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 終活 ESPECIAL !

年早々の神奈川新聞(共同通信社加盟)の社会面に、60歳〜79歳の男女1,000人を対象に実施された「終活」に関するアンケート(インターネット調査会社「マクロミル」)の結果が載っていました。その中で74%ものシニアが人生の最期にする作業として終活を考えていると書かれていました。しかし、その74%の高齢者たちの表現は、「終活を最期に準備する前向きな気持ちでいる」という極めて弱い曖昧なものでした。残念ながら、このような「前向きな考え」という気持だけでは、果たしてどれくらいの高齢者が死を迎える前に、相続、自分の望む人生の終わり方、あるいは葬儀などの自分の意志を認める書面を残すのか、同じ高齢者として大いに疑問を感じました。
 前向きな考えの第1の理由は(複数回答可で)「家族に迷惑をかけたくない」という回答が71%で圧倒的でした。しかし実際には、終活を前向きに考えている人の何割が家族のことを思って、書面に認めないまでも、日頃から心掛けて言葉だけでも残して亡くなって逝くのか疑問視しています。現実には、亡くなって逝く人の1割にも満たないと思っています。
 「残さなくてはいけない(should)」と考えている私は、塾の後片付けにある程度の目途がついたら、終活を本格的に始めようと考えています。そんな気持ちでいても、どの程度まで、どの範囲までやれるのか、今の時点では不確かです。終活と簡単に言いますが、そこには強い意志が必要です。健康に自立生活ができ、しかも思い出したり、考える脳を持ち合わせている間に少しずつ時間を割いて、1年、2年と続けなければならない作業だからです。気持ちの変化があった場合には、書き直したり、言い直したりしなくてはいけません。
 そして意思の伝達の他にもう一つ、「立つ鳥跡を濁さず」という故事もあるように、身辺整理をしておく必要もあります。それなりの歳になったら、人生という長い旅は、放浪の旅ではなく、定住の旅で、家にはいろいろなモノが増えていきます。それは生きてきた証しであり、思い出の品であり、趣味に関するモノであったりします。長く生きていればいるほど、モノが多くなるのは自然の理で、私もそういう年齢まで「生きてきたんだ」と実感しています。
 この歳まで生きてくると、長いこと押入れに眠っているモノ、おそらくこれから使うことはないだろうと思われるモノ、一度も使用していないで結果的に衝動買いと位置付けられてしまうモノ、かなり多くの処理しなければならないモノがあります。両親の死後、妹と遺品の片付けをした時も、妹は捨て切れないということで、かなりの量を嫁ぎ先に運びました。自分自身の所有物でないだけに、故人の気持ちを考えてしまい、作業がなかなか進まないことを経験しました。
 MPSをリフォームした時も部屋全体を伽藍堂にしなけばならず、リフォーム前に多少は処分したものもあったのですが、なかなか思い出の品は整理できませんでした。その中には卒業生皆さんの思い出の品もあります。その上、戦後すぐに生まれた私たちの年代は、まだ使えるモノに対して「もったいない」という気持ちもあり、かない強い意志を持たないと、使えそうなモノまでなかなか処分できずに、時間だけが過ぎていきました。
 物置、棚、段ボールなどの中に押し込まれていたMPSの思い出のモノを、裏にある空き家になっている一軒家に移動させた時、その家の床が足場の無いほどになってしまいました。このような場合、悩んだモノは捨てるという覚悟を持つしかありません。そのくらい非情にならないとなかなか作業は進まないことを学びました。同時に、自分が故人となった時、残された者の仕事を少しでも少なくしようという心を持つこともとても大切です。私の場合、父親に蒐集の趣味がありましたので、遺品のかなりの量が処分(あるいは売却)されずに、当時の状態でまだかなり残ってしまっています。
 MPSの資料や写真、物品は、私が死んだら「友の会」の役員を中心に相談して、処分してください。それも文書に認めるつもりでいます。MPSは私の分身みたいなモノというだけでなく、卒業生との共有物でもあり、自分のモノ以上に悩みました。幸い、MPSの教室の半分以上を卒業生の思い出、憩いの場となるようにリフォームしましたので、MPSの思い出の品を確保する空間を作り、現在はそこに保管してあります。自分自身のモノに関しては、満70歳までにできる限り身軽にしておこうと考えています。どんな高価な物でも、私物はその人が亡くなったら、そのほとんどの価値は無くなります。心を鬼にすれば、私物は両親や、MPSの思い出の品より、心情的にはラクに処分できると思っています。
