+ 心音 +





「オニシバ」
 そう名を呼べば、いつも通りすぐに応えが返ってくる。
「へい」
 そのまま式神は続く言葉を待っているようだったが、こちらはわけもなく言葉に詰まった。先ほどまで吹き鳴らしていた竜笛を袂に戻そうとし、なんとなくその手が止まった。結局竜笛を握ったまま、しばしうつむくことになる。
 伏魔殿の花畑は懐かしい人々の墓所だ。雅臣はよくここへ来ているようだったが、自分はこの場所になど近づきたくもなかった。時折、もう歩めない、これ以上進んでいくことはできないと思ったとき、己の罪を思い出すために足を運ぶのみだった。
 もうすぐ、雅臣がここへ来るだろう。おそらくは怒りと疑問で胸をいっぱいにしていて、だから戦いはもはや避けられないだろう。それでもいい。それも計算に入っている。そのために符と四大天の力で、オニシバを限界まで強化してある。勝てる。
 だが、とも思う。雅臣を倒すことが自分にできるのか。雅臣と青龍との契約は、ウスベニと青龍との契約だ。雅臣を倒して絆を裁てば、ウスベニと青龍の絆も絶つ事になる……。そう考え出すと、つい先ほどまでの計算とはまるで逆の確信がわいてくる。

    多分それはもう、すでに定まった未来なのだろう。私はきっと、それを最初から知っていた。

「契約したときのことを、覚えているか?」
 そんな言葉が口をついて出て、言ったはしから驚いた。気付いているのかいないのか、式神は笑う。
「こりゃまた、突拍子もないことを言いやすねェ」
 そう思うのも無理からぬことだ。何しろ言った自分自身が同じことを思ったのだから。そのままくっくっとのどの奥で笑う声はずっと変わらず、ああ、あの声のままだと不意に思った。障子の向こうの影に向かって、四神と契約したかったのだと言ってやったその時、ご愁傷さんでと愉快そうに笑ったあの声のままだ、と。 
 花畑に消えた彼女のように、青龍が欲しかった。現れた霜花を見て落胆し、   けれど触れた毛並みの温かさに、心がわずかに変わったのだ。   この式神で我慢してやってもいい。

    そうだ、私はそんな風に思っていた……。

 いまさらながら懐かしく思い出すのは、障子に映る見知らぬ影と、足元から立ち上る雪の冷たさだ。契約を交わした雪のフィールドには、そういえばあれ以来行っていない。
「ダンナ」
 今度はオニシバが呼んだ。返事をするのとしないのと、自分は半々   それが『いつも通り』だ。だからオニシバも気にせずに言葉を続ける。
「ちゃんと覚えていやすぜ。あの時ダンナは小さくて、何もかもに怒っていて、寒そうに震えていたっけね。あの時のダンナの、衣の色の萌黄までくっきりと覚えていまさァ」
 この式神はいつだって飄々としていて、感情が読めない。だから今も、その笑うような口調が腹の底からのものなのではないかと疑いたくなる。
 けれど、それでいいのだ。泣きわめくようなことだけは、絶対に御免だ。
 そんなことを思っていたから、
「ダンナの取り戻してェものを取り戻すって約束しやしたが、最後までお付き合いはできねえようで」
 ポツリとつぶやかれた一言が心を揺らした。

    本当は、こんなことを話すつもりではなかった。

 すまない、と。すまなかったと、そう言いたかったのだ。こうして言葉を交わせる時間も終わりに近づいているのだから、もうきっと今しかないのだ。言えないまま胸のうちに溜め込んだたくさんの言葉を、せめて声にしたかった。
 けれど、それはまるで別れの言葉だ。そう思ったら、どうしても足がすくんだ。

    馬鹿だな、私は。まだどこかで信じているのか。

 ともに歩むこの日々が、明日もまた続いてゆくと。

 笑おうとして、けれど上手く笑えなかった。代わりにまた竜笛を口元に当てる。

    ああそうか、オニシバは知らなかったな。この曲はもともと、ウスベニが……。

 風に乗せて笛の音はどこまでも吹き渡ってゆく。足元に花は咲き乱れ、輝くような色をした蝶がゆるりと舞った。
 そしてすぐそばに、鼓動の届くほどそばに揺らめく淡い気配。


 このまま時が止まればいい。とうに捨てたはずのその望みを、今一度強く強く願った。

05.09.10



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