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これからの日本は 〜中編〜

 65年生きてくると、いろいろなことがあった。人からは「自分勝手に生きてきたんだろ」と、揶揄される評価の多い私であるが、それでも多少は我慢もしたし、努力もした。哀しいこともあったし、辛いこともあった。長いものには巻かれてもきた。ただ、自分としては自分らしく生きることを心がけ、その点においては幸せだったと思う。他人に迷惑をかけない範囲で、自分なりに人生を楽しむことができたとは思っている。
 人類70億人。日本人だけでも1億2千万。年代も違うし、性格も違う。環境、職業、品格、知性も違う。人それぞれに人生観、価値観は異なり、億人億色である。その中から自分の求める人間を探すだけでも大変な作業である。運命(タイミング)もある。価値観が似通っている人、尊敬できる人、共通の過去を持つ人、関心・興味の同じ人、一緒にいて楽しい人・為になる人…。このような人たちは人生にとって大切な人になる。
 一方、自分にとって悪いカテゴリーに入る人間と肌の合わない人間もいる。悪い人間とは各種詐欺や悪徳商法を生業としている人、ストーカー、犯罪者などのことであり、これらの人間に対しては心にバリアーを作って用心するしかない。ネット社会になってからは、相手に顔や素性を知られることなく、取引や商いができるようになり、○○詐欺、悪徳○○が多くなってきた。
 肌の合わない人というのは、いわゆる奇人、変人、珍人の類で、主観的判断が強く、なかなか会話のキャッチボールのできない人間のことである。犯罪者予備軍のようなマナー、エチケットの欠如人間、換言すれば、自分のことしか考えない社会性に乏しい人間である。最近とみに多くなってきたのが、他人への迷惑や道徳心を知らない人間である。腹の立つことも多い。私よりずっと慈悲心のある人は深い憐みを感じているだろう。
 犯罪(刑法上の罪)まではいかなくても、あなた方の中にも「何だ!この人間は」という体験をいくつかしたことがあるだろう。最近、日常茶飯事的に出会うのが、歩きスマホ(スマホの画面を見ながら歩いている人)である。私も半年くらい前に腹立たしいことがあった。スマホを見ながら歩いている人にぶつかられ、私のほうが怒られたのだ。私は事前に進む方向を変えたのだが、相手はスマホに夢中でまっすぐ歩くことができず、避けた私のほうに向かって来た。当然若いころの私なら、相手の言う前に私のほうから怒鳴っていただろうが…。
 その上をいくのが、自転車に乗ってスマホの画面に見入っている若者だ。幸運にも衝突されたことはまだないが、これなどは危険行為の極みである。自転車による歩行者の死亡事故だけで、全国で年間10件前後ある。重傷・軽症の被害者はかなりの数に上り、その大部分は子供と老人である。運転中の携帯電話使用はすでに法律で禁止されているが、日常生活の中での携帯電話の使用制限の法律も必要な時世になっている。親から「人への迷惑」を教わらなかった人間には、法という網をかけるしかない。
 生活の中にwalking を意識的に取り入れている私は、普通の人より他人とすれ違う頻度は当然多くなる。いろいろな場所を歩いていて興味深いことに気付いた。駅や街中の混雑した場所になればなるほど、この種の人間が多くいるということだ。一方、田舎道のような滅多に人とすれ違わない場所でこそ、何かのときに役立つはずの携帯電話であるが、歩きながら携帯を使用している人を一度も見たことがない。携帯電話使用のTPO は人間の心の中を具象化している気がしてならない。
 この歳になると、「これが世の中だ」と知り、余計なことを言ったり、行動を起こしたりしなくなる。これが時世と自身の年齢を鑑みたバリアーである。誤解されることを覚悟して言うなら、好きな人とは会うが、嫌いな人とは接点を少なくする。好きな人は助けるが、危ない人には近づかない。経験から学んだ老人の処世術である。
 卒業生のみなさんには分かってもらえると思うのだが、50歳くらいまでの塾の中での私の第一の責務はよりよい環境作りであった。生徒に対し覚悟を持って、理想、完璧を追い求めた。経営は考えなかった。生徒、保護者の喜ぶことを自分のできる範囲でやった。危ないこともした。しかし今の私は、時代の変化や社会規範の崩壊に合わせて、正義や熱意の前に相手に合わせた行動を取るようになった。
 人間はまず気付き、考える。知識、経験を増やす。理解する。これらの努力を続ける。そして漠然とでも自分を知ることである。この歳になると、これが人生だったんだと思うことがよくある。「学校で習った知識はあまり役に立たない」とよく言われるが、確かに大学で得た専門知識を職業にして自活できる人は少ない。だからと言って「学校の勉強はしなくてもいいんだ」という結論にはならない。自分の価値観、人生観に合った生き方を追い求めるためには、社会の一員としての最低限の常識やマナーは身に着けておく必要がある。すなわち、団体生活での規範と会話に必要なある程度の知識は必要になる。
 個人にとっての最小の環境は家庭であり、最大の環境は地球である。このことは「三宅老頭語録」にも書いた。おそらく国民の9割以上は、まず家族が幸せに生活してくれることを望んでいる。しかし、大きな自然災害は仕方ないにしても、原発事故、大病の宣告、突然死、行政の対応、あるいは○○詐欺や悪徳○○によって、善良な一般住民の小さな幸せは一遍に素っ飛ぶ。通り魔、無謀運転、イジメなどで家族を亡くした場合、その悲しみは計り知れない。
 これまでにも政治家、公務員、教育関係者、あるいは社会のルールを教えない家庭の非難を多くしてきたが、誤解されないために敢えて補足しておくが、ほとんどのこれらの当事者は真面目に仕事に子育てに、精を出していると思っている。特に組織の中で前線の一兵卒として働いている人々は身を粉にして働いている。支店長や課長クラスの役職の人々も中間管理職として、上からの不条理な命令とニュー人類の部下への指導の板挟みになってストレスも溜まっている。
 しかし組織というものは、業務命令は絶対的なもので、どんな理不尽なことも従わなくてはならない。役職による上下関係だけでなく、グループ組織内での上下関係によっても、下部組織は上部に逆らうことはできない。企業には親会社⇒子会社⇒孫会社(一流企業⇒中小下請け企業⇒協力企業)という支配従属関係があるように、行政にも国⇒県・政令指定都市⇒市町村への指示命令がある。下部組織に行けばいくほど苦労や雑務が多くなる。
 企業のトップの多くは「企業は人なり」、「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉の類を口にするが、これには笑ってしまう。現実は全く逆である。「人」を「トップ(上層部)」に変えてみればわかる。「企業はトップなり」「行政は政治家・国家官僚なり」。K国やC国を例に出せば、上に立つ人間こそが社会規範を創っているということが明瞭に解る。未成年者の諸々の社会的問題にしても、そのトップ(生産者)である親の子育てに責任がある。このように、現代の日本の諸問題はその組織(環境)トップの人間性に大いに関係する。 続く

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