 終活の中でも、文頭に書きました心的伝達が特に大切だと思っています。世に言う the ending note、the last will、the final messageを残すことです。これまでの人生の軌跡、記憶、知恵などを書き留める作業です。難しく考えず、机に向かって自然に頭に浮かんだことを素直に書くことを心掛けます。
 「兄弟は他人の始まり」という言葉があります。それぞれが独立して暮らすようになったり、家庭を持ったりすれば、愛情もそちらに移ります。現代人は義務という言葉を知らず、権利ばかりを主張する輩が増えて、親の老後の介護、相続のトラブルから、文字通り他人になる兄弟姉妹が多くなっています。私の二人の娘は、私が死んでからも仲よく姉妹の関係を続けてくれると信じていますが、私の死の迎え方と葬儀に関しては事前に伝えておこうと思っています。勿論彼女たちに選択できる幅を残して…。
 実は、私の父親も150ページに及ぶ長い遺書を認めてありました。これは一人間としての言葉であり、俗に言う法律的遺書ではありません。まさに、私と妹に残した最後の教育的messageで、遺産の分割などに関しては一言も書いてありませんでした。母親は先に亡くなっていましたので、遺産は妹と二人でほぼ公平(?)に分けたつもりでいます。妹とは大きな喧嘩をすることもなく、両親の墓前にも定期的に来てくれています。このような兄弟姉妹の関係は、年老いてからの幸せのひとつでもあります。
 自分の人生を書き記したそのノートのことは、死の前日に病院に行った時、ベッドから直接言われました。それまで私はその類のモノがあることを全く知りませんでした(妹は知っていたようです)。その時に、それ以外にも口頭で6点の遺言を聞かされました。その言葉は遺書には書かれていない内容でした。父親は自分の口から直接言いたかったのでしょう。私は常時持ち歩いているメモ帳にその言葉をベッドの横で、頷きながら無言で書き留めました。今でもその時の光景が鳥瞰的角度で鮮やかに蘇ります。
 それにしても、誰かに言われたり、頼まれたりしたわけでもないのに、死の前日にあまりにもタイミングよく病院に行ったことを、今でも不思議に思っています。結果的に翌朝早く亡くなり、死に目には会えませんでした。「虫の知らせ」だったのか、父親の念が呼び寄せたのか、「父子の絆」を強く感じました。
 日頃から最期の時期が近づいてきたら、家族など愛する人たちとのスキンシップを心掛けておくことです。今考えてみると、死の前日にしっかりした口調で、しかも理路整然と話す父親でしたが、死の近いことを悟っていたように思うのです。そんな父親に感謝の言葉を忘れていた自分を、今とても悔いています。
 父親の死後、その文章を一度だけ読みました。人生の終焉の代価と考えると、2度目がなかなか読めないで20年が過ぎました。私も父親の享年に近づき、終活を始めようとしている今、近いうちに2度目を読もうと思っています。必ず「感謝」の思いに溢れるでしょう。この歳になっても両親に感謝の気持ちが消えずにいられることは、これこそ最高の人生、最高の老後なのかもしれません。
 老後の不安から生まれたと言われている「終活」という言葉は、現在では「残された家族への思いやり」という意味合いに変化してきているように思います。個人的には、残りの人生をより自分らしく、より楽しく、子どもに負担をかけない老後にするための最後の仕事という位置づけをしています。老後生活を活動的に暮らしたいという心身ともに健康な高齢者にとって、「終活」は楽しみの合間に同時にしておくべき最後の行為だと考えています。

補足:よき家庭人でなかった私ですが、上記にようにこれからは少しずつ先代の遺物や個人所有物の整理、そしてthe ending noteの作成に時間を割かなければなりません。満70歳前後になりましたら、HPの更新を不定期にさせていただきます(18年春頃)。HPも今年で13年目に入りました。始めたのは満56歳の時でした。MPS報ほどではないですが、長く続けることができました。年に10回は更新する気持ちで、卒業生の皆さんの老後に役立つような記事を中心にreal time で書いてきました。多少でもお役に立つ文章があったなら幸いです。
 来年4月以降不定期になりましても、心・知・体が不自由になるまでは更新を続けていきます。不定期といっても、性格的に丸3か月も空けることはしないと思います。半年、1年と更新が無かった場合は、「ついに三宅も……」と察してください。

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