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結婚生活は難しい

7月に掲載した「結婚?それとも独身?」の後編としてお読みください。前編では、国立社会保障・人口問題研究所が5年ごとに行なっている未婚率の統計をもとに、どうして未婚率が高くなってきたかを考えてみました。今回はその続編として、結婚生活の難しさについて極めて個人的思いつきを述べてみたいと思います。

 厚生労働省の統計によると、2009年の婚姻件数は約71.4万組、離婚件数は約25.3万組あったそうだが、夫婦関係の実態(裏側)はどうなっているのか。10組の夫婦のうち、1組が相思相愛の円満夫婦。3組が可もなし不可もなし。3組が仮面夫婦。そして残りの3組が離婚。これが下衆の推測である。悲しくなる数字であるが、夫婦間の実態はこんなものではないのだろうか。
 あの世に行っても、生まれ変わっても、また一緒になろうという夫婦がいる。人間愛の最高の形は、親子ではなく夫婦にあると考えている私には、なんと素晴らしいことだろうと思う。双方でそう思っているsupremeの夫婦は、人生の最高のパートナーを得たことになる。今日の婚姻実態から見ると、双方が及第点をつけ合える結婚生活を営むことはとても難しいといえる。それだけに格別の重みもある。
 夫婦は「異質の男女」のが上手くいくと言う人もいるが、それにも限度があるし、また「似たもの夫婦」という言葉もあるが、夫婦二人が反社会的発想をしている場合、相互に悪影響を与え合うこともある。夫婦だけでなく、親子、友人、師弟などほとんどの人間関係は独自性を持ち、上手く付き合う公式などない。友人に対しても一人ひとり微妙に異なる接し方をしている。当然、夫婦はそれ以上に精神的、物理的接触が蜜であるわけで、良好な関係を構築すること、ましてや双方にとってsupreme のパートナーになることはa herculean task である。
 私はこれまでの人生を、義務を果たすことに大きなウェートを占めて生きてきた。「無償の愛とは義務を果たす」という考えで生きてきた。精神的、空間的に近くにいる人を大切にすることを念頭に生きてきた。仕事にしても内容と責任が報酬と比例すべきであり、「まず報酬ありき」という、いかに楽にお金を稼げるかという考えは一度もなかった。この義務を果たす、責任を取るという考えは、親の、特に父親の教えが大きかった。
 しかし一方で、私のようなダメ人間がこのような生き方をすることはとても疲れることも知った。人間の根底に流れている性、すなわちDNAや三つ子の魂は、なかなか大人になっても変わらない。変わらないのに変えようとするから苦しんだり悲しんだりする。これはまさに夏目漱石の小説の世界である。漱石は晩年「則天去私」という言葉を残しているが、これは「修善寺大患」後の、死の近くになって達観した境地であると言われている。それまでは、生きるということは性や宿命を乗越えることであり、そのためには自然に逆らい作為、偽善、策を弄し、その果てに苦悩、破滅の道が待っているというのが、漱石作品の根源をなしている。
 生来私は自分勝手に生きてきた人間で、義務を果たすために最低限の努力はしてきたつもりだが、自分の性には正直に生きてきたほうなので、stoicなまでに自分を追いつめることもなく、その面での悩み、疲れは少なかった。夢、理想という言葉もあまり好きではないし、地位、肩書きなどに固執することなく、身の丈に合った生き方をしてきたと思っている。結婚も家庭という最小の環境の中で、my role in the familyを決め、その義務を果たすことに努めてきた。
 結婚は仕事(職業)に似ている。結婚はmental、仕事はmaterialという対極の範疇に位置するが、この二つは人生の中でとても大きな比重を占める。結婚はある期間の交際を経て、理想とはいかなくてもよかれと思い、一生添い遂げるつもりで一緒になる。仕事は自分の能力、関心に照らし合わせ、ある程度の下調べをして一生の仕事にしようと、ひとつの職業を選択する。しかし現実は、結婚生活や仕事を長く続けていくうち、軋轢、柵、体質、内情などの予期せぬ現実に苦しんだり、悩んだりするようになって、その結果、離婚したり、転職したりということになる。
