんな言葉のもろもろがいっぺんに頭に浮かんできて、一つを選ぶことも、全部をまくしたてることもできなかったからだ。代わりにタイザンはまた足を進めた。やれやれというような間の後に、また耳元で声がした。
『ダンナ。ちったァ休んだらどうですかい。ここまではガシンさんも追っかけては来ませんぜ』
 ぎょっとして、もう少しで顔色が変わるところだった。反射的に、うるさい、分かったような口をきくなと言えなかったのは、そう口に出したら声が震えてしまいそうだと思ったからで、動揺を表に出さずにすんだのは都での経験の賜物だろう。   嬉しくもなんともないが。ともあれ表面上は先ほどまでとまったく変わらぬ速度で足を進め続けることができた。だから、式神は今度こそ彼の心を読み違えたらしい。
『……違いましたかい? てっきり、ガシンさんと一緒にいるのが辛ェんだと思ってたが、あっしの思い違いでしたか』
 ほらみろ、昨日今日契約したばかりのこいつに私の何が分かるものか。そう思ってタイザンは少し安心した。それは昔、都から逃れ山野をさまよった後、疲れ切った足を踏み外し崖を転げ落ちた、あの一瞬に感じたのと同じ奇妙な安堵だった。
 2百年の間、タイザンは石化の術をかけられていたらしい。ほぼ同じ期間を氷づけにされていたガシンによって、呪いを解かれたのはほんの十日ほど前だ。目を開いたらガシンが立っていて、今はあの日々より二百年の後だと説明された。   背後から頭を殴られたような気分だった。
 天地の襲撃についても、これからすすむ道についても、本当のところをガシンに明かすわけにはいかない。自分はたったひとりで戦ってゆかなくてはならない……そう思って式神と契約したのが数日前。それから数度、降神してガシンと手合わせしたが、口数の多いガシンの青龍と違い、オニシバは自分から話し掛けてくることはあまりなかった。ただ少しだけ、
「ダンナの使う符は、随分と珍しい光り方をしやすね」
 そう言ってきたことがあるが、応えずに黙っていたらそれ以上は何も尋ねてこなかった。   それでいい、誰にも何も語る気はない。まして式神になど。そう思ってタイザンはやはり安堵したのだ。
 木の根に足がひっかかり、考えに浸りこんでいたタイザンは危うくつまづきかけて踏みとどまった。そのまま天を見上げると、ずっと歩いてきたというのに、今突然に山深い朱のなかに放り出されたような気になる。きっともう帰る道も見えないのだろう  そう思って何気なく振り返った視線が、青い瞳とまっすぐにぶつかって驚いた。タイザンの肩のすぐ後ろに、半透明のオニシバが浮かんでいたのだ。
『こんなに言ってるのに、今度のダンナは仕方ねェお人だ。……ほら、もうどっちが里だかもわからねェや。帰れなくなっちまいますぜ?』
 そう言いながら、黒眼鏡の向こうの瞳は笑っている。
『気力は大丈夫ですかい。妖怪でも出てきて、あっしを呼び出す力が残ってなかったらおおごとですぜ。一休みしましょうや』
 諭すようなあやすような、ひどく余裕ある態度が気に障った。やはりこの式神は気に食わない。そう思った。
「気力を使い切って、妖怪にくわれて、そうしたらおまえだって名落宮行きだ」
 オニシバは一つ瞬いた。この式神が不思議そうな顔をするのを、タイザンはこのとき初めて見た。天が雲に覆われるような不安に駆られ、その自覚に動揺する。
「……名落宮に落ちるのは、嫌か」
 式神はしばし彼の顔を見つめ、そして口の左端を吊り上げた、どこか楽しげな表情になった。
『ダンナと一蓮托生なのは分かりきったこった。あっしァ始めっから、そのつもりでいましたぜ。……まァ、ダンナが妖怪なんぞに喰われねェようにするのがあっしの役目ですがね。ダンナは妖怪に喰われたいんですかい?』
「…………いや」
『なら、そろそろ帰りましょうぜ。日が暮れちまいまさァ』
 からかうような式神を見上げながら、タイザンはしばし名前のつけられない奇妙な感覚の中にいた。紅葉した楓の波の中で、こうして式神と向かい合っていることが夢であるような、ぐらぐらと揺れる………。その一瞬の酩酊感は、気分の悪いものではなかった。
『ダンナ、帰り道はわかるんですかい?』
 オニシバが言って、その声がタイザンの酔ったようなめまいをゆっくりと消した。返事をしなかったことを式神は正確に解したようで、
『……やっぱり分からねェんですかい。ま、あっしがちゃんと覚えてまさァ』
「わかるのか。帰り道」
 いぶかしげにしたのがそんなにおかしかったか、オニシバはとうとう声をあげて笑った。
『そりゃあ、ずっと一緒に来ましたからね』


 さ、帰りやしょう。そう言って半分身を返し、式神は肩越しにこちらを見ている。タイザンが慌ててその横に追いつくと、オニシバはゆるりと進みはじめた。
『ガシンさんがきっと心配して探してますぜ』
「……あいつは人の気も知らずにかまえかまえとうるさいんだ。少しくらい我慢させたってばちは当たらないだろう」
 聞こえるか聞こえないかくらいの小声で応じると、式神は低い声で笑い、小さくうなずいた。

05.11.10



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