コラム「諸事考察」


見ること・見えること。


あのうだるような毎日はいつのことだったのか、気が付けば毛布がなければ眠れないこの頃だ。ツンと尖った冷えた空気は鼻の奥や喉をいじめる。いつもの風邪の引き始めのようだ。
布団に入ってまぶたの重くなるまでの一時、気に入った本などに目を通すのが自分の一日の締めくくり。一日の疲れか、本来のものか、思考力は鈍行になっているので、文字通り本を読むというより文字を見ているだけのことが多い。
ふと、枕元にある粉末の喉の薬を手にとって、なぜかしばらく見入った。いつも見慣れた丸い小さなアルミの容器。「龍角散」の文字がプレスで浮き出してある。その文字をよく見ると隷書体である。基本を押さえたバランスの良い、なかなかのものだ。 
なぜこんな古典的な書体を選んだのだろうか。漢方調合に合わせのか、いやいや、きっと書道の古典に造詣ある担当者がいるのかもしれない、社長か。
その美しい文字に何か縁どりがしてある。よく見ると掛け軸になっているではないか、しかも飾りの風帯まで表現してあって、「龍角散」の文字がひとつの作品として作られいる。この日本の奥ゆかしきデザインに感服。

2012年11月4日 掬水 記



『将棋の駒』

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駒祭り雑感

9回目となる「天童将棋駒祭り」は昨年11月18日から20日までの三日間、東京有楽町駅前にある交通会館グリーンルームにおいて開催をした。
伝統工芸士会を含め9つのブースで展示が行われ多くの来場者で賑わった。女流棋士の指導対局に臨む子供たちの姿も多く、見守る祖父母の様子が微笑ましい。
ぶらりと立ち寄った人もいたが大半は駒を観に訪れた人達のようであった。
子供の為に適当な駒を求める親御さん、予算の中でよりよい駒をと品定めの人、オークションで手に入れた古い駒を見せてくれる人もいた。また駒作りの愛好者も少なからず見受けられる。
そのような中に定年を過ぎたと思える男性が「駒の木地を切りたいのだがどうしたらよいか」と質問してきた。
今まで駒作りをしたいという人には何人かに会ったが木地を作りたいという人に直接会ったのは初めてで将棋駒作りを生業とする者にとして天童以外での駒作りがここまで広がっていることを肌で感じることでもあった。

駒作りの世界で、もっと端的に言えば駒師の世界において、プロとアマの定義付けをする気は毛頭ないがその区別をする線引きはあるのか、或は出来るのかと素朴に疑問を持つ。
他の分野ではどうなのか、ごくおおづかみに捉えて言うならば、スポーツの分野ではプロとアマの区別ははっきりしている。それは制度としてプロとアマの間に線引きがなされているからであろう。
プロ棋士を含め、日本の伝統的な芸能の分野にもやはりプロとアマの区別がある。多くはやはり長い間に確立されてきた制度としてある。例えば弟子入り入門をしてその道の扉を開くといったことなどがあろう。
工芸などのモノ作りの分野ではではどうだろうか、少なくなったとはいえ弟子入りをして技を習得する期間を経てデビューをするといった手順はまだまだ多い。現在は弟子に入る替りに各種学校に入って技を習得することもよく見受けられる。
またこの分野では様々の公募展がありそこで評価を受けていくという手順が確立している。
私達将棋駒の工人はどうだっただろうか。天童の工人の多くは駒屋と言われる将棋駒製造卸問屋のお抱え職人として仕事をしてきた。私が最初、書き駒の弟子に入った頃からは少しずつ様変わりをしていき各駒屋も腕の良い職人に仕事を依頼するようになっていった。かといって独自に東京などの専門店に打って出る人は極稀であった。私のところに天童以外から直接依頼があったのは時代と共に変化をする流通の短絡化に伴うことも要因としてあったと思うが、下請けの仕事ぶりが評価を受けたと思っている。
それでも専門店の力で売りだしてもらった事実がある。その上でお客様にわたってから実際使われての感想や批評をエネルギーにしてより良いものをと努力する、その繰り返しによって現在の自分の仕事があると思っている。
私がたどってきたことから言えば、この弟子について駒屋での下積み、専門店からの仕事が「制度」或は「手順」の部分に当たるかもしれない。
NHKの「プロフェッショナル」という番組出てきた人たちが言う「プロ」とは、どのような困難にも挑戦しているという信念や仕事に取り組む姿勢の部分を語る人がほとんどだったように記憶している。
何れにしても、自分が産み出したモノに対する評価や責任はすべて自分が受けるという意味においてはプロとアマの区別はないと思っている。

2012年3月18日 掬水 記



幻の「錦旗の駒」―淇洲の駒

『十三世将棋名人関根金次郎は、「錦旗」と称する駒を愛用した。これは明治37年10月、関根八段(当時)が酒田の竹内家を訪れ、淇洲、竹内丑松先生から贈られた駒である。』という書き出しで始まる豆本「錦旗の駒」。
著者は茶道家、文筆家、昔話の語り部であり将棋七段で竹内淇洲の弟子である故佐藤公太郎氏である。

銘駒・淇洲書の元字を書いた竹内淇洲とはどのような人物か「庄内人名事典」の紹介文。
「竹内丑松(たけのうちうしまつ)恒孝・淇洲・子哉・有斐軒・虚心庵 明治10.6.26〜昭和22.3.24 素封家。竹内伊蔵の長男として酒田米屋町で誕生する。若いころから書および漢詩を修め、祖父伊右衛門以来の天分を発揮して将棋に秀でた。
名人関根金次郎と親交を深め、大正7年井上義雄8段を破って8段に進む。
政治・文学・囲碁・剣道および投網までおよび、明治37年から酒田町会議員20年余、雑誌「木鐸」の発行に関係して論陣を張り、囲碁を通じて頭山満、国分青香A古島一雄らと交わるなど、囲碁県下第一番の腕と評された。
たびたび有名棋士を自宅に招いたほか夏季には屋敷内に道場を設け、名剣士高野佐三郎、菅原融らを招聘して剣道の振興につとめた。著書・将棋漫話」

淇洲書の駒がなぜ「錦旗」の駒になったのか、以前にコラムで少し書いたのだがまず当初の佐藤公太郎氏の豆本の続き。
「云い伝えによると、竹内家には昔から秘蔵してきた家宝の駒がある。
将来名人になると云う遺言を守ってその人に巡り会わぬまま、歴代の当主がこれを子孫に伝えた。たまたま淇洲の代に至って、関根金次郎を迎え、対局した結果から、この人こそ長い間待ち望んだ名人の器と信じて、その家宝の駒を贈与した。
関根八段はこの駒を貰って、その後全国を遊歴したが、対局の度にその駒を用い、殆ど負けることを知らなかった。「向かうところ敵なし」から誰云うことなく「錦のみ旗」と銘じ「錦旗」の駒と称するようになった。」

