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川上順君の思い出

上順君の突然の逝去にただただ呆然としました。未だに現実の出来事として受け入れることができずにいます。
 順の心肺停止の報道がTVに流れてから、「塾OBの川上君ではないのか」という確認の電話、mailが20〜30件、HPへのアクセスも多くありました。彼が多くの塾仲間に好かれていたことがわかります。
 ふと何かのきっかけで頭の中に順のことが浮かぶと、想い出が走馬灯のように駆け巡ってきます。「どうしてこんなことになったんだ」「何があったんだ」と、もう答えてはくれない順に問いかけています。
 それなりに危険な仕事をしていることは私なりに理解していましたが、頑健な彼の肉体は死とは遠いところにいると考えていました。それだけに近年にはない強い衝撃を受けました。
 私の記憶では、彼との始めての出会いは、彼が小学6年生のときです。彼の母親は私の中学生のときの数学塾の先生で、自宅の前の通りで会い、順を紹介してくれました。
「次男の順です。中学生になったら、三宅君のところに入れますから、お願いしますね。」
 それから30余年。順とはある距離を保ちながら付き合ってきました。
 MPSには中学、高校の部の6年間在籍し、スタッフも1年間勤めてくれました。当時の印象は、仲間との諍いや怒った顔を見せたことがなく、彼の笑顔は周りを和ませ、豪快で平和主義者というイメージが強く残っています。
 地元の中学を卒業後、平塚江南高校、上智大学経済学部に進み、高校、大学時代は山岳部に所属しました。高校の後半から大学生にかけて、彼の肉体が鍛えられていくのが、会うたびにわかりました。
 MPSの行事では、彼が中2のキャンプのとき、往きの荷物に孟宗竹の太い3〜4mはあろう太い青竹を持ってきたことがあります。キャンプの班対抗戦の何かに使うのだろうとは考えてはいましたが、なんとそれは食事対抗戦のソーメン流し用で、奇抜なアイデアに高得点をあげた記憶があります。
 スタッフのときは、悪名高きM大生4人の中にひとり彼がいて、慰安旅行で伊豆に行ったことがありました。一番の思い出はハーフマラソン(21.1Km)大会のことです。私の命令で「スタッフも誰か代表で走れよ!」ということになり、順が出場することになりました。
 当時の彼は身長180Cm、体重は90Kg近くありました。いくら登山で鍛えた肉体とはいっても、決して長距離を走る体型ではなく、調子のいいM大生の先輩にうまく丸め込まれたのだろうと心配しました。しかし結果は、1時間45分で見事完走、男子41人中3位でゴールしました。そのとき、彼の強靭な身体を再認識しました。
 91年に日本テレビに入社し、報道局に配属後、映像取材部で報道カメラマンとして活躍、ニューヨーク支局特派員を経て2007年12月から映像取材部カメラデスクになりました。日テレ山岳取材班のリーダーとしてアラスカ、チベット、北極圏、南極などを取材しています。極地山岳以外にも、スマトラ沖大地震、イラン・イラク戦争など世界中の事件、事故、天災の取材に駆け回っていました。宇和島水産高校練習船「えひめ丸」が、オアフ島付近で潜水艦と衝突して沈没した事故では、現場からの記者としてリポートをしたこともあります。
 順が社会人になってからは、塾の教師と生徒という関係から、男同士の個人的な付き合いになっていきました。日テレ見学に誘われたり、箱根駅伝の中央大学のグッズ、ゴルフトーナメントのチケットをいただいたこともあります。自分の撮った取材映像が放映されるときには、mailで教えてくれました。
 OB会にもよく出席してくれて、興味深い話をたくさんしてくれました。出席者も彼の取材などの話を楽しそうに聞いていました。決して出しゃばるタイプではないのですが、OB会では中心的存在でした。存在感があり、「川上は今日来ないのか?」と言われるほどでした。あるOB会では席が偶然近くであった順、K君、N君、そして私の4人で、メディア論、幸福論などを語ったとき、みんな私以上の大人になったことを実感し、嬉しかったことを覚えています。
 5年くらい前、二人だけでチェーン店の居酒屋で1〜2時間話したことがあります。いろいろな話をしました。今になって思うと、あの時は順が一番自分の心の中を話してくれた時間ではなかったかと思います。
 今から1年半前、川上家と三宅家の菩提寺で偶然、車椅子の母親を連れた順に合いました。先生が認知症を患っていることは知っていました。病状も進み、順に「先生、俺のことわかるかな?」と訊きました。
「どうかわかりませんよ。訊いてみましょうか?」
「訊いてみて」
「お袋、この人誰だかわかる?」
と先生に聞いてくれました。
「わかるわよ。三宅君でしょ」
「覚えていてくれて、ありがとうございます。俺、悪い生徒だったから、まだ忘れずにいてくれたんだ」
「覚えているわよ」
三人は笑いました。
 先生に連れられた順に始めて出会ってから30年。皮肉なことに、車椅子で先生を連れた順に会ったのが、彼との最後になってしまいました。

合掌

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