セクシーな家
   フランク・ロイド・ライトとセクシーな家 − そして私たち



 このコンセプトの項目では、「セクシーな家」について触れると共に、建築家フランク・ロイド・ライト(1869-1959)に対する、ある種のオマージュ(讃歌)になっているかもしれません。20世紀を代表する建築家の一人といわれたフランク・ロイド・ライトは、旧帝国ホテルなどの大きな建物だけでなく、住宅も数多く手がけました。

さて、晩年にライトが彫刻家のトニィ・スミスという人のインタビューを受けたときのこんな逸話が残っています。インタビューの場所は都会ではなく、緑豊かで、居ごこちの良い彼の工房だったと思われます。

 多くの意見を交換した最後に「ところでライトさん、何故あなたの設計した家はセクシーなのですか?」と問いかけたところ、彼は微笑んで言いました。「ハハーン、やっと君は解ったのだね!」―その時ライトは内心で、自分の建築の"最深部の核心"を一突きしてきた奴が目の前にいる、と思ったことでしょう。批評家やアカデミーの連中、設計の世界、彼の讃美者や弟子たちでさえ気づいていなかった彼の核心を。その時両者が何を了解しあったのかは興味あるところです。何故なら、彼ら2人は意気投合しその話題について、そばにご婦人がいたらとても話せないことや活字にすることも憚られるような"H"な話しも混じえて、どうやらたっぷり話し合ったらしいのですから。(このことについて語った米国の大学教授リチャード・ワインスタンは、2人の他の内容の会話を含めて、とても重要で「是非テープにとっておくべきだった」といっている程です)。※(1)

 この国では"セクシー"という言葉は一般的には「色っぽい」という意味で多く使われますが、欧米では"肉感的で生気がある"という誉め言葉としてよく使われます。彼らの話題は「生命の息吹き」に触れたのであり、それは「退嬰」とか「死」の反対の世界です。ライトは「空間に命の息吹きを与える」こと、そのことに生涯情熱を傾けたといえるでしょう。彼は「良い家は写真のようなもので解ることはできない。異なった時間、異なった季節で空間の只中に身を置き、静止したり動くことによって感じとらねばならない」と常に語っていました。さらに「建築とは生命であることを、私は知っている。生命が形式をとったものであることを」ともいっていました。

 20世紀最高の空間の魔術師であり、尽きせぬ創造力と偉大な霊感の持ち主だったライトは、89才という高齢の死の2年程前に出版した自著『A Testament(遺言)』の冒頭で "この事だけは世に言い置いておくぞ" と言わんばかりに「哲学、それは建築家の精神にとって彼の歩むべき道を照らす指標のようなものである。―天才などというものは、他の人が単に知っている(know)事を彼は理解する(understand)人間である―詩人、芸術家、建築家は、このセンスで必然的に"理解"するのであり、ことさら天才などと言われる必要はない」と書き遺しました。※(2)
(そんなふうにライトさんに言われると、こと自分に関しては、いつも破れかぶれで行き当たりばったり、深い考えや思想もなしに設計している私など、どうしたら良いか恥じ入って困ってしまうのです。)

 そうは言っても、私はライトの設計した家の幾つかを別にして、その大半に住みたいとは思いません。彼の空間の中には構成が高じて、人間の活動を「こう住むであろう、こう住みなさい」とばかり規制したり、強制してしまうほど誘導しすぎる面と、インテリアのセンスに19世紀的な黴くささを感じるからです。ライトさんに対して生意気にも、私はなるべく人を規制しない、開放的で変化に富んだ明るい家が好きなのです。そんなふうに言えるのは、私が21世紀に生きている特権かもしれません。

 夫婦ともどもライトの友人だった建築家のリチャード・ノイトラは「彼の最も大きな歓びや幸せが、外面的なものであるということは滅多になく、大抵は、単に物質的なものとはほど遠い、完成された概念の内面的な形成であった」と証言しています。※3
『遺言』などという大層な本を書き遺した後のライトと、のちの彼の弟子たち、"イエス・キリストとその弟子たち"の如き関係であったと思われる、後のお弟子さんたちや彼の信奉者たちは、彼の思想を受け継ぎ深化発展させることが出来たのでしょうか?

 イエスの「遺言」といえる福音書に対する、その後の現在に至るキリスト教徒の多くのように、もし出来ているどころかむしろ反対の結果になっているならば、『存在の耐えられない軽さ』の小説で名の知れた北欧の現代作家ミラン・グンデラが(彼が文学だけでなく、建築の世界にも詳しければ)彼の評論集『Les testament trainhis(裏切られた遺言)−集英社』の本の標題にぴったりなので、その本に追加の一章を書き加えてしまうかもしれません。

 しかし彼の弟子たちにそれを求めるのは酷だったのです。ライトの比類のない創造力に加え、強烈でカリスマ的な個性、徒弟じみた教育方法による彼の建築の技と思想の伝達、彼だけが解るような神秘的で謎めいた言語の使い方などなど・・・。それでも傍観者の如き呑気な私のような輩でさえ、ライトの「自然哲学」は彼の作った実作品以上に生き残り、未来において重要な意味を持つだろうと考えています。(そのことについて、ついでに少し書き加えておくならば、ライトは建築を「母なる芸術」と讃えると共に、自然界の個々の生物がそうであるごとく、建築をつくっている各部分は有機的な全体として構成されなければならないといいました。そのように頑固に言い張り、かつ、見事に実践できたのは古今東西ライトだけです。全体を構成する部分を取り出し抽象化し極めることによって自然界を精密に解明しても、全体の関係がおろそかになる傾向になってしまう現代科学に対して、彼はレオナルド・ダビンチやゲーテのように最後まで、部分と全体、特に有機的で生命的な全体を確かな眼で見張ることにこだわっていたのです。形、空間、材質、光−に至るまで、あのように見事に部分を組み合わせることによって生命の息づきを感じさせる建築が出来た背景には、生命に対する信頼のセンス、彼の自然哲学があり、建築の美しさは素材そのものの中にあるのではなく、物と物の関係のあり方が作り出していくことの中にある、と考えていたのだと思われます。)※4、※5、※6

