コラム「諸事考察」


『将棋の駒』

〜日本将棋連盟天童支部50周年記念誌原稿より〜


1 将棋のはじまり

インドやエジプトの古代文明の遺跡の出土品に盤や駒(立像形)がある。
それらは豊作を祈り、占いをする祭具として使われたものと考えられているが、時代を経るに従ってゲーム化するものが出るようになった。
ゲーム化した最も古いものが、紀元前300年頃、インドのガンジス川流域に伝わる「チャトランガ」と云われる盤上遊戯である。チャトランガは、初め4人制のゲームでサイコロをふって駒を動かすルールであったようだが、次第にサイコロを使わない2人制のゲームへと進化していった。
このチャトランガは、東西交易ルートのシルクロードを通りヨーロッパに渡りチェスに、東南アジアではタイの将棋マックルックなど、また東の漢字圏に伝わると中国のシャンチイ、韓国のチャンギなどの発祥に大きな影響を与えたと考えられている。

2 国ごとに多彩な将棋

現在、広い意味での将棋は全世界に様々な形で存在するが、その形状・ルールはそれぞれの国特有の文化と融合し多彩である。そこに使われている駒もまた多種多様である。
西洋将棋の代表であるチェスやタイのマックルックなど、ほとんどの国の将棋の駒は立像形であるのに対して、中国の象棋・シャンチイや韓国の将棋・チャンギ、そして日本将棋の駒は平面形である。それは中国、韓国、日本が漢字を使う表意文字圏であるのに対し、その他の国々が表音文字圏であるための違いによる。漢字は文字そのものに、表すものの能力・性能などの意味が含まれているため立像形にする必要がないためであろう。
また、漢字圏の駒もその国ごとに特徴がある。中国シャンチイは円形に漢字一文字、韓国チャンギは八角形に漢字一文字、日本将棋は五角形に漢字二文字となっている。更にシャンチイ、チャンギ共に「碁」のようにマス目の交差点上に駒を置くのに対し、日本将棋はマス目の中におさめるといった違いもある。なんといっても日本将棋の最大の特徴は、対戦相手からとった駒をもう一度自陣の駒として使用できる再使用のルールがあることである。このようなルールは世界に類を見ない。

3 日本将棋の発生

韓国将棋・チャンギは中国象棋・シャンチイが朝鮮半島に伝わり変化したものとされているが、日本文化の成り立ちに多大な影響を与えた中国・朝鮮の文化は、こと将棋に関しては、ストレートに日本に入っていないように見える。タイの将棋・マックルックとの共通点から、海洋交易ルートに乗って東南アジアから伝わり消化され、日本独特の将棋が考案されたという説の研究者もいる。
日本各地の遺跡から将棋の駒が出土することがある。現存する日本最古の駒は、奈良県の興福寺・旧境内の井戸状遺跡から出土した「玉将」、「金将」、「歩兵」など15点で、天喜6年(1058)と年号を記した木片、「酔象」の文字が見える書習木簡と共に出土している。
また、兵庫県の日高遺跡から出土した「歩兵」、山形県酒田市の城輪柵跡から出土した「兵」の駒は、平安時代後期の11世紀後半〜12世紀頃のものと推定されている。
これらのことから、日本には少なくとも平安時代の11世紀頃には現在のような形をした将棋が存在していたことが確実としながらも、いつ頃それが発生したのか、またそれ以前の途中の形があったのかどうかなど未解明の点が多く、今後の研究を待ちたい。