同じシーンが淇洲自身の著書「将棋漫話」の中にある。
「筆者が7~8歳のころ、祖父が樵夫と出会い背負ったいた薪木が鳥海黄楊だと知るとこれで駒を作るのだと言って頻りに研究した。地元の能書家に駒字を書かせたが将棋を知らないため形になっていないといって、お鉢が自分に回ってきた。苦心して出来上がったのが今日関根名人が錦旗とか命名して日本随一の駒として高段棋士連が垂涎しているそれである。
何の特徴で価値があるかというに、…鳥海山の黄楊は非常に堅く年数を経るにしたがっていうに言われぬ光沢を増すのである。」(趣意)

淇洲が駒字を書いた所謂、肉筆の駒(一組ずつ字母子を書く)はこの関根名人に贈った駒、竹内家に受け継がれた駒(本間美術館蔵)、佐藤公太郎氏所蔵の駒、祖父伊右衛門の棺に納めたか?、未完成の駒、の5組が作られたとされる。
その後版木にして数組作られている。また伊藤家で作った淇洲駒や酒田の愛好者が作った駒などいくつかバリエーションがある。
最初の肉筆の駒には当然のごとくに書体名や作者名は入っていないが、駒にしたのは指物師・鉄砲屋亀斎こと鈴木浅吉であるといわれる。

関根名人に贈らた駒はその後、甥の渡辺東一八段、安宅英一氏に、そして木村14世名人渡ったとされている。
佐藤氏は生前、関根名人に贈られたのは今の水無瀬形の錦旗ということもあるのでは、と疑問を漏らしているた。そして自分のところにある駒と関根錦旗は姉妹駒になるので、是非一度二つの駒を並べて言い伝えの真相を確かめたいと願っていたが、ついに果しえなかった。

2010年9月26日 掬水 記



「将棋資料館の特別展に思う」


天童市将棋資料館において地元天童で行われたタイトル戦に使用された将棋駒と工人の企画展が開かれている。 天童の駒が公式タイトル戦に登場するまでは永く苦い過程がある。

天童の駒作りの歴史は、江戸末期において困窮を続ける藩財政のなか藩士の生計を補うために導入されたものだが、明治以降地域経済を担う産業として発展をした。その事はまた分業による大量生産の道を歩むことでもあった。
太平洋戦争のとき、戦地に赴く兵員の慰問袋に入れる駒、慰問駒として大量のスタンプ駒が生産されたこで、戦後の行軍将棋といった将棋様のゲームを含む安価な大衆駒の産量において日本一の座を不動のものとした。
日本人の楽しむ圧倒的なものとして将棋があった時代、支えたのは天童であったといえる。

昭和26年、天童において木村義雄対丸田祐三の王将決定戦第6局が行われた。対局場となったのは天童藩の将棋駒産業にも力を尽くした家老吉田大八が幕末の動乱のとき切腹したところとして知られる佛向寺である。
天童製の駒が初めて公式対局に供された場面であるのだが駒袋から盤の上にあけられた駒は一度もさされることも無くすぐに払われたのだと目撃した人の話として天童では語り継がれている。

その後佐藤天一、森山武山等の駒工人が盛上げ駒の制作に挑戦しているが、この佛向寺での出来事はこれらの駒工人には屈辱的なこととして職人魂に火をつけたに違いない。
これら先達の挑戦は実ることはなかったが、その心意気は天童の駒作りの見えないところに静かな流れとして繋がることになる。

昭和51年王将戦、53年王将戦、54年名人戦と駒の町天童でも遅ればせながら大きなタイトル戦が開かれるようになっていた。

53年に天童を訪れた大山康晴が栄春堂で伊藤久徳の駒を見てタイトル戦でも充分使えると観想を語った。
54年の名人戦、将棋駒協同組合の理事長になっていた久徳は、前夜祭に出席した折一組の駒を持参し中原名人に挑戦する米長邦雄に見てもらっている。
「素晴らしい駒だ今回どうして使わないのか」と語った。この時用意されていたのは影水作、米長はその駒に「私には細字でちょっと…」ともらしている。

昭和55年再びそのときは来た。第29期王将戦第5局。昭和26年のあの苦い語り草いらい天童製の駒が初めてタイトル戦に登場する場面である。
加藤一二三王将に返り咲きを狙う大山康晴が挑む対戦は、加藤の一勝三敗、後がない。
迎えての第5局。天童での対局場は、後に数多くの名勝負が繰り広げられる東松館である。
事前に、将棋連盟の丸田副会長より久徳に対局に使う駒の準備をするよう連絡が入る。このとき大山には了解をとっているが加藤には連絡がとれていない。
2月27日の前夜祭のとき、天童の駒が準備されていることを告げられた加藤は「使い慣れた駒でさしたい、見てしまってからではけなしたことになるので見ないでいたい」と駒の吟味をしていない。
翌日28日、対局室に入った加藤は久徳作の駒を見て「あれっ」とつぶやき異議を申し立てる。
加藤にとっては前日の発言と一貫性があるのだが多くのスタッフが携わる棋戦である、どこかでズレがあったのか。
立会人の加藤治郎名誉九段が妥協案を出し一日目は久徳作の水無瀬書の駒、二日目は連盟が用意した影水作の駒を使うことになった。
毎日新聞はこの出来事を記事のなかで「一波乱」と書き、毎日グラフの特集記事の中でも「天童の対局では地元の駒と盤を使うかどうかで、二人は対立した。気苦労の多いシリーズだった。」と残っている。また加藤の言として漆に関しても後日談が伝わってきたのだった。

プロ棋士にとって、将棋駒とは命がけの対局をする道具であり、五感に馴染んだ感覚は新しいものへの想像以上の抵抗と、天童駒がそれらを乗り越えようとする情熱との一種の軋轢から来る必然であって、大衆駒の産地から脱皮しょうとする天童においは避けて通れないことだったのかも知れない。

ともあれ苦い思いを味わったのは久徳本人のみならず、当時盛り上げ駒を作り始めて日の浅い私や村川も複雑な思いをして聞いて一層発奮した出来事でもあったことは間違いない。

今回の天童市将棋資料館の特別展はこの久徳作を始め掬水作、淘水作、秀峰作、天竜作の対局駒が展示されている。平成22年2月23日まで。

(文中、敬称は略させていただきました。  「サンデー情報」第36号の記事「駒をめぐって」を一部参考に致しました。)

