胸に刺さった小さな棘  - 3 -





恐る恐る寝室の扉を開けると、ソフィーはひとまず安堵の息を漏らした。
「よかった。ねばねばは出さなかったようね。」
・・・本当は扉の前に座り込んでいるんじゃないかって、心配だったのよ。
ひんやりと薄暗い廊下に立つと、ソフィーはまた胸が痛んだ。
「・・・っ・・・・これ、なんなのかしら・・・?」
ちくりと胸に走る痛みは、ソフィーを何故か哀しい気持ちにさせ言いようのない寂しさをもたらす。
ソフィーは一瞬遠い昔に感じた痛みに似ていると思ったが、すぐにはそれがいつ感じたのか思い当たらず頭を振った。
「今日は雨が降るのね。」
窓の外は暗く重い雲で覆われ、今にも雨の降り出しそうな天気を恨めしく見つめ溜め息が出た。
「・・・今日は洗濯はできないわね。」
昨日のうちに洗濯を終わらせて正解だったわね。
ひとりごちて、また窓の外を見つめた。
「・・・まるで今のあたしみたいな天気だわ。今にも泣き出してしまいそう・・・。」
呟いて、ソフィーは驚いたように口を押さえた。
どうしてそう思ったのか、自分でも不思議な気持ちだった。
何に泣きたいような気持ちなのだろう?
帽子を作ること?
ソフィーは首を傾げた。久しぶりで思うように作業が進まないことは少々イライラとしたが、帽子作りそのものは、嫌いではない。
ハウルと気まずくなったこと?
それも今にはじまったことじゃない。あまり自慢できることではないが、ハウルとの喧嘩など日常茶飯事で、ましてそれほど深刻な言い争いをしたわけじゃないのだ。
ソフィーはそれでも、再び胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
ああ、そうか。
胸の痛みは、あたしの罪悪感や後悔、悲しみに反応している?
ハウルと口喧嘩をしたくらいで、こんな風になった事はないのに。
ソフィーは廊下で立ち尽くし、途方もない暗闇に立たされてしまったかのような心もとなさに眩暈がした。
そこで足が固まってしまったかのように、動けなくなってしまった。
やらなければならないことは、山ほどあるというのに。
何一つ出来ないような気持ちになって、ソフィーは打ちのめされたような気がした。
自分がこんな状況に陥ることが信じられなかった。

