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開聞岳


開聞岳」この山をご存知だろうか。深田久弥の「日本百名山」のひとつである。
 この山には学生時代の思い出がある。奄美諸島を2週間ほど一人旅したとき、与論島で意気投合した全国各地から来ていた男女15名の大学生と親しくなった。そのグループのうちの男性3名、女性4名、そして私は同じ船で鹿児島に戻ることになった。そのとき、7名で登った山である。一人足りないのは、鹿児島で危急の知らせを受けた女性が実家に帰らなくてはなかったからと記憶している。
 その中の一人とは今でも交流がある。何を隠そう、北海道でのゴルフプレーを好きになったきっかけは、彼が札幌支店に勤務していた時からである。
 他の6人との音信はない。みんないいおじいさん、おばあさんになっているんだろう。万が一にもこのHPを与論島で親しくなった「えらぶ・サンゴ会」(グループ名)の誰かが偶然見つけてくれて、「班長だ」「あ!兄貴だ」(そう呼ばれていた)と、懐かしんで連絡があったらいいなと密かに願っている。
 人には一度は行ってみたい場所とは別に、再訪したい場所もいくつかある。私にとって開聞岳はそのひとつであった。長年もう一度登ってみたいと思ってきた。早くしないと、もう登れないあせりもあった。3月に行く予定でいたが体調を崩し、12月の上旬に訪れたのである。
 開聞岳は海面から聳え立つ標高922mの独立峰である。薩摩富士と呼ばれ、富士山のように美しいコニーデ型をしている。なぜ登ることになったのかは全く覚えていないが、おそらく帰路の船上から秀麗な雄姿を見て、誰とはなしに「あの山に登ってみよう」ということになったのだろう。ひとりの女性が登山好きだったことを覚えている。時間や精力を持て余し行動する青春の徒である。
 開門岳の登山道は一本しかなく、とてもユニークな登り方をする。多くの場合、コニーデ型の山は九十九折を、向きを変えながら登っていくが、開門岳は螺旋状になっている。1週半すると頂上に着く。方向転換はなく、多少蛇行する道を真っ直ぐ進む。4Kmで800m登る。平均10mで約2m登っていく計算である。頂上に近くなるほど傾斜も急になる。
 朝7時、ホテルを出発する。天気は風もなく、快晴。まさに野外スポーツ日和である。7時40分、2合目の登山口の駐車場に到着。軽いストレッチをする。リュックを背負い、登山者名簿に記帳し、いよいよ登山開始。まだ舗装道路だというのに、いきなりきつい傾斜。しかしこんなことに心は揺がない。
 私はこの2ヶ月間かなり身体をいじめてきた。毎日平均10Kmの歩行と、2時間ほどの筋力作業をすることを課してきた。その効果か、体重は5Kg減量の71Kgに、体脂肪率も3%落ちて18%に絞れた。身体は軽いし、体調も頗るよい。何よりも、ここまで来て途中リタイアしたら情けない。開聞岳という楽しかった青春の1ページが、白秋(or 玄冬)の再訪の苦い思い出に塗り替えられることだけは避けたかった。
 2.5合目。ここから本格的な登山道になる。樹高10m以上の原生林の中を進む。すれ違い時には一方が端によるくらいの道幅。平らな面は2mも続かない。音もない。鳥の囀りも聞こえない。自分の体力を信じて歩を進める。気の根っこがむき出しになっているところに足を掛ける。70cmくらいの段差も時々ある。
 コニーデ型の円錐状の山には川はない。降った雨は上から放射状に流れ落ちる。だから、人の歩く道は周りより低くなっているので、俄かの川に早替わりする。登山道は益々削られ、それが繰り返されていくうちに周りの土が異様に高くなり壁のようになる。私の背丈より高い土壁になっているところが何箇所もあった。40年前にはなかったように思う。
 5合目か6合目に着いて、ようやく下界の見えるところに出た。前の樹木を切り倒して見晴らしを良くしてあった。この場所は覚えていた。どこか途中に一箇所下界の見える場所があり、そこにいつ着くのだろうと思いながら登ってきた。コンビニで買ったおにぎりを一つ朝食として頬張った。おいしかった。
 10分ほど休んで出発した。いよいよ後半戦。歩行距離は半分ほど来ているのだが、そこからが厳しかった。傾斜が急になるだけでなく、岩場が多くなった。当然背の高い樹木はなくなり、潅木に変わった。それでも3〜4mあり、下界は相変わらず見えない。すると突然、視界の開けたところに出た。そこは海面から自分の立っている足元までのスロープが全て見えてしまう絶壁だった。