2009年12月31日 掬水 記



「第7回天童将棋駒祭り」


山形県将棋駒協同組合主催の需要拡大事業として隔年開催をしている駒祭りがきたる11月20日〜22日の三日間東京交通会館3Fグリーンルームで行われます。
天童将棋駒は経産大臣指定の伝統的工芸品になっていて産業振興事業の一環として行われるため、一部を除いて価格の表示はありませんが展示品はすべて販売されます。
組合員のうち8事業所が参加をして、伝統工芸士会としても1ブース出品をするため各自準備を急いでいます。
今回は工芸士会は羽前書をテーマに数組展示の予定。掬水作は羽前書盛り上げと一字書体の彫り埋め駒を予定しています。
また展示ブースの当番として前半村川秀峰氏、後半自分が担当いたしますのでお近くの方でお時間の都合の付く方はご高覧ご批評頂ければ幸いです。
お問い合わせ・山形県将棋駒協同組合事務局 023−654-3511

2009年11月 掬水 記



「ツゲの魅力」


40年近く前に将棋駒職人の道に入って最初に手がけた駒木地はホオだったように思う。
書き駒の木地としてあてがわれたのであった。

ホオ材を使う駒は、大駒は漆筆で駒字を書いて以下はスタンプで押されたものが大半だったが表裏全部書くものもあった。
他にはアオカやハビロ、イタヤといった駒木地も手がけた。

仕事上はじめてツゲと向き合ったのは盛り上げをするようになってからで、鹿児島産の薩摩ツゲであった。
薩摩ツゲは島ツゲに比較して評価は低く見られがちだが、材質は粘りがあり使い込むと良いつやが出てくる。
名木地師の五十嵐氏や山川氏の手にかかれば木地揃えも良く美しいものであった。

ツゲ…ホンツゲ、アサマツゲとも呼称される。
革質で小判形の葉は対生する。若枝は著しく四角形になる。果実は楕円形で頂に角のような花柱がある。 産する場所により国内の島ツゲや薩摩ツゲまたは中国の雲南ツゲなどブランド名になっている。材質は極めて堅く粘りが強く緻密な工作がしやすいため将棋の駒のほか印材、櫛、そろばん玉、三味線のばち、その他細工物に用途がある。日本産では最も高価な木材の一つである。
庭木や生垣によく使われるツゲはイヌツゲと呼ばれるもので別科であり材質も異なる。簡単な見分け方は葉の付き方がホンツゲの対生に対し互い違いに付く。

ちなみに木材を断面にして導管の配列から分類すると散孔材と環孔材ある。環孔材は導管が年輪の境目に並ぶものでケヤキ、クリ、ミズナラなど。ホンツゲは導管が一様に分布している散孔材でありこのことも緻密な細工に向いている要素である。
比較的安価な駒に使われてきたイタヤカエデやホオもこの散孔材である。

ツゲの自生地の北限はここ山形県といわれている。 山形と秋田の県境に名山・出羽富士と呼ばれる鳥海山がある。 このツゲ自生北限の地、鳥海山麓から産した鳥海ツゲが、竹内淇洲の筆による駒を贈り後に十三世名人となる関根金次郎の出世の駒といわれた所謂「錦旗の駒」の駒木地となるのである。

竹内淇洲著「将棋漫話」から引用する。
―竹裡の将棋駒の製作― 附日本一の称ある酒田駒
「…祖父は家族一統を連れて、花見に出かけた。其途中で、薪木様のものを一抱へ背負ふた樵夫と遭った。…あれは鳥海山麓産の黄楊だ。これで将棋の駒を作ってみるのだと言って、それから頻りに研究して、失敗に失敗を重ね四五年の後に立派な駒が出来上ったが、…(中略)御鉢が筆者に廻って来たので、苦心に苦心して出来上ったのが、今日関根名人が錦旗とか命名して、日本随一の駒として、折り紙を付けて爾来高段棋士連が垂涎して居るそれである。何の特長で然く折紙を付くるの価値あるかと言ふに、支那黄楊や、関西産の黄楊は、木其ものの質が良く随って発育がよいので柔軟であり、年数を経るに随って、黒くなるのに反して、鳥海山の黄楊は、雪に壓されて、発育が悪い為に、非常に堅く、年所を経るに随って、言ふに言はれぬ光沢を増すのである。…」

私は淇洲駒の調査研究のさなか数組の関根錦旗との姉妹駒を見ることができたし、実際、保存されていた鳥海ツゲを依頼で盛り上げ駒に仕上げたこともある。
それらはいづれも「雪に壓されて、発育が悪い為に」とある通り、駒木地一枚がやっと木取れる程度の太さであって大駒はほとんど芯が入る。
木味は独特の黄味をおび年輪の赤味と雅味のあるコントラスト、模様を描いている。島ツゲとは一見して異なる。

現在私が手がける駒木地はほとんどが御蔵ツゲである。 御蔵島産といっても1本1本全部個性がある。他の産地のツゲと比較して一番の特徴は模様の変化の多様さとコントラストの深さであろうか。
使い込まれて脂分がしみこんで虎杢になっている部分がまるで鉱石のように黄色く透けたものは木の宝石かと美しい…。そんな駒も見たことがある。

駒にツゲが使われてからの歴史は古い。
木工芸では作品にするとき、白木仕上げは稀で拭漆が常識だが、将棋駒に関しては最近の作を除いては、逆に拭漆仕上げはほとんど見られない。これは先の例もあるようにツゲの持つ美しさを、または使ったり手入れをすることで思いもかけない育ち方、変化を遂げることを楽しむ文化が人々の中にあったのではないかと思う。
将棋駒の魅力とはツゲの魅力でもあるといえるか。

2009年4月 掬水 記



「将棋文化の楽しみ」


平成20年10月、庄内・酒田の棋界は相次いで重鎮を失った。
一人は佐藤公太郎氏。将棋六段だが文筆に優れ酒田の情報誌「スプーン」に、長いことエッセイを書いて単行本化されている。「みちのく豆本」の会を主宰し自らも竹内淇洲の駒にまつわるエピソードを「錦旗の駒」として上梓している。
酒田市立図書館長や本間美術館館長(代行)など要職に就きながら風流な庄内弁で昔話を語って聞かせる一面もあった。
又、玉川遠州流の茶人としても知られ門弟も多い。高山樗牛賞、斎藤茂吉文化賞、阿部次郎文化賞を受賞している。とにかく大きな文化人であった。享年101歳。

もう一人は土岐田勝弘八段。全国アマ王座優勝をはじめ数々の戦歴を持つ。しかし単に勝負に没頭するだけではなく土岐田将棋道場を開設し後継の育成に情熱を傾けた。その道場には師の竹内淇洲の在りし日の勇姿を掲げ、床の間には常に淇洲が筆を揮った条幅が掛けてあった。
道場で使用する棋具はすべて足付き本榧盤・本黄楊の駒が用意されていた。自宅に「竹内淇洲記念館」を開設し資料の収集展示を行っている。
庄内地方でのプロ棋戦開催も実現させているし日本将棋連盟の棋道師範にも任じられている。享年85歳。

