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古稀を過ぎて(満70歳を前にして)

い頃から、私は「〜になりたい」という夢とか目標とかを持たない人間でした。その時その時の勝負といえば格好いいですが、悪く言えばあまり深く考えず、刹那的に生きていただけです。少なくても、大学卒業するくらいまでは――。両親やそれ以前に知り合った人々からの教えや助言を忘れずにいたことが、社会人になってからぼんやりとでも人生を考えるようになり、有意義な人生を送るためには何をしたらよいのかということを気付かせたのだと思っています。
 45歳前後の時に、立て続けに両親を72歳と75歳で亡くしました。その時始めて、老後について考えたように記憶しています。それは深刻に考えたということではなく、ブルーな気分で「これから」を思い巡らしたというような感じだった気がします。あれから20年以上が過ぎ、あと数年で両親と同じような歳になります。あの時、馬鹿なりに漠然とした感懐を持ち合わせてよかったと思っています。
 このように時代ごとに、私を成長させてくれた人たちに巡り会えたことは有難いことでした。人の忠告や助言を素直に受け入れ、行動に移す性格をその時点で持ち合わせていたことは幸運でした。その場で即座に心や行動の変化がなくても、その何年後かに徐々に忠告、助言を活かす人間になれたことは、幼い頃の両親の指導のお陰と感謝しています。今振り返ってみても、高校1年生くらいまでは酷い人間だったと思っています。仮に幼児から小学生までの期間に「心」という科目があって、警察のお世話になったり、近隣から奇人、変人扱いされている人間を「1」とするなら、私は「2」だったでしょう。
 こんな私でも、長い人生を順風満帆に、喜怒哀楽の喜と楽だけで、暮らしていけるとは考えたことはありません。人生は中年になっても、老年になっても、若い頃とは別の怒と哀があります。ただ、人生の前半の幸せより、後半の幸せのが、人生全体からみると価値ある幸せなのかと、現時点では考えています。自活、自立できる健康を維持できれば、仕事(家事・子育てなどを含む)などから解放され、楽しい人生が待っています。
 今の自分の生活・性格は、概ね過去の自分自身の生き方の結果であると若い頃から思って生きてきました。それ故、死の迎え方もこれから先の生き方で決まってくると思っています。60歳までは40歳のような節目の年齢になった時、必ず「これから10年、何よりも健康で、そして時折したいこと、楽しいことをしながら充実した人生を送ろう」という気持ちを持って頑張ってきたのですが、哀しいことに70歳を迎えようとしている今、そのスパンが5年になってしまいました。60歳代の気力、体力、知力、精神力の衰退は予想以上に加速度的に進行しました。それは70歳になってからであろうと予期していただけに、かなりショックを受けています。
 人それぞれに人生模様があります。同じ人生なんて二つとありません。長い人生には、思いがけない僥倖、邂逅があったり、逆に予期せぬ出来事・天変地異、裏切りに遭ったりします。努力や性格に比例して幸せになれることもありません。誰にでも、嫌いな人、苦手な人、もう二度と顔も見たくない人はいます。それも人生を学ぶ上での教材であると捉えることのが将来に役立ちます。人生を易々と楽しむことはできません。耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ、だから楽しむことに2倍の喜びを感じ、価値があるのです。それが人生です。

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