第10章 エピローグ ー 白鳥の陵(みささぎ)

ヤマトタケルの死の報せを聞いて、大和にいらしたヤマトタケルのお妃(きさき)や子どもたちは、能煩野(のぼの=三重県鈴鹿郡)にやって来て、お墓をつくりました。お妃や子どもたちは、そのお墓のそばの田んぼを這い回って、嘆き悲しみながら、こう歌われました。

 なづき田の 稲(いな)がらに 稲がらに 蔓ひもとろふ ところつづら

お墓のそばの 稲の上で ところつづら(蔓草)のように這い回って、悲しんでいます。

 すると、どうでしょう。ヤマトタケルのお墓から一羽の大きな白鳥が、天高く翔上がって、浜の方へ飛んで行くではありませんか。お妃や子どもたちは、その白鳥を追って行かれました。小さな竹を刈った後の切り株の上を通ったので、足が傷つき痛くなりましたが、その痛さも忘れて、泣きながら、ひたすら白鳥を追って行かれました。その時に、次のように歌われました。

 浅小竹原(あさじのはら) 腰(こし)なづむ 空は行かず 足よ行くな

小さい竹の生えた中を進むのは、竹が腰にまとわりついて進みにくい。私たちは、空は飛べず、足でゆくしかないのです。

 また、白鳥を追って、海に入った時に、こう歌われた。

 海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ

海の中を進むのは、歩きにくい。まるで、大きな河に生えている水草のように、海では足を取られて、ゆらゆらします。

 また、白鳥が磯伝いに飛び立たれた時に、こう歌われた。

 浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ

浜千鳥のように、あなたは陸の上を飛ばないで 磯づたいに飛んで行かれるのですね。

 以上の4つの歌は、ヤマトタケルのお葬式で歌われた歌です。だから今でも天皇のお葬式で歌われているのです。

 さて、その白鳥ですが、能煩野を飛び立ってから、河内(かわち)の国の志幾(しき=大阪府柏原市付近)にとどまりました。そこで、その地にもお墓を造って、ヤマトタケルの霊(れい)を鎮(しず)められました。このお墓を「白鳥(しらとり)の御陵(ごりょう)」といいます。

 しかし、ヤマトタケルの命(みこと)の化身(けしん)であります、この大白鳥は、その地からさらに天に翔上がり、どこかの地へと飛んで行かれてしまったのでした。

                              (ヤマトタケル おわり)

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