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親の愛

記の文章は高校受験対策の国語の問題集に載っていたものです。今までにも英語の教科書に載っている文章を何度か紹介したことがあり、本来は「A Tea Break」のコーナーに載せるべきものですが、内容的にこのコーナーのがよいのではないかと判断しました。
 横道にそれますが、この文章は決して一流私立高校受験対策の問題集に載っていたものではありません。公立高校用のものです。子供たちの国語力低下の危惧が言われて久しいですが、この内容を理解する中学生が何人いるでしょうか。現場を見ていて、地元のO高校・S高校を受験する生徒の5人に1人、否10人に1人いないかもしれません。
 それでは、哲学者の語る「親の愛」をお読みください。

 親は自分の子供に対する愛が、親子という自然の絆から生じ、その絆を維持していくための愛であるにもかかわらず、それを人間愛そのものの発露であると考え、人間に対する献身であると考えるだろう。子が成長して親子関係以外のさまざまな役割関係のうちに身を置き、そして、後者の関係のうちに自分の生活の重心をゆだねるようになると、親は往々にして自分の愛が裏切られたかのように意識する。そして、このことは、その愛が人間に対する開いた愛ではなくて、親子の絆を維持するための閉じた愛であったことを物語っているのである。
 人間に対する開いた愛は、すべての人間を等しく人間として愛する愛であるが、それはベルグソン(?フランスの哲学者)によると、聖者の愛であって、人間の誰しもがただちに体得できるといった愛ではない。ただしかし、ひとびとはこの聖者の愛に魅力を感じ、それを自分自身において模倣しようとする。だがこの模倣は、決して簡単ではないであろう。母親はその子を聖者の愛にも似た愛をもって愛していると思うかもしれない。しかし、その愛は実際には母親としての愛であって、子に裏切られたと言っては悲しみいきどおる愛なのである。また、義務に関して言えば、ある行為に際して、自分は「人間としての人間の義務」をはたしているのだと信じている人間が、実は自らのある役割に応じた役割義務をはたしているにすぎない場合がある。総じて人間は、自分がただある日常的な役割に従って行動しているにすぎないのに、それをそうした事実としては認めたがらず、人間として自律的に行動していると考えたがる、と言ってよいであろう。
 ベルグソンは、閉じた魂から開いた魂への転換点に知性を置いた。このことは、聖者ならぬわれわれが聖者を模倣する際に、知性の働きが介在すべきことを示唆しているとも言える。はじめから開いた魂をもつ聖者は別として、閉じた魂をもつ人間はまず自らの魂がそうした閉じた魂であることを知り、それが開いた魂でもなければ、ただちに開いた魂に転換できるものでもないことを知らなければならない。道徳についての知識が真に活用されるのは、実はこうした場面においてである。われわれが聖者の愛を模倣したいと思うなら、いったん、立ち止まって自己を省察し、自己をどのように転換すればそれを模倣しうるかをまず考えるべきであろう。(佐藤俊夫著「倫理学のすすめ」より)

 この文章の要旨を捉え、自分の考えを付記すると次のようになります。(現国の試験においては、先入見を排し筆者の文中の要旨に従順に答えることが大原則ですが、ここでは私的解釈を加えます。)
 親の愛は子供を客観視する眼を必要とする。閉じた愛=主観、開いた愛=客観、すなわち普遍、合理である。簡単に言えば、親バカの愛癖は誰にでもあるが、バカ親の愛は本能、情緒だけで自己愛の延長でしかない。義務としての子育ても客観の立場からの行動が求められ、親の愛には道徳的知性が必要になる。

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