兄嫁の母が93歳の時のこと。おばあちゃんは長年のあいだ油絵などを描く趣味を生活の中に取り入れておられた。そしてご主人を亡くされた後も、長い年つき新潟市内のマンションでそうした趣味の友だちを持ち、マイペースの一人住まいをされていた。
彼女が若かった時、私の安塚の実家へ何度か山菜取りにこられ、春の日を楽しまれたことがあったという。93才だったその年の5月、もう山菜取りには行けないがはるか前に定年退職されているご長男に付き添われて、久し振りに、私の実家で暮らす兄夫妻を訪ねて来られた。そして春の日を数日過ごされたのち、新潟市への帰り道ここの近くの国道を通られる事で、娘である兄嫁の案内でご長男と共に私の家に初めてお寄りいただくことになった。
子供のような好奇心で楽しげに家の中を見終わった後のティータイム。私はゲストにお茶を入れて差し上げる時、大抵は2,3種類をあげてご希望を聞くことにしている。いつもの通りおばあちゃんにおたずねしたら“コーヒーよ!”。私は意外な気持ちでいたら彼女の娘が“昔からハイカラおばあーちゃんだったのよ!”と。それで納得。
私は頂き物で、取り置いてあった“ブルーマウンテン”のコーヒーをカップを温め丁寧に入れて差し上げた。ウッドデッキでお茶会をしたかったのだが、あいにくその日の朝は晴れてはいたが雨上がりでデッキが乾ききれないでいた。やむをえず窓辺に丸テーブルを寄せて新緑を眺めながら4人で朝のお茶会となった。
“ブルマン”のコーヒーは比較的くせがなく飲みやすい。長年生きてこられた93才のおばあちゃんに“おいしい、こんなおいしいコーヒーは生まれて初めてだわ!”と喜んでいただいた―それは、率直でお世辞などいうはずのない彼女の言葉であった。私も高齢のおばあちゃんに“生まれて初めて”などと褒められて嬉しかった。けれど飲み物や食べ物の味覚の良しあしはその時の状況にも左右される。良いのは、気の合う人たちとおしゃべりしたり又は一人でゆったりした時間をとって、良い景色を眺めたり、好きな音楽などを聞きながら、夢見ごこちでいただくことだと思う。
おばあちゃんが“ブルマンのコーヒー”をあんなにも良しとされたのは、コーヒー豆、コーヒーの入れ方が良かっただけではないだろう。その日の朝は雨があがり、目の前では木々の葉が水分と日光の恵を受けて、雪解けのあとの春の命が甦っているかのようだったのだ。そして木の葉がかすかに揺れ動く新緑の林の眺めと、気使い無用の私たちに囲まれながら、お菓子を食べおしゃべりし、ゆったりとしたひと時を過ごすことが出来たからでもあったのだろうと思う。
いま96歳のおばあちゃん、お嬢さんをそのまま年寄りにしたようなおばあちゃん、時たま娘である兄嫁の介護を受けわがままになっているらしいおばあちゃん―ここでまた再びおいしいコーヒーを一緒に飲みおしゃべりしたいと思うけれど、残念なことにもうここまで来てはいただけないことだろう。この家を見まわった時、檜のインナーバスルームがすっかり気に入って「今度ここのお風呂に入りに来るわ」と言っていたのに。
“幸せな良きひと時”というのは、後戻りせず一方的に前に進む時間という宿命の前では、同じ状況と同じ人たちによる、再び“幸せな同じ時”など有り得ず、それも又一期一会のように一回だけのものなのかも知れない。
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