お二人とも竹内淇洲八段の弟子である。私はお二人には淇洲駒の調査の為に何度も訪ねて様々なことを教えて頂いた。ものごとに一家言をお持ちで厳しさがあるが、年の差の大きい私にも丁寧に接して下さる暖かいお人柄であった。
師匠を誇りに想い宣揚する姿勢は敬服の至りだ。

お二人に共通して感じるのは、将棋の棋力がアマトップレベルのみならず将棋にかかわる人々を大切にし、将棋にまつわる文化を愛しみ、将棋に生きる人生を楽しんでいたということである。さぞ豊かな人生であったろうと想う。
私にとって、将棋をさす道具の作り手としてお付き合いさせていただいたことが無形の財産であり、喜びとなっている。
自分も将棋駒を通し、持つ喜び、黄楊が育つ楽しみや様々に出会う楽しさを少しでも伝えることが出来たらと思う。

2008年12月 掬水 記



「プラスティックの駒箱…下職時代」


※村川氏と共同制作をはじめた昭和50年頃の彫埋駒。

私がこの将棋駒作りの世界に入る前一人の駒職人を訪ねたことがある。森山慶三氏 号を金慶または武山と称した。
私が進む道に迷っていた若い時分に父のアドバイスで氏の処に話しを聴きに行った。
天童に将棋駒産業があることすら認識していなかったのだが、何でもいいから自分の手で物を生み出す仕事をしたいというただその気持だけで森山氏を訪ねたのだった。
氏は古い木造の家で思ったよりずっと狭い部屋でつつましく仕事をしていた。
私が観光客と思って応対していた様子の氏は、仕事に興味のある人間だと途中で分かったのだろうか一言「これからの若い人のする仕事ではない」と言った。それは半ば自身の後悔とも諦めともとれる不安を感じる響きがあった。
その後私はこの道に入ってから幾度とその言葉を思い返すことになる。

縁あって佐藤権七氏に通い弟子としてお世話になることとなって、最初に教わったのは書き駒であった。
このコラムでも書いたが、書き駒は天童伝統の技で漆筆の速さが特徴である。ホオやハビロ、イタヤといった安価な駒木地にひたすら駒文字を書いた。
一日何百枚と書いた駒を半月に一度、それらを一組に組んでプラスチックの駒箱に入れ梱包して親方の駒屋に持っていくのだった。

二年くらい経った頃、親方から盛り上げ駒を見せられて漆で文字を浮き立たせた今まで感じた事のない駒の美しさを知った。そして見よう見まねで盛り上げた仕事が私がこの奥深い仕事に踏み込んでいくきっかけであった。
本格的に盛り上げ駒を研究するのはその後に兄弟子の村川秀峰氏との出会いからである。
親方がなくなるまで私の仕事は下職としての盛り上げと書き駒であった。

私にとってこの下職の時代は生活は楽ではなかったものの大きなそして大切な期間であったと思っている。
一つは、今に続く盛り上げ駒の仕事に出会えたこと、そのことだけでも親方の佐藤氏、兄弟子の村川氏に感謝したい。
二つ目は無名の将棋駒製造の一端にかかわった自負である。大量に作られた安価な駒こそ大衆の将棋文化を担ってきたと思うからだ。
三つ目は駒職人や棋士や仕事を通して知り合えた多くの人たちの存在である。
未熟な自分が少しでも成長出来たとすれば、それは出会った人々とのかかわりからであると思っている。

2008年9月 掬水 記



「道具のこと」 3.書師―伊藤太郎氏の机


天童は将棋駒つくりを地場産業としている。その起源を江戸末期に織田藩が天童に移ってきたときからとされている。
天童駒として伝統的に作られてきたのは「安清」駒をルーツとする「草書」であった。
以来百数十年、師弟の代をかさねて書き継がれてきたこの駒は、伊藤氏をもって終焉を迎えるかもしれない。
将棋駒の主力製品が書き駒だったのは昭和30年代までで、その後は彫り駒にとって代わられている。

写真上の机が現役で使われているもの。材は杉、柔らかいこともあるのだが手の動きで削られて年輪の堅いところだけが血管のように浮き出ている。伊藤氏は初代の机も出して見せてくれた。写真下がそれだ。左手の当たるところが大きくくぼんで穴が開いている(絶句)。

80歳をこえた氏が初めて駒を書いたのは小学4年生のときだ。小遣い稼ぎに学校から帰ると駒屋に行くのが日課だった。今までどのくらい組数を書いてきたのだろうか、数万組か?、一桁違うと言う。
一日30組として、仮に年300日で60年とすると・・・。54万組以上!
伊藤氏は語る・・・「表面的なことで判断されがちだが表に出ないところが大切、どうしたら良い品物、納得できるものが出来るかではないかな。」

この机を見ていると、時代の様々な変化、経済状況の変動などにひたすら耐えて、仕事一筋に続けてきた重みや、ここから生み出されていった駒たちが多くの将棋ファンを支えてきた、といったことを思うと頭がさがる。
また地場産業ということは、こういう大先輩をはじめ、駒屋という製造卸問屋、販売店、また内職をする人など様々な人たちとのネットワークが築かれているということでもあるし、にんげん模様もあるだろう。そんなことも全部この机は物語っているようだ。

氏は天童将棋駒伝統工芸士会の初代会長を務め、国からの褒章や山形県の卓越技能者の表彰を受けている。こういう人にこそ相応しいと喜びたい。
2008年3月 掬水 記



「評価について」

今年は暖冬の予報だったが、積もっては解け、解けては積もりを繰り返す雪には閉口した。
累積すれば結構な深さになったようだ。3月に入った現在も田畑は白。

そういえば昨年秋、雪囲いのとき女房が玄関脇にある白もくれんの木にカマキリの巣を見つけた。
それは大人の背丈ほどの高さにあった。
昔からカマキリがどの位の高さに巣をつくるかでその冬の積雪の深さが分かるとされている。
一昨年は足元の草丈ほどのところにあったが、その冬は全くカマキリ君の予想通り車の冬タイヤがいらないほど小雪だったのを思い出す。
そのことからすると昨秋のカマキリ君は雪深しと予想したのだろうか。
同じ頃、農家の人は山にカメムシが少ないので雪は少ない、と言っていた。カマキリ君とは反対の予想だ。
さて今年は、カマキリとカメムシのどっちの予知能力に軍配を上げるか。