あたしは、ソフィーなのに!
お手伝いが上手で、自慢の娘なんだから。
父さんの自慢の娘なんだから・・・。



暖炉脇のソファーで不貞寝を決め込んでいたハウルは、自分以外の誰かが暗闇の精霊を呼び出していることにぎょっとして飛び起きた。
「ハウル!ソフィーが!」
カルシファーが暖炉から灰を撒き散らして飛び出し、ハウルの寝癖でぼさぼさな頭の上で金切り声を上げた。
「わかってる!」
ハウルは毛布を跳ね上げると、長い足をこれでもかと大きく広げて階段を3段越しに駆け上った。
「喧嘩は一時休戦だ。そんなことをしている場合じゃなさそうだ」
自分を必要とされなくても、ぼくにとってソフィーはかけがえがない存在なのだから。
「でも、この借りはきっちり返してもらうからね、ソフィー・・・!」
廊下では、同じように異変に気づいたマイケルがハウルたちの寝室前を凝視していた。
「ハウルさん!」
ぐいっと肩を押され、マイケルは泣きそうな顔でハウルを見上げた。
ハウルは大きく息を吸い込み、マイケルの向こう側にいるソフィーの名を呼んだ。
「ソフィー!ソフィー・ジェンキス!」
廊下で立ち尽くし顔面蒼白のソフィーは、それでもハウルに名前を呼ばれると弾かれたように硬直が一瞬崩れた。
「・・・ハウル?」
ハウルは、弱々しくそれでも驚いたように目を見開くソフィーに眉を顰めた。
駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られながら、ぐっとこぶしを握り締め、息を吐いてゆっくりとソフィーに歩み寄った。
「ソフィー、あんた寝なかったのかい?・・・酷い顔色だ。」
「大丈夫、たいしたことないのよ。ちょっと遅くなったけど花を摘みに行かなくちゃ。」
腕まくりをして苦笑するソフィーに手を差し伸べて、ハウルはソフィーの両手を掴むとそっと口付けた。
「今日はぼくが花を摘んでくるよ。外は雨が降り出したみたいだし。」
窓に雨粒がぶつかり、空はとうとう泣き出したのね、とソフィーはぼんやりと思う。
「でも。」
「今日は王宮の仕事は休みだからね。気にしないで。・・・働き者の手だね。こんなに小さいのに。」
にっこりと笑うその碧眼が哀しそうに揺れていたが、ソフィーは自らの気持ちを見透かされやしないかとハウルの瞳から逃げるように俯いた。ハウルの大きくてしなやかな指先がソフィーの両手をすっぽりと包み込んでいた。
ハウルのその大きな手の温もりが心の中を満たしていくのに、ソフィーは嬉しいようなむずがゆい気持ちで見つめていた。
廊下の隅で蠢いていた闇の精霊たちは、少しづつ壁の中に吸い込まれていった。
「カルシファー、サリマンに伝言を送ってくれたかい?」
そんな二人の頭上を漂う火の悪魔に、ハウルは事も無げに声をかける。カルシファーは一瞬不満気にオレンジ色の目を大きくしたが、ハウルの切羽詰ったような表情に、仕方ないなと身を捩って「送ったぜ、今さっき!」と受けあった。ハウルは「さすがぼくの相棒だ」とそっけなく言い、次いで弟子に声をかけた。
「マイケル、おまえはソフィーの手伝いをしておやり。花屋はぼくとおまえとでやろう。」
「わかりました。」
力強く頷いて、マイケルはカルシファーに目配せすると階段を降りていった。
カルシファーも「仕方ないな」とブツブツ言いながらも後を追った。
そこでようやく、ソフィーは顔をあげまっすぐにハウルを見つめた。
「大丈夫だって言ったでしょう!?」
ソフィーが真っ赤になって抗議の声をあげるのを、ハウルは気にも留めずまるで子どもをなだめるようにそっと抱きしめた。
「あんたは・・・自分のやりたいことをやればいい。あんたはぼくたちの奴隷じゃないんだから。」
「どういう意味?」
すっぽりと埋まってしまう腕の中から、なんとか抜け出ようともがくソフィーの背中をポンポンと軽く叩き、ハウルは苦しげな笑顔であかがね色の髪に顔を埋め小さな声で呟いた。
「あんたは、あんたの気持ちに嘘をつかずに生きていいんだよ。」
そう、せめて・・・ぼくにだけは甘えて欲しいね・・・
「何を言ってるの!?」
ソフィーの声はくぐもっていて、とても弱々しく聞こえた。
解決策は見えてこなかった。

例え帽子を仕上げたところで、ソフィーが掛けた呪いが解けるものではないだろう。
根本的な解決策を・・・ソフィー自身が・・・変わりたいと願わなければ、ソフィーの胸の奥にある小さな棘は抜けないだろう。 それは、先程ソフィーの身体を動けなくしたように、小さな棘の痛みが身体に広がってしまう。
そうなったら、ソフィーは本当に奴隷になってしまう。心の奴隷だ。
でも今は。

「でもね、朝食は一緒にとろう?あんたが居ない食卓は、どうも食事をする気になれないんだ。」
真っ赤になって疑問符を浮かべるソフィーの額に、ハウルは願いをこめてキスを落とした。

ソフィーはぼくの大事な奥さんなんだ・・・。


冷たく降る雨の中で、ハウルは濡れることを厭わず花を選んだ。
気づけばソフィーに似合う明るい華やかな色の花ばかりが桶に入れられていた。

ソフィーはいつだって、何事にも手を抜かないんだ。
だからって、いつまでも昔の呪いに縛られている必要はない。
幼い頃に、悲しみに蓋をした・・・こんな寂しい呪いに・・・いつまでも捕らわれの身でいるなんて。

「ソフィーあんたらしくないよ。」

鮮やかなピンクのローダンセを抱えて、ハウルは城へ戻った。

あんたはいつだって、光りの中を行かなくちゃね。







4へ続く