 しかもこの二つには、人間性がもろに出るという共通性がある。それも負の部分の人間性が露出する。同じ方向を見、自分と同じ考え、生き方をしている人間は少ない。ひとつ屋根の下、職場の中で、四六時中顔を突き合わせていると、嫌でも相手の人間性が見えてしまう。厚かましさ、図々しさのエゴがぶつかり合う。人によって優しさ、耐える力も異なる。「結婚は忍耐である」というが、それは諦観ではなく方便の言葉である。
 あなたがもう一度20歳に戻ることができたら、結婚しますか? それとも一生を独身で暮らそうとしますか? という質問に、現代の社会の風潮や個人の価値観を考えると、おそらくかなり多くの人が、敢えて結婚しなくても、結婚したくなったらすればいいという、ゆるい考えを口にするような気がする。独りでいることによる不便、淋しさの覚悟を決め、とりあえず独身生活を送っていく人が多くいると思う。今日の晩婚化の傾向も、そんなふうに考える人が多くなっていることが一因になっていると思われる。
 独身で生きていくためには、まず健康でなくてはならない。大病をしたことのない私には分からないが、病気になると気弱になり、人恋しくなり、家族の愛情をしみじみ感じるらしい。また、自立できる経済力と強い自己責任も必要になる。気の置けない友人が片手ぐらいいて、2〜3の趣味があることも前提になる。他力本願と羨望は独身生活には敵になる。「健康、環境、自立」が不可欠で、なんでも自分でする、できる処理能力が必要になる。言い換えるなら、「心・知・体の鍛えられた個性」が要求される。独身生活は「独りでいること」「独りですること」の日常生活が基本になるが、現代人の多くはこれらの対応能力を持ち合わせていないのに、結婚もしたがらない。
 結婚生活は愛情だけの結びつきだけではない。昔から「結婚は愛情か、それとも経済力か?」という二者択一の愚問があるが、結婚は愛情だけでもないし、経済力だけでもない。これ以上に、感性、資質、相性が問題になる。作家・菊池寛は「悪妻は百年の不作であるという。しかし、女性にとって、悪夫は百年の飢餓である」と言っている。この「悪」という概念は非常に主観的な定義で、Aにとっては悪の範疇であっても、Bにとっては重要視していないことかもしれない。
 夫婦喧嘩は犬も食わないという。夫婦仲は他人には一番わからない。悪妻でも、ダメ亭主でも、配偶者が耐えてくれれば、一生を添い遂げられる。どんなに理想の相手と一緒になっても、離婚する人もいる。外観からはそれほど仲違いに思えなくても、離婚する夫婦もいる。いつも喧嘩ばかりしている夫婦が、一生を添い遂げることもある。独身で暮らしていることの煩雑さを知り、パートナーの苦手な分野を補ったり、精神的、経済的に助け合ったりすることが夫婦の基本であり、そこには尊敬、感謝の念が介在する。しかし、一方が他方に寄り掛かりすぎるとき、他方にストレスや不満を与える。
 結局、結婚は夫と妻という歯車。その歯車の素材はできれば似たものがいい。鉄と亜鉛では亜鉛がぼろぼろになる。歯車の凸同士がぶつかり合うときには、双方の凸を平坦にするよう努力すればいい。それができなければ、相性がぴったり合うか、我慢強いパートナーを探すしかない。それは、砂浜の中に落とした小さなダイヤを探すようなもので、そのような不可能に近い努力をするくらいなら、お互いの凸を平坦にする努力をしたほうがずっと現実的である。
 結婚生活の円滑な流れは歯車の凹凸で決まる。だから、結婚生活は難しい。不幸な結婚生活をするくらいなら、独身でいるほうがましだと言うという人も多くなる。しかし、人間愛の最高の形は夫婦愛であり、supremeの夫婦はそれだけで人生の幸せのひとつを手に入れていることになる。最高のパートナーは姿ばかりでなく心まで映す鏡になっている。

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