春分の頃、画像にある額を出して玄関に飾った。 書家・渡辺翠山先生の作品ではがき大の「節」の字だ。ニワトリの羽で作られた筆を使ったと聞いている。

翠山先生から「書」を見る上での注意点を教えて頂いたことがある。

「書作品の良し悪しと好き嫌いは違う。書を習っていくと他の人の作品を見て、上手い・下手と言いがちだがそれは往々にして自分の好き嫌いで言っている場合が多い。判断できるのは自分と同レベルまでである。そこを超えるものはレベルが上とは分かるが、その差が僅かなのかあるいは遥かに違うのかが分からない。そこは好き嫌いの分野。しかし嫌いなものでも良いものレベルの高いものがある。ここを混同してしまうと正しい判断が出来ない。」

他の作品に対するときは謙虚さと正視眼をもって見ろ、という事だが「書」に限らずあらゆることに通じることだろう。
忘れてしまいがちな自分への戒めに時々思い出している。

書家・故渡辺翠山・・・大日本書芸院審査員、東京タイムズ展特選、等。翠山書院をおこし弟子の育成にあたる。
2008年3月 掬水 記



「道具のこと」 2.手製の瀬戸ウズクリ

瀬戸ウズクリは私の盛り上げ工程において無くてはならない道具だ。
写真の左端は昔下駄屋さんで使われていたもの。中と右は私の手製である。
ウズクリは植物繊維などを束ねたいわば和製ブラシといったらよいだろうか。主に木工の分野で使用されてきた。

ウズクリを使って磨きをかけると、用材の柔らかい夏目の部分が削られ、堅い冬目が浮き出る。
コントラストが付いた美しい木目に仕上がるので、桐や杉などの用材には効果的だ。
瀬戸・・・磁器製のそれは厳密にはウズクリの作用とは異なるのだろうが、将棋駒を作るうえでは、これで瀬戸引き(背と磨き)することにより、黄楊の表面を押しつぶし、平滑艶出しをする。
そのことは盛り上げをしたとき、漆の線のキレを良くし、ニジミを止める効果が期待できる。

昨今、この工程を他の方法に置き換えて行われていることを聞くが、方法の違いによる優劣が短期間に出るわけではないので、私には批評できない。
ただ長い間試行錯誤のすえ残ってきたもの、フルイにかけられたものはそれだけの評価をされて良いと思う。

この磁器製の道具、以前はここ天童でも下駄屋さんで手に入ったのだが、今は全く目にすることが出来ない。
仕方なく私の陶芸家の友人に頼み込んで磁器用の粘土を分けてもらった。
自分で形を作り乾燥後、素焼きをしてもらう。釉薬をかけてもう一度焼いてもらう。
陶芸家は素人がつくったものを焼くのを嫌う。粘土の中に空気残っていると焼いている途中に破裂するからだ。もし彼の作品と一緒だったら・・・と考えただけで悲惨だ。

身近な職人道具が消えていくのは悲しいことだが、心強い友人のおかげで何とか対処できた。
2008年3月 掬水 記



天一作は語る

画像は、天一作草書盛上駒である。
現在の天一氏の父親にして師匠であった佐藤静氏の作と確認できた。
東京の、将棋駒に造詣の深い方から電話があり、「天一作の贋作ではないか・・・どうも機械彫に恐ろし く上手い盛上げをやっているようだ、だいたいにおいて揃いすぎている。」ということだった。
私は、今の天一氏は盛上駒は作らないので先代の作であると思うが実際に拝見すれば詳しく分かると 思う、と伝えた。

数日して、送られてきた実物を見た瞬間に私は、その独特な線の出し方で静氏の作と判断できた。 静氏のその妥協を許さないキレの良い彫りは天童では伝説的になっている。

その後天一氏にも確認してもらったところによると、今から40年位前の作だと思う、と当時の様子 を話してくれた。

氏が40代頃から熱心に盛上げを研究していて、まだ学生だった天一少年は、仕事部屋に入っては駄 目だとよく叱られたという。ホコリがたつという理由だった。私が子供たちに同じことを言ったのを 思い出しながら聞いていた。

盛上げに使われた漆は上花漆で艶がある。書駒に使われていたものを流用したものであろう。
盛上げの筆使いも実に神経が行き届いた線を見せている。

天一氏は話の途中に、静氏が当時手がけたという草書の研出し駒を出して見せてくれた。
未完成のその駒から当時彫埋めの仕上げに試行錯誤していた様子がよくわかる。またその彫りの線は 盛上駒のそれであった。
木地は薩摩黄楊の小振りでごく薄く、これも盛上駒と同じ手だ。

また静氏は、天童において広く作られていた「特上彫り」の字形を改良し、オリジナルな「特上丸彫 り」としてその印影を残している。盛上駒にしたのはこの特上丸彫りが多かったという。

氏は第一次オイルショック後のほかの産業と同様、将棋駒業界の大きな転機を経験することなく60 年の生涯を閉じている。

私に電話でこの駒の事を知らせてくれた方は、なぜ「贋作」と思ったのだろうか。
最初に述べたように「余りに精緻で揃いすぎる」=「機械彫り」と判断されたようだ。
そこに、現代の物作りの難しさと悲哀ともいうべき原状が含まれていると思う。

昔は精巧な仕事ぶりは人間の手によるものだった。機械はその精巧さにいかに近づくかだった。
コンピューター制御の機械がそれを一変させた。
今は、身の回りのあらゆるモノは機械製のキチンキチンとしたモノばかりである。
機械製では緩みのあるもの不確実なものは不良品と見られる。

一方手作りのイメージと言えば、輸入雑貨などに見られるザックリした感じで精緻なイメージとは対 照的だ。
実際、私も「焼き物」の絵柄を少し「不揃いだから」手描きかな等と見てしまう。

私たちはしらずしらずのうちに「物」に対するイメージを変化させて来ているように思う。
そして毎日の暮らしの中で、緻密な手仕事の物を「高価」「非日用品」「芸術品」などの理由からか 遠ざけてしまっている。

柳宗悦は、名もなく黙々と手作りで作られた日用品の中に「用の美」を発見した。
それは、多量に作られた物の内にある作り手の個性の発見でもあろう。

私は、将棋駒においても個性の違い、もっと言うならば個人個人の表現の違いが大切にされる事を望 みたい。その個性の表現をレベル化するものとして技術があると考えている。

天童の将棋駒の彫りは、大量生産のそれであり今まで余り高い評価を受けなかった。
天一作の駒に見られるように、その評価から抜け出したいと苦闘した駒師は何人もいたのだ。
今あらためて、それらの先輩の仕事ぶりから学んで再評価していく良い機会である。
この盛上駒はそのことをよく語っている。
2007年11月 掬水 記



