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健全な精神は健全な肉体に宿る

々回のA rolling stone gathers no moss. に続き、今回はA sound mind in a sound body.について話します。
 この有名な英文は高校英語でもよく見かけ、「健全な精神は健全な肉体に宿る」と訳されています。『広辞苑』にも、ローマ時代の諺で精神と肉体との間には密接な関係があり、身体が強健なら自然に精神も健全であるという説明がなされています。
 どうもこの訳には大きな誤解があるようです。出典は古代ローマ時代の詩人ユウェナリスの詩の一説で、詩の文脈から理解すると「健全な肉体に健全な精神が宿っていれば理想なのに」という意味のようです。風刺詩人であったユウェナリスは、古代ローマ軍人たちの肉体を見て、筋肉ばかりを鍛え、肝心の心が腐敗しきっていた様子(健全な精神が健全な肉体に宿っていない現状)を、逆説的に皮肉っぽく詩に表現したものでした。
 20世紀になると、この言葉はナチス時代のドイツを初めとする軍国主義国家によって恣意的に歪曲され、頻繁に使われるようになりました。戦前・戦中の日本でも盛んに使われていたようで、運動会のメダルにこの言葉が刻まれていたこともあったそうです。この対極の言葉に、勉強ばかりしていて軟弱そうな頭でっかちの人間に対しては「青白きインテリ」という言葉があり、「精神が腐っている」なんて揶揄されていました。
 現在でも誤訳に基づいたこの言葉は、世界各国の軍隊やスポーツ界系の分野では根強く残っており、今でも体育会系の人の中には、この言葉を大切にしている人が多くいます。現代にもこの対極の言葉として「もやしのような男」という言葉があります。また今流行の「草食系男子」は「異性と肩を並べて優しく草を食べることを願う男性のこと」と定義されていますが、最近では「元気のない(覇気のない)温室育ちの若者」を表現する言い回しとしても用いられているようです。
 ところで、この「健全な肉体」とはどういう身体のことを言うのでしょうか。人によってその定義は千差万別でしょうが、基本的に人間は動物ですから、動かなくてはいけない生き物です。最低限、日常的なtaskを一通りこなすことができ、病気になりにくく、疲れにくい身体を維持していることを客観的な健康体と定義付けることします。一時的に筋肉隆々になったり、一時期何かのスポーツに秀でたりするための肉体を、ここでは健全な肉体とは呼びません。(但し、スポーツを生業にしている人間の場合はこの限りではありません)
 健康体を維持するためには、やはり毎日の生活が大切になります。脳も、身体も、心も、鍛えるには意識と継続が必要です。暗記力や計算力も日々繰り返すことによって鍛えられます。当然、体力も日々の繰り返しで鍛えられます。自然の中に身を置いたり、素敵な人と接したり、芸術作品に触れたりすることを心掛けていると、安らぎや和み、穏やかさや細やかさの心が自ずと生まれてきます。これなども日常生活の自覚の個人差が生み出す喜びです。健康体であるためには普段から億劫がらずに意識して体を動かすことが必須になります。決して競技としての運動(スポーツ)をする必要はありませんが、運動不足のときには、健康維持の一環としての楽しむ運動を心掛ける必要があります。
 それでは、逆に健康体でなければ健全な精神は培われないのでしょうか。この歳まで幸いにも手術ゼロ、入院ゼロで生きてこられた人間ですが、その割には不健全な精神をしている人間であることも自覚していますから、私には多くを語ることはできません。ただ、病気になると感情をコントロールできなくなったり、ネガティブな考えが浮かんだりすると言います。正岡子規も『病牀六尺』の中で書いています。「病牀六尺が私の世界だ。この六尺でも広すぎる。この痛みは死んだ人か、死に際の人しかわからん。煩悩して狂人になりたく思う」と。
 病気がちの人は、僻みが多くなったり、気が短くなったり、イライラしたりするということも耳にします。病気になってしまった周りの人を見てきても、強い人間ならそんなことはないのでしょうが、精神や思考がプラスに作用することはないと感じています。体を動かすことができず、したいことをできないことは、動物として正常な状態とはいえないからでしょう。
 田舎塾創業当時、私は20代でしたが、その頃から「心・知・体のバランスのとれた人間」を根本理念にして生徒に接してきました。還暦を過ぎてもこの考えは変わっていません。この生き方と「一芸に秀でた人間」としての生き方は対極の人生の気がします。私のような奥行きのない人間には前者の生き方のが合っていたように思っています。あれこれ興味を持って生きていくことは、与えられた時間は平等ですから、楽しいこと、心地よい人、美しい自然に接する機会も多くなります。また、身の丈以上のものを求めようとすると、無理をしたり、策略に走ったり、幅のない人生になってしまう嫌いもあります。個人的にも、自分にだけは見栄を張ったり、嘘を吐いたりしたくなかったのかもしれません。これも両親の教えだったのでしょうか。余談ですが、あの高倉健がTVインタヴューの中で「私の生きるうえでのrule は母親の教えです」と言っていました。
 どちらを選ぶかはその人の価値観、すなわち生き方です。何かのスポーツで一番になることも、流行り歌や芸能で人気者になることも、芸術や文学で名を成すことも、組織の中で偉くなることも、専門分野で何かを発見、発明することも、あるいは拝金主義者が年収1億円稼ぐことも一芸かもしれません。その上に「健全な精神と健全な肉体」が備わっていれば、それは素晴らしいことです。何万人に一人という人間だと思います。ただ、「類は友を呼ぶ」と言います。価値観、性格、資質の似ている者同士は、自然と集まる人間が限定され、それが友や仲間になります。そうなると環境によって、健全な精神と健全な肉体が軽んじられる傾向も孕みます。
 50歳を過ぎた頃から折に触れ人生を振り返るようになり、人生にとって大切なのは「健康・環境・自立」ということに気付きました。これを基盤にして考えていくと、「精神と肉体はバランスの取れた相互作用」のように思われます。健康であることは生命維持の根幹です。それを司るのは精神です。健康でいられることの意識と有難さを自覚する精神が健全な肉体を作り、健康でいられることで健全な精神状態でいられる、というのが私の結論です。

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