 そこから頂上までは鎖場や梯子のところもあった。40年前にはなかったように思う。これも土が洗い流されて岩場だけになってしまったからだろう。頂上近くでは、傾斜はさらに急になり、四つん這い近い姿勢になって登った。顔を上げると枝葉の隙間から、ご神体・開聞岳山頂の御岳神社の朱塗りの鳥居が見えた。
 麓から2時間40分、やっと山頂に辿り着いた。たった4Kmの道のりにこれだけ掛かった。まず、リュックの中から1枚の紙を取り出した。40年前に山頂で撮った私の写真をコピーしてきたのだ。同じ場所で写真を撮ろうと思って持って来た。ところが似た岩がない。偶然、地元の山岳ガイドの人がいて、写真と同じ岩を一緒に探してくれたが、やはり見当たらない。40年の風雨は山頂にあった大きな岩場までも変えてしまっていた。
 このことは少し悲しかったが、致し方ない。そのガッカリを補って余る嬉しいことがあった。景色の素晴らしさである。南には雲海の上に屋久島の宮之浦岳が見え、北には噴煙を上げている桜島の向うに、高千穂峰、韓国山などの霧島連山が望めた。確か40年前も同じように素晴らしい景色だった。
 72歳になるという人と話すことができた。無駄な肉は一切ない体型をしていた。この人、週に1回開聞岳に登っているという。驚いた。もはや趣味の領域を超えて主のような人である。その人が「こんな景色の素晴らしい日は、一年に一度あるかないかです」と言っていた。2度しか登っていない私が2度ともこんな好条件に恵まれるとは運がいい。ここで2つ目のおにぎりを頬張った。登ってよかった。感慨はピークに達した。
 11時、下山。出発時間が早かったので、帰路ではいろいろなパーティーとすれ違った。夫婦、親子、山ガール。そんな中、男女数人ずつの大学生らしきグループとすれ違った。余裕のある男性、苦しそうな女性、元気づける男性。それぞれが懸命に歩を進めている。どんな繋がりの仲間なのだろう。どんなことから登ることになったのだろう。彼らが消えていくまで暫くその場に立ち、40年前の自分たちと重ね合わせて見ていた。あの時の私はどんな私だったのだろう。
 12時過ぎ、まだ5合目に達していない50歳代の夫婦に出会った。向こうから「頂上まで行って、帰ってこれますかね」と訊かれた。私は「山頂は素晴らしい景色でしたよ。頑張れば、帰ってこれますよ」と答えたが、鹿児島でも17時になると暗くなる。奥方を連れていたので、登頂して登山口まで戻るのにあと5時間近くは掛かりそうだ。「17時には必ず登山口に戻るように」との立て看板もあった。そのあと登って行く人に会うことはなかった。
 励ましたはいいが、少し心配になった。川上順の遭難が頭をよぎった。日が暮れて、夜になると山は何も見えない。谷あいや、樹木の生い茂っているところでは星も見えない。懐中電灯を持参していても、その照らす視野しか見えない。山岳の夜は本当に怖い。天候の急変が加われば尚更だ。山の怖さを再認識した。
 「高名の木登り」(徒然草)にあるように、過失というものは安心したり気を抜いたりしたときに起こる。何でもないところに難がある。最後まで注意を怠ってはならない。弾むように下ると重力が加わり膝に負担が掛かり、笑い出す。踏みどころが悪いと捻挫もしかねない。歳も歳だし注意して下っていたのだが、3合目辺りで足首が内側に折れた。拳大の小石を踏んでしまったようだ。「やばい」と思ったが、そのあとはより慎重に下ることに専念した。
 13時10分、痛い部位もなく無事に下山。挫いたと思った足首も痛くない。お見事!登頂成功。もうこの歳になると、思い出にしておく歳月は短いが、楽しい1ページを加えることができた。実は、その翌日も、翌々日になっても身体のどの部位にも痛みや違和感はなかった。これは自信になった。次はどの思い出の地に行ってみようか。
 しかし、思い出の地は懐かしさだけで再訪しないほうがいいことも多い。私もいくつか失敗している。奄美諸島一人旅でも、実は一番記憶に残っているのは与論島である。しかしこの島はリゾート化して、この40年で別の島になってしまったようだ。こうなると、過去の淡い記憶が、再訪のために消えてしまうことがある。再訪は古き良き過去の自然に接することによって自分の記憶を呼び覚ますことなので、よく調べてから行くことを勧める。

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