将棋の駒における強さ

よく晴れ上がった六月の日曜日、おとなりの秋田県川連に佐藤氏を訪ねた。
川連は漆器の産地として永い歴史があり、国の伝統的工芸品の産地指定を受けている。佐藤氏は伝統工芸士会の前会長を務めた方。川連漆器は、輪島のような高級漆器の産地と比較すれば大衆向けであったといえるが、時代の高級品志向にあわせ、下地をそれまでの渋下地から錆下地にかえて、より堅牢化をはかった。また先進的な意匠を取り入れたり工夫を重ねてきた。それでも、現代の生活様式の中に漆製品は遠のくばかりとあって状況は厳しいと話された。その表情は意外に寂しさよりも自らの手でモノを生み出してきた誇りと多くの困難を乗り越えてきた強さがみえる。
町の一部の店にはビックリするくらい安価な漆椀が並んでいて、良く見ると中国製であった。
物作りの産地としては私たち将棋の駒も他人事で済まない似た状況にある。

さて、本題は「将棋駒の強さについて」である。
強さといっても、勝負にかかる駒の働きとしてではなく、道具としての強度もしくは耐久性のことを考えている。将棋駒に使われる黄楊の密度は0,9と高い。それはケヤキと同等で、材質は緻密で堅くしかも粘りがあり細工物に向く。
このような材で作った駒を、柔らかく受けとめてくれるのがカヤの将棋盤。カヤの木のほど良い弾力性が駒との絶妙な関係を生む。将棋駒において黄楊の強さが発揮できるのはひとえにこのカヤの木にある。
プロ棋士のタイトル戦などに使われる盛上駒。この場合の眼目はやはり漆の強さであろう。
漆はすでに縄文時代には塗料として使われていた。一度硬化すれば水や化学薬品に対しても優れた耐久性がある。盛上駒は将棋盤に何百回、何千回と打ち付けられて使われる。一手指すごとの僅かな磨耗でもついには彫埋めの状態になるものもある。
道具としてはこの位愛用されれば本望というものだろう。しかし、中にはあまり使われないのに盛上げ漆が剥がれ落ちたものや、彫埋めの下地漆からそっくり取れてしまうのもある。
漆工の分野では、例えば漆椀を作る場合、まず椀木地に生漆を摺り込んで木地固めする。その後布着せ、下地漆付け、研ぎ出しを繰り返しようやく上塗りに入る。表面から見えないところに多くの工程を重ねているのだ。
盛上駒の場合、ほとんどは、彫りの後ボンド等の目止めを施し下地漆で彫埋めをして作られている。
このボンドなどで目止めをする、という一工程がやっかいな課題にもなってしまうのだ。
いくら下地漆を吟味しても、木地との間にビニールの膜を作ってしまうようなもので、漆が木地に食い込まない為前述のよな彫埋め漆から取れてしまうといった不具合が出てしまう。目止めを工夫してごく薄くするとか、まったく施さない場合でも、下地漆の調合がうまくいかなければ同様な結果になるか、又は逆に漆が滲んで使い物にならなくなる。
次の盛上げの工程もまたやっかいだ。
彫埋めがうまくいったとしても、駒の場合、木地がむき出しであるため、導管が出ているところは漆をのせた時ニジミ易くなる。その対策の為か、盛上げ前にまた目止めをすることもある、と聞く。当然接着力はおちる。
私の場合、目止めはしないで作っているので、木地はなるべく導管の締った固めのものを選ぶこと、瀬戸引きで導管を締めること、漆の調合を工夫する等で対処しているが、理想とするところはまだまだ先にある。
駒においての強さとは、表面上目に見えないところで、漆の接着力をいかに発揮させるかにある。と言ってよい。もっとも、あまりに強く盤に打ちつけて飛車を割ったとか、悔しさのあまり駒に歯噛みの痕を付けた、といった豪傑に出くわしたら、なす術はもはや無い。
2007年6月 掬水 記



木地師の郷「笹野」

当地、今冬は全く異例なほど積雪が無い。一月も半ばの快晴となった日曜日に米沢にいく。
目的の一つは、今年の干支の「亥」の置物を買い求めること。置物といっても米沢郊外の笹野地区で伝統的に作られている笹野一刀彫のモノである。
もう一つの目的は、天童伝統の草書書駒のルーツを探ること。小冊子にも書いた天童の駒作りは米沢上杉藩に教わったことは間違いの無いことだが、米沢藩領内のどこの地域で作られておったのか特定できていない。それで、少しずつ調べて置きたい所のメボシの一つが木地師の郷として知られる笹野である。
真冬の陽光にさそわれ、格好の理由付けをして気分転換に仕事場を離れた。家族三人連れ立って車で一時間半ほどの道のり。米沢市街を通り抜けると笹野はすぐ目の前にある。
笹野一刀彫は古い伝統を持つ民芸である。コシアブラの木を用い、サルキリといわれる独特のナタを駆使して形にしていく。オタカポッポの愛称で知られる鷹の彫り物がシンボルになっているが、毎年の干支の動物も面白い。
まっすぐ高橋翔鷹氏の工房をたずねた。観光シーズンには外れているのか客は多くない。お茶を頂きながら様々お話を聴くことができた。生み出す物は異なっても同じ物作りの立場である。地域産業としての現状には、いずこも同じ様な悩みを抱えている。それでも氏がこれまで体験してきた厳しさや栄誉は、さながら木の年輪の如くに豊かな人生となって結実しているように思えた。
残念ながら、今回は将棋駒に関する手がかりは得られなかったが、味わい深いお話を聴くこことができて有意義なひと時を過ごすことが出来た。
氏の作品の「巳」は2001年の年賀切手の図案に採用されている。

2007年2月 掬水 記



天童市の広報誌である市報「てんどう」の12月1日号に、天童将棋駒の特集が掲載されました。天童将棋駒の歴史や代表する工人等も12ページにわたって紹介されています。
問い合わせ先:天童市役所(023−654−1111)総合政策課・広報係



「物を見る…美しいということ」

一目見て美しいと見える物も長く見て飽きるものがある。
一見何ということはないが作り手を語るものもある。
「物には作り手の人間が出る」などとこわい話もある。
私はコラムに駒作りのモットーとして「丈夫で美しいこと」と書いたが、この「美しい」という言葉に対するイメージは人によって大きく異なる。
将棋駒の美しさは私が持つ意味と、他の人が感じることには違いがある。
それは見る人の感性から生まれるものであるからなのだろう。
また例えば、女の人に対する「美人」という言い方と「美しい人」とは少し違うように思う。
前者は見目姿で判断しているようだし後者は人柄や立ち居振る舞いなども内に入っているようだ。
ふりかえって駒が美しいこととは単に、木地が、とかキレイな彫り、盛り上げが、とかいった事と別の要素がそこにあるのではないか。
作る側としてはその目に見えない要素が気になる。
小林秀雄氏は「美を求める心」(「真贋」世界文化社)という文章の中で「絵や音楽について沢山の知識を持ち、様々な意見を吐ける人が必ずしも絵や音楽が解った人とは限りません…」と述べている。
また物を見ることについて「愛情」と「好奇心」の違いがあることを説いている。
私は物を見る眼、または美しさを感じる心を育てるのに沢山物を見ることが良いと思って、漠然とやってきたように思う。
小林氏の文章はそういう態度への戒めになろう。
好奇心だけで見ている限り奥にあるものが見えないと。
将棋駒に限れば木地偏重の評価が長く続いていることに少し憂鬱な気分もあったが、やはり初心にかえって黙々と自分のモットーを追い続けようと思う。

