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高倉健

倉健さんが昨年11月に亡くなった。大好きな俳優の一人であった。本名、小田剛一。享年83歳。昭和を代表する映画俳優の一人。近い将来「日本最後の銀幕スター」と記される日がくるだろう。2013年には映画人として初めて文化勲章を受章。私が彼の映画を観たのは、高校生の時の「網走番外地」が最初で、見納めは遺作の「あなたへ」である。やくざ映画は基本的に好きではないので、後期の作品を多く観てきた。
 彼の死去にあたり、多くのTV局が追悼番組を放映した。1980年以降、私は高倉健という俳優より、小田剛一という人間の生き方に共鳴と尊敬の念を強く抱いてきた。NHKの3本の追悼番組を観て、小田剛一は主演・高倉健を演じるために生きてきたのではないかという凄絶さを感じた。
 彼は福岡県の炭鉱町の裕福な家に1931年に生まれる。その年は関東軍が南満州爆破事件を起こし、軍部の台頭で大陸進出を目論んでいた年で、それ以降太平洋戦争への道を進んでいく。終戦の時、彼は14歳である。戦争の悲惨な記憶は深く刻まれているという。終戦までの多感な10年間を、次のように語っている。
 「日本中から集まってきた炭鉱夫たちは気が荒くて、一年に何回も死体を見ましたよ。喧嘩のあった後や盆踊りの翌日には筵(むしろ)で被せられた死体があってね。地方から流れて来た非常に気の荒い人がいっぱいいたということでしょう。米軍の落下傘部隊で降下に失敗した死体もあったよね。消防団の人より、勝手知ったる山だから、走ると俺たちガキのが早く着くんだよね。いろんなものを盗んだよ。まだ死んだばかりの生々しい死体からだよ。死体を見ても怖くない。今考えたら凄まじいことだよね。昔のガキはいつでもどこへでも仲間と一緒なんですよね。一緒にいるだけで楽しくて、いろんなことしましたよ。NHKには言えないこともいっぱい教わったよね」
 明治大学商学部卒業後、思ったような就職先がなく福岡に一旦戻り、家業を手伝った。しかし、好きだった女性のことが忘れられず約一年後に再び上京。大学時代の友人のつてで芸能プロのマネージャーの面接を受けるが、ひょんな巡り合わせから、端正な顔立ちが東映東京撮影所の所長の目に止まり、55年に東映に入社した。
 そして東映の専属俳優として「網走番外地」「日本侠客伝」「昭和残侠伝」の各シリーズに主演し、東映の看板スターとなっていく。しかし、15年にわたり毎年10本前後の映画に出演し続け、またやくざ映画も下火になり始めた頃、「このままでいいのか」という気持ちが湧いてくる。誘いに乗って俳優になってしまったものの、なかなか仕事に誇りを持てず、ストレスが溜まっていった。このまま東映にいたらヤクザ役しかできなくなるという危機感と、会社に対して好きな映画に参加する自由も認めてほしいという願望もあった。東映に入社してから20余年、退社するまでのことを次のように語っている。
 「俳優になったのは、生活のためと好きな女の子に振り向いてもらいためだったんだよ。不純だよね。養成所時代から演技が下手で、よく怒鳴られていた。撮影中にはボロクソに言われることもあって、『このジジ―、ぶん殴って辞めてやれ』と思ったことも何度かあったよね。今思うと、やくざ映画はオレの血がやらせてたんだ。本当は俺、とても気が短いんだよ。今まで罪になるようなことをしないで、よく生きてこれたよね。やくざ映画を見ている時のおふくろは悲しかったらしい。刺青して、刀振り回し、人を殺す。嫌だよね。立ち回りも多く、肉体労働の撮影が連日連夜続いて、遅刻はしょっちゅうでしたよ。ただ、台詞をしっかり覚えることと、身体だけは鍛えていましたよ」
 独立してから1977年「八甲田山」「幸せの黄色いハンカチ」の2作品に主演し、日本アカデミー賞とブルーリボン賞の主演男優賞をダブル受賞し、演技派の「ニユー高倉健」へと変貌していく。「俳優にとって身体は資本」という信念のもと、筋トレ、ストレッチ、ウォーキングを日課にし、身体を鍛え続けた。身長180cm、体重70kg。20歳過ぎから80歳までこの体型を維持してきた。健さんの魅力の一つは、いつも背筋がピンと伸びていて、とても傘寿を過ぎたとは思わせない立居振舞にあった。