4 日本の将棋駒の概略

平安時代中期、藤原行成が著したとされる『麒麟抄』には将棋駒文字の書き方が残されているが、著作年代が分かっていないこともあり、そのまま平安時代中期に現在のような将棋駒が製作されていた、とするには早計である。
本格的な駒作りとして伝えられているのは、16世紀末・安土桃山時代の能書家であった水無瀬兼成であるといわれている。大阪府にある水無瀬神宮に残る『将棊馬日記』には「兼成」銘の他、「兼俊」銘の小将棋・大将棋など700組を超える駒が制作されたことが記録されている。これらの駒は主に漆で精巧に書かれたもので、駒木地の成形と共に現代銘駒の源流とされている。
江戸時代には安清、清安といった銘で駒を作る人が現れる。特に安清は大阪の駒工人と伝えられるくらいでよく分っていないが、精巧に楷書で書かれた書駒、天童の草書書駒のようにスピード感のある書駒、独特の略字体の彫駒、さらに全国の古い雛道具に入っているミニチュア書駒など、数の多さと豊富なバリエーションが見られる。それらの点から複数の作り手がいたことが考えられること、そして明治時代に入ってからも安清銘が作られていたという説もあることなどから、安清ブランドの工房(駒屋)が存在していて何代か続いて将棋駒が製造されていたことが想像される。この安清が天童の伝統的な書駒・草書の源流であることは後に述べる。
江戸時代、天童藩を含め諸藩の中には、将棋駒作りを産業の一つとして取り組んでいた形跡がうかがえる。それは、将棋指しの家元制度の存在とともにひろく一般大衆に将棋が広まっていた証であり、各藩が苦しい財政を補うため様々な産業育成に取り組んでいたことを物語っている。
江戸時代末期から明治時代には金竜、真竜などの号をもつ工人が出てくる。金竜は初代、町井利左衛門、二代目が掛川藩主・太田資始の次男・太田五郎左衛門氏治と伝えられている。金竜の書体は書家市川米庵の書と云われ、真竜の松本董斎とともに駒の書体に有名な書家を使っていることから将棋文化が庶民に広く定着し、その道具としての将棋駒が愛好者の要求に応えようと高級化している様子がうかがえる。金竜は、天童においても東京駒の木地形を金竜形と称したように江戸駒を代表する工人であった。
この時代の駒には書駒、彫駒の他、彫埋駒、盛上駒など多様な仕上げ方がみられるようになる。 また明治期には将棋家元・十二代大橋宗金や、酒田の書家であり将棋八段の竹内淇洲が駒を作っている。
明治末期から大正時代には、天童や大阪などの産地では、娯楽としての将棋が一般大衆に更に広まるのに応えて量産体制が進められた。特に天童では、それまで手作業のナタ切りで行われていた駒木地の製造が動力による機械化が行われ大衆駒の一大産地の基礎を築いた。大阪は天童以前の大産地であったことから、主に彫駒では独特の彫り方で略字体の駒が生産され、用材でも黄楊の他、椿などが使われた。他には名古屋、京都などで駒作りが行われたことが認められる。
大正期から昭和期にかけて東京では、棋士でもあった豊島太郎吉と数次郎の親子が龍山の号で駒を作り、現在使われている多くの駒字(書体)を開発し、その作り方の技術と共に近代高級駒の基礎を築いた。他に奥野一香、宮松影水、木村文俊らの名工を輩出し、東京駒は高級駒の代名詞となった。
大阪では太平洋戦争を境に大量生産の地位を天童に明け渡してからは、赤松駒権が独特の深彫りで名を馳せたが産地としては姿を消した。
昭和49年の第一次オイルショックや平成初めのバブル崩壊のあと、我が国の伝統的な産業は大きな試練を強いられ、多くの地場産業は弱体化傾向にある。
将棋駒産業の現在、産地としての天童も例外ではなく、ゲームの多様化や少子化も重なり需要減少が続くなかで、大量生産の体制が足かせになり難しい対応が続いている。天童以外では新潟の竹風駒、そして愛好者たちがグループで活動している東京、静岡、大阪など、全国に駒の作り手が存在する現状になっている。

