第9章 望郷(ぼうきょう)の歌 ー 英雄の最期

それから、尾津岬(おつのさき=三重県桑名郡多度町)の一本松のところへ行かれ、食事をされていたところ、先ほど忘れてしまったと思っていた刀がまだあったことに気づいて、次のように歌われました。

 尾張(おわり)に ただに向へる 尾津の崎なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば 太刀(たち)はけましを きぬ着せましを 一つ松 あせを

ミヤズヒメのいる尾張の国に向いてる尾津岬の一本松よ。なあ、一本松よ。お前が人間だったら、この刀をつけてやれるのに。この着物を着せてやれるのに、なあ、一本松よ。

 さらに、その地から三重村(みえのむら=三重県四日市市采女?)に着いたときに、こうおっしゃいました。
「私の足は、三重にがくがくと曲がってしまった。たいへん疲れた。」
 そこで、この地を三重というのです。
 そこを出発して、能煩野(のぼの=三重県鈴鹿郡)に来られたときに、故郷(ふるさと)を懐かしんで、こう歌われました。

 大和(ヤマト)は 国のまほろば たたなづく 青垣(あおがき) 山隠(やまごも)れる ヤマトしうるはし

大和は、日本の中でもっともすばらしいところだ。長く続く垣根のような青い山々に囲まれた大和は、本当に美しい。

 命の またけむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

命の無事な者は、幾重(いくえ)にも連なる平群山(=奈良県生駒郡平群村)の大きな樫の木の葉を かんざし(=当時は魔除けとして使われた。)として挿すがよい。

 以上の歌は、「思国歌(くにしのびうた=望郷の歌)」と呼ばれています。また、次のようにも歌われました。

 はしけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居立ちくも

ああ、懐かしい。私の家の方から雲が立ち上り、こちらへやってきているではないか。

 これは、片歌です。

 この時、ヤマトタケルの病気が急に重くなりました。死の直前に、次のように歌われました。

 嬢子(おとめ)の 床のべに わが置きし 剣(つるぎ)の太刀(たち) その太刀はや

私がミヤズヒメの寝床(ねどこ)に置いてきた、草薙の剣。ああ、あの太刀はどうしただろうか。

 そう歌われると、すぐにお亡くなりになったのです。人々は、ヤマトタケルの死を天皇にお知らせするために、早馬(はやうま)の使いを遣わしました。

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