 もうひとつは感性を磨くということを意識して日常生活を送ってきた。人の感情の機微を知るために、読書もよくしたという。絵画、音楽、映画、自然などとのふれあいから審美眼も養っていった。次の出演作品が決定すると、その映画に関する書物を読み、時には事前にロケ地まで行ってその空気を感じ取り、役をどのように演じるかを究極まで考えていたという。精進、努力とは人の見ていないところでするものだということを実践した人でもある。プライベートの時間でも律することを心掛けた。このあたりのことを次のように語っている。
 「気持ちは映らないというけど、でもやっぱり映るんですね。それがないヤツはきっと光らないんだよ。映画俳優の一番大事なものは感受性だから。そして、俳優は私生活も見せてはいけないと思っていますよ。映画のイメージを壊すこともあるからね」
 よい作品に出演していくうちに、自分はこの役を演じるのに相応しい人間だろうかと自問し始める。懸命に生きている男を演じるためには、自分も懸命に生きていかなくてはならない。誰よりも映画に打ち込んでいかなければならいと考えるようになった。打算に走らず、黙々と己の本分を全うし続け、しかもそこには男の哀愁が漂っている、そんな愚直に生きる男を演じ続けてきた。その精神は遺作の「あなたへ」まで続いた。
 「銀座に飲みに行ったりしたこともないし、先輩たちからも何度も誘われたけど、麻雀も結局覚えなかった。JRAのCMに出してもらっても、馬主になったこともないしね。変わっていると言えば、変わっているんだよね。よく『色気がない』と言われちゃうのも、そのへんからきているのかな。もう色気をつけても遅いけどね(笑)。それから、映画から人生を一番勉強させてもらったのは、俺自身かもしれないよね。映画の中で『こういう男がいい男と言うんだよ』と、ずーっとギャラをもらって教わってきたわけだから(笑)」
 日常生活は晩年になればなるほど、神秘のベールに包まれていった。全ての私的、公的な連絡(手紙、プレゼントなど)は事務所を経由して健さんに渡されていたらしい。健さんと事務所との絆と信頼は強く、その徹底ぶりに死亡説まで流れたことがある。頑なまでに小田剛一というプライバシーを守った。ひとつの作品がクランクアップすると、英語も流暢だったので、海外などへ長期旅行して英気を養っていたそうだ。
 「一番大事なのは、出会いでしょうね。どういう人と人生で出会うか、そこで決まるんじゃないですか。いい人と出会うといろいろなものをもらいますからね。俳優にとって大切なのは、造形と人生経験と本人の生き方なんでしょうね。映画はその場面によぎる本物の心情を表現するもので、役者の生き方が出てしまいます。テクニックではないですよね。」
 独立してからは自分のやりたい作品を選んで1年に1本程度やり、1999年の鉄道員(ぽっぽや)以降は数年に一度の出演になっていくが、晩年の作品になるほど、セリフを極力少なくし、観ている人の心に温もりや思いやりを届ける演技になっていった。参考までに次回作の映画は、噂では「風に吹かれて」であったとか。とても観たかった…。
 キリッとした二枚目の顔立ちであっても嫌味はなく、憂い顔に寡黙、それでいて心優しい「男の中の男」であり、男に好かれた男であった。礼儀正しく、撮影現場では上下の隔てなく丁寧にお辞儀してまわっていたという。同じ芝居を何度も演じる事はできないということから、テストをして本番撮影は基本的に1テイクしか撮らせなかったという。
 小田剛一さんは、映画の中の人物(役柄)と高倉健と自分を究極まで同化させるために生きてきた気がする。生きていくことは切なく、いとおしいということを背負ってカメラの前に立ち続けた。それが役者としての務めであり、自分の人生であると考え生きてきた。孤高、ストイック、不器用、気遣い…、いろいろな言葉が彼には付けられた。彼がそこまで律した根幹をなす言葉がある。