2006年11月 掬水 記



「板谷先生の思い出」2

私が板谷先生と初めてお会いした時期は 今定かに思い出せない。秀峰氏の記憶によると昭和54年頃ではないかというその年、天童には八段に昇段してからは初めての来訪でご家族や後援会の方々と来られていた。
板谷先生と親交のある秀峰氏が声をかけてくれて私も同席させて頂くことになった。
その頃は仕事の上でも転換期にあった。数年前から東京駒に負けない駒を作ろうと、兄弟子の秀峰氏と盛り上げ駒の研究をやっていてようやく少しずつ作を出し始めていた時期にある。とはいえ堂々たる現役のA級八段の板谷先生からみれば、私などは駒師として海のものとも山のものともつかないかけだしの一工人でしかない。私はプロ棋士に会うのは初めてである。
天童でも大きいそのホテルの一室で「先生は風呂に入っていますからしばらく待って下さい」といわれるままフッと気が抜けて所在なく胡坐をかいて待った。
間もなく浴衣に襦袢を羽織った姿で入ってこられた板谷先生は私たちを見るとすぐに正座をして両手をつき「初めまして板谷です。」と名乗られたのであった。板谷先生は40歳前、私はようやく30を越したろうか。
私は今もってこの時の一瞬だけは鮮明に覚えている。私の中の何かが動き始めた時でもある。
秀峰氏は後にその時の事を、プロ棋士が自分の使う道具を作ってくれる職人に敬意をはっらたのであろう。と説明してくれた。
そのあとの懇親会の席では板谷先生から宮松影水氏の仕事ぶりを聞かされたことを記憶している。

2006年9月 掬水 記



読んでみたい「価値ある一書」
「科学者という仕事」〜独創性とはどのように生まれるか〜
酒井邦嘉 著(中公新書)

東大大学院の助教授である酒井氏。しかもこの表題となればお堅い専門書と思われがちだが、その内容は科学の分野以外の多くの方々にも読んで欲しい人間学の一書である。
著者は音楽や将棋、そして物作りの分野にも造詣が深く、人間的な視点から科学者という難しそうな仕事を明らかにしてみせる。様々な登場人物の仕事ぶりは驚くほど職人的でもある。
著作権に関する記述もあり、啓発されそして学ぶことが多い一書である。
私のコラムの一文も引用されている(P102)。
2006年8月 掬水 記


「道具のこと」 1.ネコとネズミ…蒔絵筆

我が家にネコが一匹いる。家を建て替えしてからはネズミとは縁がなくなったが、ネズミを捕る時のネコのすばしっこさは尋常ではない。
このネコ、三味の皮に化けることもあるらしいのだが、その毛は意外なところにも出てくる。
私が盛上げする時に使っている蒔絵筆、赤軸といって、天童では長いこと書駒用に使われてきた筆である。
この赤軸の穂として用いられている白い毛こそ、ネコのそれだ。しかも、雄。
赤軸をそのまま使うには太過ぎるので、用途に合わせて小分けして自分用の筆を作っていく。穂を目的の太さに絹糸で結い直して、それをカヤ棒で新たに作った軸におさめて使用する。
ところがこの赤軸、最近手に入りにくくなっている。
良いネコの毛も少ないのだろうが、筆を作る職人さんが高齢化にともない、あまり生産ができないとのこと。輪をかけて、漆芸では最も使われるネズミの毛の筆が肝心のネズミが捕れなくなったため極端な品不足にあり、その代用としてもネコの毛のものが使われていることにもよるらしいのだ。
ネコの毛の筆は赤軸の他に少し細い黄軸のものもある。少し柔らかいようだが、私には充分使える。いずれも数年前から不足すると聞いて少しづつストックしておいた。
ちなみにネズミの背中の毛で作られるものは根朱(ねじ)筆といい、漆のつたい落ちる適度な速さや、腰の強さなど、他のものには替えがたいものがあるようだ。私も一本持っているが、高価である。
ネコの毛の筆は、根朱替(ねじがわり)筆という(…やっぱり)。
とにかく蒔絵筆の世界では、ネコよりネズミの方が強いのである。

2006年7月31日 掬水 記



「駒銘見聞録」 1.錦旗(きんき)

「錦旗」・・・錦(にしき)の御旗(みはた)とは朝廷を示す天皇の旗印のことである。司馬遼太郎はその著書「竜馬がゆく」の中に、公卿の岩倉具視が討幕運動の旗印として錦の御旗を作る場面を描いている。歴史は薩長同盟が朝廷の威光を用いて250年続いた徳川幕府を倒し一気に明治維新へと突き進むことになるのである。薩長同盟軍と幕府守旧勢力の戦いでは錦旗は権力と強さの象徴でもあった。
それでは、将棋駒の「錦旗」にはどんな謂れがあるのだろうか。

私の手元にある日本将棋連盟発行の昭和44年版「将棋名鑑」には、錦旗の銘駒について『...後水尾天皇御宸筆の写しである。この駒は小野五平十二世名人の手から旧黒田公爵家に渡り黒田家から豊島太郎吉に筆写の依頼があった。戦前には仮染めにも天皇の名を駒に刻むことができなかったから太郎吉はこれを“錦旗”と命名した』とあり、奥野氏(号・一香)が昇竜斎の書体に錦旗と銘打って発売したことも記述している。小野五平は明治31年68歳で12世名人につき大正10年91歳で没している。

高濱禎と言う人が大正5年11月始として書き残した「萬おぼえ帳」の所有駒目録の中に『御水尾天皇御宸筆写 大阪国島権次郎模 大正元年頃製品』とある。又同じく『御水尾天皇御宸筆写 京都の重次にて 黄楊柾目彫駒二組 大正7年12月宮崎にて』とある。(大阪の宮崎碁盤店だろうか)

