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私の人生観

2次世界大戦に大敗北した2年半後の1948年、私はこの地球ういと名の惑星に日本人としてホモ・サビエンスという名の生命体として生まれました。ここまでの人生を「とても」という形容詞は付けられませんが、それなりに幸せに感じて生きてきました。昭和の後半の2/3の42年間、平成の30年間を生き、昨年の5月1日には「令和」という新元号になり、3つの時代を体験してきました。
 年寄りの多くの人が口にするように、70年という人生は今振り返ると「アッ」という間の感じです。「老後」とはこのようなものかということが、若かりし頃に分かっていたら、もっと努力したのに…と、後悔ほどではないですが、「腹水、盆に返らず」で、残念な気持ちではあります。これまでの私の人生は、約26,000余日になりますが、若い頃から、将来のことを考えたり、過去を振り返り反省したりすることが少なかったからでしょう。しかし、両親の愛情がその後の人生の支えになったことは、とても感謝しています。「周りの人になるべく迷惑をかけないように」と、両親からは口が酸っぱくなるほど言われて育てられたのですが、20歳を過ぎても親を心配させるような人間にしかなれませんでした。その結果が現在の私です。
 幸せなことに、大病もせず、現在まで「入院0、手術0」は続いていますが、年老いた実感は、加齢に比例して加速しています。1966年に田舎塾を始めるに際して、スポーツ界で多用されている「心・技・体」の「技」を「知」に変えて、「心・知・体」を、MPSのキャッチフレーズとしたのですが、両親の躾が多少は身に沁みていたのでしょうか? 私自身も、心は人柄(あるいは品位)、知は知識(あるいは見聞)、体は健康という具体的な意識を持って、その言葉をモットーに生徒たちと一緒に生きてきました。しかし、50歳を過ぎた頃から、「心・知・体」の変調に気付き始めました。現在50歳代の人は、還暦までにしっかりと自覚して、今からその準備を始めておくことを勧めます。
 私の場合、「心・知・体」の中では、還暦前後に「体」の衰えを最初に感じました。しかし、日常的な運動、あるいは億劫にならず自分でできることをこまめに続けていれば、それ程急激に衰えることはありません。何よりも大病をしないことです。周りの知り合いを見ていて、病気をすると急激に老けていきます。60歳代になったら「普通の健康」の維持ではなく、日常的に「老い」に負けない体力維持が大切になります。
 70歳を超えた今、「脳」すなわち「記憶」の衰えをひしひしと感じています。60歳代以降、行動した記憶はそれなりに覚えているのですが、ただ本を読んだり、TVを視聴したことの殆んどは(勿論、印象に残っている言葉や映像は1/10くらいありますが…)、数日以内には忘れてしまいます。特に、この10年間にTVに顔を出すようになった人物の名前は殆んど覚えられません。そのことは、人生にとって大したことではないのですが、自分の趣味、あるいは歴史や旅番組の内容まで殆んど忘れてしまうことは、とても哀しく、寂しく感じています。
 それに比べて、不思議なことに、現在まで「心」の衰えは感じていません。「三つ子の魂百まで」、「雀百まで踊り忘れず」、あるいはマイナーな言葉として「頭禿げても浮気はやまぬ」などの諺があるように、両親からの遺伝子の上に就学までの両親の躾が加味され、中学終了時までの風土、環境、友人などの影響を受けて、人間性(個性)の9割方は成人になるまでに確立されてしまい、残りの1割は、成人になってからの大病、家庭不和、裏切り、突発的事故などの悲運との遭遇の精神的ダメージ、物理的ダメージで、「心」の質が変化しまうことです。
 私の「心」はおそらく死を迎えるまで、大きく変わることはないと思っています。私自身で編み出した心の変遷の説明を、再度説明しておきます。誕生時の遺伝子は両親からの半分ずつの遺伝子です。そして、就学するまでの幼児期は、両親、家族、環境などによって、その遺伝子は少しずつ変化していきます。小学校に入学してからは、友人からも大きな影響を受けるようになります。成人になるまでに、ひきこもりのような状態にならない限り、年代の異なる人たちとの交流(交わり)から、人間観察をし、自分の「心」の色が徐々に決定され、微妙な変化を繰り返しながら、年を経ていきます。