 日本で現実にライトの作品でおきた事についていうと、ヨーロッパなどでは、何世紀を経た建物でもホテルとして大切に使用されているものが多いというのに、「ベートーベンが《第9》を作曲した時もこんなだったろう」などと言って、当時ライトがありったけの情熱をもって作った「帝国ホテル」は、半世紀と少しで人の手により破壊されました。私たちはそれにより、国内で貴重だった彼の空間を体験することができないのです。(他に残っているものは、そんなにいいとは思えません)。R・ノイトラが言うように、ライトが「外面的な成功よりも、精神に重きをおいた」というのなら、残念とはいえそれでいいのかもしれませんが、生命的に息づいている空間とはこうなのだといわんばかりだったメインロビーの不思議な空間を若い時に体験できた私はラッキーでした。

 ライトが限りなく愛し、尽きることのない彼の創造力の源泉であり、長い時間をかけて培った彼の思想の源泉でもあった大自然(彼は "natural でなく大文字の NATURE だ " といった)、彼がその中を時たま放心したように歩いていたという大自然、科学技術が異常な発達を遂げ、人が自然を「征服の対象」とみなしている文化が行き詰った時、私たちはその時再び彼に出会うことになるのでしょう。時代を先取りした如く、いま大型書店の建築のコーナーにはライトに関する本が溢れています。私はそれを余り大まじめに受け止めてはいません。何故なら、彼に近づくには安易にでなく、客観的な強い力が必要だからです。(ライトの影響を、ある面では最も良い形で受けていたと思われる米国の建築家ルイス・カーン―あの強靭な精神の持ち主であったはずの彼でさえ、生前の、なま身のライトには決して近づこうとはしなかったのです。彼はわが道を歩きながら、受け継ぐべきものを、彼のやり方で慎重に確かめていったのでしょう)。私がこれらにこだわるのは、建築の狭い範囲だけでなく、私たち社会の文化に関わることだからです。

 本題に戻ります。―ライトの空間がどうであれ、私たちは幸運にも新しい家に住むチャンスを迎えたとき、陳腐な箱の中でなく、暖かみのあるセクシーな空間であると同時に、新鮮な変化に富み、私たちの眠っている感覚を生気づけ、日ごと生きることに喜びと希望を与えてくれる空間の只中に住みたいものです。それが全てです。(私はそのいくばくかを、worksの「ユニバーサルな家」その他で表現したつもりです。)行政やハウスメーカーが主導し宣伝されている「高気密・高断熱・シックハウスに対する健康な家」などは、本来「良質な空間」という総合的な価値の中で解決されるべきでしょう。

 5月のある日に起きたできごと― 出来上がって間もない新しい家に、小学生の女の子が母親に連れられてやってきました。彼女は家の中に入ってくるなり「お母さん、いつまでここに居ていいの!」と聞いたのでした。そんなことを滅多にいわない子が、です。その家は彼女にとって、私がいう意味での"セクシーな家"だったのでしょう。先入観がなく、感受性豊かな子供の中に、いつも真実が隠れています。

※(1)建築雑誌『A+U』 1984年4月号
   イエール大学建築連続セミナー「現代建築の問題点」
   第9回リチャード・ワインスタインのセミナー講演

※(2)『ライトの遺言』原著 1957年刊 谷川正巳 谷川睦子 共訳 彰国社1961年刊

※(3) ※(2)の別刷付録冊子「序に代えて」より

※(4)『リオナルド・ダ・ビンチ』 カール・ヤスパース著 原著刊1953年
     藤田赤二訳 1958年刊 理想社 

※(5)『ゲーテさんこんばんは』 池内紀著 2001年刊 綜合社

※(6)『部分と全体』 ウェルナー・ハイゼンベルグ著 原著刊1969年
     山崎和夫訳  1974年刊 みすず書房

 20世紀原子物理学の世界(主に量子力学)で偉大な貢献をした、物理学者のW・ハイゼンベルクは、ギリシャ哲学に始まるヨーロッパの知性に基礎をおいた科学思想家でもあり、科学者が研究対象とする"部分的秩序"に対比して"中心的秩序"という言葉を使い、科学者が物理的な物事全体の関連を見失わないようにと、この本のなかで何度も繰り返し書き記していて、最後に「自分が信頼するのは、無気力と疲労感をしりぞける生命力の輝きだ」と書いている。
 ハイゼンベルクは、自己の専門分野の哲学的な背景を、広く深い視野のなかで、他の著作も含めてどうしても書き残しておきたかったようである。しかし、プロの音楽家になるように勧められるほど芸術の世界にも才能と理解のあったハイゼンベルクは、あるがままの自然(生命)や詩、芸術といったそれ自体で調和した全体、分割すると意味を成さない有機的でバランスを持った全体といった世界に対し、精密な部分の統合による科学的知識には、深刻で根本的な限界があることを感じていたのだと思う。
 科学の偉大さは、自然界を絶え間なく解明し続け、人類がそれを利用するだけでなく、自然界に奉仕することにあるのかもしれない。


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