熊本バンドとは・・・
熊本洋学校の学生40人によるキリスト教奉教の結盟。
1876(明治9)年1月30日(日)、熊本洋学校の金森通倫・徳富猪一郎(蘇峰)ら学生35人が、熊本市の花岡山で〈奉教趣意書〉に署名し,キリスト教布教を誓った。
金森通倫、徳富猪一郎のほか宮川経輝、蔵原惟郭、海老名喜三郎(弾正)、伊勢(横井)時雄、浮田和民らが署名した。後日盟約に加わった者たちを含めて熊本バンドと呼ぶ。
彼らは熊本洋学校でリロイ・ランシング・ジェーンズの薫陶を受け,熊本洋学校閉鎖後同志社に転校し新島嚢に感化された。1879(明治12)年に同志社は、最初の卒業生を15人出したが、全員が「熊本バンド」の学生だった。
その中から山崎為徳(ためのり)を始め3人が同志社の男子校の教員に、宮川経輝など2人が女学校の教員になった。彼らは新島嚢校長の他では、初めての日本人教員となった。それまでの同志社は新島嚢を含めて教員はすべて宣教師だった。
同志社に残らなかった「熊本バンド」のその他の卒業生、小崎弘道、横井時雄、海老名弾正、金森通倫らは、日本各地の伝道の開拓に従事し、東京に霊南坂教会や本郷教会、番町教会、岡山に岡山教会、愛媛に今治教会、福岡に福岡警固教会などを次々と創立した。彼らは、新島嚢とともに同志社系のキリスト教(教派としては「組合教会」、アメリカの「会衆派教会」の流れを汲む)のリーダーとして幅広い活躍をした。