 「僕の中に法律があるとすれば、おふくろだね。それははっきりしている。『恥かしいことはしなさんなよ。あんたってそればっかしですよね』って言われて。世話になった人はたくさんいるけど、折に触れ思い出すのはやっぱり両親だよね。この歳になって思うのは普通、女だったり、子どもだったりするんでしょうけど、たまたまそれに縁がなかったので、今でも思い出すんでしょうね。寂しいことだと思ってますよ。だから、イヴ・モンタンは後妻にあんな若い秘書の美人をもらって…、チクショウと思うよな(笑)。人生における仕事とプライベートは別物で、その両方が幸せになることが最高だよね。幸せになりたい。それが人生の目的じゃないの? みんな。そのために頑張っているんだよね。」
 健さんの心には屈強な精神と理想を求める生き方のせめぎ合いが晩年まで続いていたのだと思う。「人を好きになる」、このことも大切なことだと言っている。日頃から感性を磨いていたということは、当然感受性も鋭敏になっている。そうであるなら、人を好きになることは並の人間より難しくなる。ストレスの多くは人間関係であり、私のような世俗人は波長の合わない人間とはなるべく拘わり合わないように心掛けてしまう。それが凡人の対処法である。
 人間、一人にされることは寂しいが、一人でいることも必要である。それは自分を見つめる時間である。そこに人間性の違いが出てくる。そうなると、強靭な精神力とヒューマニティー(正しくは humanitarianism)の心が必要になる。健さんのように人生を一種の修行のように生きてきた人は、そのような心を持ちあわせていなくても、いろいろな人と接していくうちに、それが昇華して「人を好きになっていく」のかと考える。
 健さんは寡黙で口下手な人であったと言われていたが、インタヴューや密着映像の中ではウィットなジョークをかなり飛ばしていた。ジョークまでもが温もりを持って心の中に入り込んでくる、楽しい人である。子どもの頃から30歳前までは、いろいろなことに関心・興味を持って、感性を育み、1万日生きたあたりから(「充実の時代」に入ったら)、人生を考え、幅広い見聞を広め、どこまで精神的、体力的に強く生きられるかということだろう。そのためには、健さんの言う「いい人、いいモノ」に、それまでにどれくらい出逢っているかということが大切になる。億劫な心、活字嫌い、無趣味は、その生き方の敵になる。
 健さんのインタヴューを聴いて、いろいろなことを学んだ。残りの人生の過ごし方のヒントと勇気をもらった。もう遅いかもしれないし無理かもしれないが、私は自分の健康寿命をあと5年〜10年と考えて生きている。時間的、物質的余裕があれば、健さんのような過ごし方をしたいと思う。健さんの生活レベルとは同等でないこと、スケールも比較すらできないことは重々承知している。しかし、老後の生活に一条の光を見出すことができた。私なりにできることをして、楽しく生きていこうと思う。「終わりよければ、全てよし」、シェイクスピアもそう言っている。
 伸びた背筋と柔らかいふくらはぎを維持していくために、無理しない程度にストレッチをし、多少の負荷をかけながら運動をし、健康寿命が少しでも長くなるように生きていくつもりである。とりあえず70歳までを第一関門、それがクリア―できたら75歳を第二関門として…。その先は分からない。実は健さん、今上天皇より3学年も年上である。若い時のカッコよさにも憧れたが、年老いてくると、実年齢よりも若く見られる立居振舞はもっとカッコいいと思ったりする。老後の姿(心・知・体)は、それまでの生き方の結実である。
 インタヴューでの健さんの言葉は、私には映画以上に為になった。そして、温もりのある多くの映画、ありがとう。あなたの気持はちゃんと私の目には映っていました。 合掌

補足 : インタヴューの中での発言では、健さんの理想の俳優はジャン・ギャバン。実生活での理想はイヴ・モンタン。感銘を受けた映画は「ゴッドファーザー」と「ディア・ハンター」とのことです。健さんファンで感受性の豊かな人は、この二人とこの2本の映画から、健さんの心の中を感じ取ることができるかもしれません。

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