 上記の表は、中学生の美術の時間に学んだ「彩度表」です。心の色が純真無垢を1に、「腹黒い」という言葉がありますが、私利私欲、利己主義、冷酷非情の心を9としています。この両極端のカテゴリー1と9に属する性格の人物は少ないと思います。殆んどのヒトは中間色のカテゴリー4〜6に属していると思っていますが、近年(平成時代から)はカテゴリー7〜9に属する人間が多くなっている気もしています。
 TVや新聞のニュースを半世紀以上見続けていますが、理解不能な行動や犯罪が年々増加していることは確かです。政治家をはじめ、国及び地方自治体の一般公務員、教師、警察官、消防士など、いわゆる国民、住民のために働いている人間の犯罪、不祥事が多過ぎます。そもそも、公務員については憲法第15条第2項に「すべての行務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定められています。国家公務員であろうと、地方公務員であろうと、公務員は一般国民同様、日本国民であり、一般国民と同等の権利と義務を有していることは同じです。
 しかし、昭和の時代から公務員を「親方日の丸」と揶揄する言葉があります。会社で言えば、公務員の社長は日本国であり、日本国が存在し続ける限り、「食いはぐれはない」という意味です。大多数の公務員は、真摯に与えられた職務に励んでいると信じていますが、最近での公務員のスキャンダルは、首相の「桜を観る会」疑惑、過去最強クラスの台風15号が千葉県に猛威をふるっていた最中のM知事の「公用車別荘通い」疑惑、神奈川県の行政文書を保存したハードディスク(HDD)18個がインターネットオークションへの出品・落札事件、介護保険料6億円余過剰徴収(厚労省)、地方公務員年金1億円超過払い(総務省)などあり、この2〜3ヶ月の不祥事、事件を列挙したらキリがありませんので、この辺で割愛します。
 基本的には、公務員は国税、地方税の収入を基盤に、法令、条例の立案、サービス業務、道路・河川のなどの整備、介護・子育てなどの環境の向上を図ることによる、将来に向けた社会の基盤づくりをする団体ですが、基本的に公務員に労働生産はなく、給料も国民、住民、一般企業の税金で賄われています。その公務員が、この体たらく(醜態)では、日本の将来は益々荒んでいきます。
 公務員だけではありません。企業も人間もblack oneが急増中です。企業においては、大企業が先頭になって、不祥事隠しをしています。TOPは隠蔽工作、上司はパワハラ、部下はセクハラと、その地獄絵図が浮かんできます。コンビニのチェーン店の営業時間問題もあります。消費者団体が不買運動をすれば、すぐにブラック企業は改善すると思うのでが…。
 街中を歩いていたり、電車に乗っていたりしていても、秩序や道徳心に欠けている輩が多くなってきました。渋谷の街中での10月31日のハロウィンでの若者たちの乱交振りは、日本が不法地帯になってしまったかのようです。世界各国の人々からは日本人の道徳心、秩序、礼儀は評価されているのですが、それは昭和時代までだったような気がしています。多くの日本人は、災害の時だけでなく、日頃から住みやすい国になるルネッサンス(復興)運動を期待しているはずです。
 それでは今一度、「無彩色 白、灰、黒の彩度表」を頭の中に入れてください。これから述べることは、著名な哲学者、人生評論家の言葉ではなく、地方都市のしがない田舎塾の教師の個人的な理論であることを承知して読んでください。
 MPS1期卒業生は私と5学年違いですから、もう60歳の後半で、子供というより孫がいる年になっています。早く結婚し、子供も早く生まれた人には、私の孫より年上の孫を持っている卒業生もいるかもしれません。これから書くことは、成人になっている子どもには当て嵌りませんので、祖父、祖母になった時、孫は確かに責任もなく可愛がることはできるのですが、自分の子供の躾や指導に心残りの点がある人は、是非参考にしてください。
 遺伝子継承は親のあなただけの責任ではありません。あなた自身の遺伝子はあなたの両親以前の形成されたものであり、誰の責任ということはできません。しかし、就学までの躾や指導は両親の責任です。3歳児までは、特に大切だと言われています。最近は、核家族化が進み、祖父母と暮らしている場合は、祖父母にも多少の責任を感じて同居してもらいたいと考えています。