山形県松嶺(現在の酒田市松山)の石川文八は昭和6年に鳥海黄楊を東京の豊島太郎吉に送り盛上駒を作らせている。王将の底部に豊島作、裏に御水尾天皇御眞筆謹写と刻している。写しとなっているが、その字形はアレンジが見られ現在知られている錦旗書体の元になったものであろう。
これら大正元年から昭和六年の間に御水尾天皇御宸筆の駒を元にして作られたものは「錦旗」とは刻まれていないことがわかる。このことは前に記した「将棋名鑑」の記述のように戦前は天皇の名を刻むことができなかったから錦旗と命名云々とは逆の結果となっている。御水尾天皇御宸筆の駒を実見した感想は、いわゆる水無瀬形の駒である。雄渾と端正を合わせ持つどっしりとした太字でしかも落ち着いた字姿、毛筆の線とは異なる漆の線への転換が見事だ。現在流通する様々な錦旗が駒銘第一の書体として人気があるのもやはり天子のご威光かと思えてくる。

もう1つ錦旗にまつわる駒がある。酒田の佐藤公太郎氏が「幻の錦旗駒」と呼んだ淇洲駒である。詳しくは項を改めるが、この竹内淇洲が字を書いて作られた駒は明治37年に関根金次郎が竹内家を訪れた時一組関根に贈られている。この淇洲駒を使うと不思議に良く勝てたことから関根名人出世の駒『向かうところに敵無しは錦の御旗のごとし』いつしか錦旗の駒と呼ぶようになった。竹内淇洲自身、著書「将棋漫話」に書いている。関根金次郎は大正10年に十三世名人になっている。将棋駒に「錦旗」と称された最初であるようだ。
私は「錦旗」の字形はオーソドックスなものと御宸筆形を好みに応じて作っている。淇洲駒は淇洲書としている。

このように見てくると「錦旗」の銘は 御水尾天皇御宸筆の駒から生まれたものに自然に見えるが、淇洲駒の関根錦旗についても勝負の世界に相応しい心躍るエピソードではないだろうか。

2006年5月 掬水 記



「板谷先生の思い出」

私の住いしている天童市は、山形県内で降雪量は最も少ない所でもある。昨年の気象庁の長期予報では当初暖冬気味とあった。事実、12月に入っても雪囲いをしないでいた程である。
いつもは一度二度は降った雪も消えながら徐々に来てくれる冬が、今年はまっしぐらである。更に冷え込みも厳しく屋根には氷状になった雪の上に次々と降り積もっている。例年の倍の積雪はある。
自分が三十代の頃、天童に来訪された板谷先生と秀峰氏や私たち何人かで会食をする機会があった。談笑の中で私がつい、山形の雪の中での仕事に愚痴をこぼしてしまう。
「もっと東京に近い所で仕事ができたら良いのに...」
板谷先生は、漆器の産地などはほとんど日本海側にある、辛い冬や厳しい環境があるから忍耐強くなれる、そういうのが仕事に活きてくる...という旨の話をしてくれた。優しく真剣な目であった。
ことに厳しい今冬の大寒、仕事場の窓から白一色の外を見ていて、ふと思い出した。
板谷先生...プロ棋士 故・板谷進九段 昭和15年生まれA級在位7年 昭和63年2月47歳で急逝された。

2006年1月 掬水 記



「将棋駒のオリジナリティー」

私がもっと若かった頃、陶芸家の友人と飲んだ時などよく、”物作り論争”になることがあった。
「駒作りのどこが面白いのかネ、形も字も決まっていることばかり...」
彼の指摘に少し狼狽えながら私は反論する。
「決まったワクの中だからこそ自分が出るんじゃないか」
このスッキリと消化しきれない課題は私にとって駒作りに取り組むエネルギーとなってきた。
例えば巻菱湖書の字形は、高濱禎氏が千字文等から集字して作り上げたことは知られている。
私がこの道に入った昭和40年代は、故人となった影水作の菱湖書が大変人気が高かった。男性的で強い線は独特な表現である。はじめて見たその盛上駒は、心が鋭く揺らされた。
しかし、私の表現ではない。ましてそれを模倣したとしたら、いくら頑張っても影水作以上の物になるわけがないのである。
私は古書店等から千字文やその筆跡の物を買い求めて、自分の菱湖書の字母を作るのに大部月日を費やした。
そののびやかな姿の良い女性的な線質は、将棋駒の五角形に調和させるのはなかなか難しい。
字母を書き上げ、一作ごとに書き写しながら作り重ねてきた。掬水の作風が出るまで続くだろう。
私のささやかな取り組みであるが、伝統的な字形であっても資料を元になるべく自分の解釈を入れるようにしている。又、日の目を見ることのなかった字形を新たに書き起こして作ったりしている。
決まり事の多い道具作りであっても、やはり「自己表現」の場である。自分の作名を刻む意義でもあると思っている。

2005年12月 掬水 記



「駒の手入れ」

将棋駒は、言うまでもなく将棋を指す道具です。道具は手入れをすることで愛着も増してくるものです。主に本黄楊の駒の適切な手入れ方法をご紹介します。

・本黄楊彫駒 クルミの実をガーゼに包んで押しつぶすと油が染み出ます。これで駒を軽く拭いた後、乾いた木綿の古下着など(化繊の含まれていないもの)を2〜3枚重ねたものにこすって、しっかりと油分を拭き取り磨くようにします。あとは、使う度に乾拭きをします。
・本黄楊彫埋、盛上駒 ほとんどの駒はイボタロウ等でつや出ししてあるので、油分は使わず上記の木綿の古下着などでよく乾拭きしただけで良いでしょう。一説に、「漆は油で冒されるので溶け出すからあまり油分をつけないで」と言われるが、良質な漆を使用している限りそのようなことは起こりません。目止めが 強かったり粗悪な漆が使われていたことが予想される説です。また、盛上げ駒を研磨剤入りの磨き粉でツヤ出ししてはいけません。盛上げに使われている黒漆の削り粉が目地に入り込み、木地が汚れる原因になります。

本黄楊は手入れをすればその樹脂分の働きで自からツヤが出ますし、年を経るごとに段々と色上がりも良くなるものです。私はその駒が仕上がるまでは作り手の腕で、それから先数段も良くなって行くのを楽しめるのが所有者の権利だと思います。黄楊が駒の高級材と言われる由縁でもありましょう。

2005年10月 掬水 記



「良い駒」

良い駒とはどんな駒をいうのだろうか。
私は竹内淇洲八段の門下の佐藤公太郎氏に質問したことがある。
その答えは、「10年20年使ってみてわかる」というものであった。将棋駒はあくまで道具であることが基本とする当然の視点である。
その時佐藤氏は一組の駒を見せてくれた。名のある先達の作、駒袋からサラサラと出て来た駒は、盛り上げの漆がほとんど剥がれ掘り埋め状態にあった。一緒に剥がれた漆片がポロポロと落ちて来た。盛上げをする前に何かで表面にニジミ止めを施してあることは想像できた。木地は虎斑系の上物だが、氏は「これでは使い物にならない」と言われた。
以来私は、将棋駒は「丈夫で美しく、そして使いやすいもの」をモットーとして心がけている。

2005年09月 掬水 記