 表のカテゴリーは白〜黒まで9分割されています。カテゴリー1(以降C-1と表します)は無私無欲の心の持ち主、カテゴリー9(以降C-9と表します)は私利私欲の心の持ち主です。C-1に属する人は、マハトマ・ガンディー、マーティン・ルーサー・キング、マザー・テレサのような人が頭に浮かびます。それから日本人では、アフガニスタンで長年にわたって人道活動に取り組んできて、昨年の暮れに、現地で銃撃によって亡くなった中村哲医師です。歴史上の人物では、幕末に活躍した山岡鉄舟どです。C-9に属する具体名は、多すぎて割愛します。
 カテゴリー別のパーセンテージ(割合)ですが、C-1は1〜2%、C-2は4〜7%、C-3は10%、C-4は15%、C-5は20%、C-6も20%、C-7は10%、C-8も10%、C-9は3〜7% と、私は近年の国内の世相を見て、そのような割合を考えました。勿論、そのカテゴリーに入るパーセンテージは、個人によって変わってくるのは当然ですが、カテゴリー別のその数字が、C-1が少なくて、C-9が多いと悪人が多い社会、逆にC-1が多くて、C-9が少ないと善人が多い社会ということになります。
 就学前までは、両親の遺伝子と、躾と指導が大切であるということを書きましたが、小学校入学後からは、子供の世界は広がり、人間関係も多彩になり、就学前のように両親、家族からの助言、忠告は、効き目がなくなります。それは子供がそれぞれに個性を持ち始めているからです。それからは、自分の好み、趣味、関心の似通った友人、環境による人間関係、学校生活や習い事などが中心になっていきます。
 ここで重要になるのが、それまでに子供達がどんな種類の子供になっているかということです。学校生活で接する友人、先生、先輩など多くの人間に囲まれて生活するようになると、趣味や興味、異性にも関心を持ち始めるようになります。好き、嫌いも表面化してきます。ある意味で心の変化も速くなっていきます。 実社会に出る前に、少年、少女がどのような経験をし、どのような学習をし、どれだけ広い視野で物事を考えられるようになるかということが、とても大切になります。子供が18歳頃になるまで、両親は適当な距離感を保ちながら観察し、必要に応じて適切な助言、忠告をする必要もあると考えています。
 人は誰でも死を迎えるまで、変化していきす。短期間での変化はなかなか自覚できませんが、思いついた時や、凹んでいる時に、立ち止まって振り返って考えれば、何か得るものがあります。。中年以降になって、加齢してからの「知・体」の衰えを感じるのは、退化のスピードが速くなっているから気付くのです。日々の生活、行動の中で、意識してあなたの感受性を鋭くしておくことも大切です。実は、日頃の自分の行動、環境の中で、あるいは社会での事件、不祥事などをどのように捉えるかによって、自分の立ち位置、すなわちどのカテゴリーの人間なのかが解かります。
 例えば、カテゴリー3のAと、カテゴリー7のBがいたとします。カテゴリー1の人物に接した時、Aはカテゴリー1の人物を「何と優しい人だ」と思いますが、Bは「アイツは何を楽しみに生きているんだ」と単純に思うでしょう。逆に、カテゴリー9の人物に接した時、Aはカテゴリー9の人物を「アイツは他人に迷惑をかけるために生まれてきたのか」と思いますが、Bは「俺のことを悪く言う人もいるが、あいつに比べたらまだマシだ」と考えるかもしれません。このように、人の相互関係、相互感情は個々の立ち位置によって変わってきます。
 友人は基本的にカテゴリーが同じか近い人で、好み、趣味、興味、関心事などが共通する人が、必然的に多くなります。これは自然の摂理です。良質な心の持ち主であるカテゴリーの人は、近付いてくる人も、付き合う人も、同じ心の色を感じ取ります。否、初めて会ったときから、簡単に言えば、お互いに好み、趣味、興味、関心事などに多くの共通点があれば、それを感知します。自然体で付き合っている二人が、同じような波長で会話も行動も楽しく過ごせていたら、半世紀の間ずっと親しく付き合えます。私には、現在そのような友人が数人います。
 但し、男女間の付き合いは、結婚して、法的にも一番強い絆である新しい世帯(新家庭)を創る訳ですから、お互いの短所を補い合うという観点からも、同じカテゴリーでなくてはいけないということはありません。

 あなたにとって、今年もよい1年であることを祈っています。

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