5 天童将棋駒の起こり

前項で述べたように江戸時代後期、諸藩は財政窮乏を助けるため様々な産業育成に取り組むが将棋駒製造もその一つであった。天童藩も同様であった。
織田信長の次男・信雄を藩祖とする天童織田氏は、明和4年(1767)上野国小幡(群馬県甘楽町)から米沢上杉藩のとなり高畠に移封され、天保2年(1831)に領地替えで天童に移るまでの60余年間を過ごしている。
  これまで、天童での将棋駒製造は天童藩の重臣吉田大八が奨励したことに始まると長い間観光資料などに書かれてきた。
郷土史家の斎藤隆一氏は、天童将棋駒製造の歴史を記した最も古い文献として昭和8年、佐々木忠蔵著『勤王家吉田大八先生』を取り上げ、将棋駒作りの部分を@元治2年(1865)吉田大八が用人に任命された頃、天童藩内では将棋の指し方・作り方を知る者がなかったが、吉田家だけには伝わっていたA生活に苦しむ下級武士を救済するため将棋駒作りの内職を奨励したB指導者として米沢の人、大岡力次郎・河野道介を招聘し士分に取り立てて指導に当たらせたという3点に要約している。
昭和27年刊、天童町史編纂委員会が発行した『天童の生い立ち』のなかに、「天童藩の吉田大八が未だ用人役時代(文久3年・1863准用人、元治2年・1865用人本役)に藩士野呂武太夫と相談し米沢人大岡力次郎、河野道介等からその製造を伝授したとされているが…」とあり現在使われているストーリーが既に一般化していた様子がある。その上で、由来将棋駒伝来が吉田大八であるという確証がないこと、もし吉田大八が考慮を払った士卒の内職であるとすれば、明治元年まで僅々4、5年のことで、武士階級の貧窮を救済する施策としては遅きに失すると疑問を投げかけている。更に、将棋駒の技術を知っている者が米沢にいたとすれば、すでに織田藩が高畠にあった頃からその技術が伝えられて、士卒等の身分の低い者は内職によって生計の補いをしていたとみられる、と述べている。そして吉田大八が将棋駒の製造を奨励したのは、或は一時衰えたのをそれらの家臣に命じて中興させたと見るのが妥当である、と結論づけている。前出の『勤王家吉田大八先生』の内容の矛盾点をつきながらも資料の裏付けができないままであった。
郷土史家・斎藤氏は、天童の将棋駒製造の歴史調査に取り組み、上記の点について米沢市史や高畠町史の中から、織田藩が高畠に転封になる以前に米沢では大阪から駒師を招聘し将棋駒作りが行われていたこと、上杉藩の預かり地だった高畠においても将棋駒作りの痕跡が認められること、などを調べあげている。 また昭和15年5月15日付けの夕刊「米沢」の記事に"特産地天童を圧倒し米沢将棋駒飛躍"とあり、機械などの権利譲渡をめぐって天童の組合とトラブルがあったことなどが記されている。私が以前、天童の将棋駒屋の安達義市氏から聞き書きしたメモの中に、昭和10年頃、結城定助が考案した電動木地加工機械第一号は、天童で買い手がなく米沢の業者に売却した話が書いてあり、戦前に米沢で将棋駒作りが行われていた形跡がうかがえる。
  ただ、そこまでは肝心の天童織田藩や米沢上杉藩で作られた将棋駒は、一体どのようなものであったのだろうか。その存在すら判然としなかった。

天童の伝統的な将棋駒は、独特の草書体の書駒にある。それではこの書体は天童で考案されたものなのか、そうでなければどのような伝播があったのか、この書体から天童の駒作りのルーツを探ろうと私は考えてきた。
駒工人だけで結成した「銘駒工人会」は、昭和60年に最初の展示会を開催した。この時、作品展示だけでなく、将棋文化の啓蒙活動のために様々な資料展示も行ったが、その展示品の一つに、棋士の板谷進九段(故人)が所蔵していた江戸時代の大阪の工人「安清」銘花押草書体の駒があった。 この駒を初めてみた時に「安清」が天童駒のルーツだと直感したのだった。その後、同じ安清の書駒でも駒木地の形を含め、もっと天童の草書に近いものが見つかった。先に記した「米沢藩が大阪から駒師を招聘して…」の部分が大阪の安清系工人だとすれば、資料の裏付けと物証が一本の線でつながることになる。そして米沢で作られていた未発見の駒が、この書体と同系のものと確認できれば、よりその線は確実になるのではないかと考えた。
私は長い間その可能性を信じて調査してきたが、平成15年、川西町玉庭の瑞光寺の住職藤田宥宣氏が所蔵する安清草書系の駒を発見した。それを大阪駒、天童駒と種々の視点から比較検討をして、ほぼ米沢藩で作られたものと結論し調査報告書にまとめた。その後、田鶴町の笠原登氏の協力で、米沢市街地の旧家などから、この玉庭の駒と同種のものが端駒の状態ではあるが数組分以上次々と見つかっていて、これが米沢藩で作られた駒であると、より一層確信を強めている。
以上の様々な事例や資料、そして物証などの積み重ねから、天童の将棋駒作りの始まりとして、織田家が高畠から天童に移ってきた当初の頃から、と私は思っている。
吉田大八と天童将棋駒との関わりについては、天童藩においての存在の大きさや功績から見ても、天童市発行の『天童と将棋駒』にある「当時、用人職にあり、のちに勤王の志士として知られた吉田大八が、その受ける扶持だけでは生活できなかった藩士に将棋駒の製作を奨励しました。武士が手内職を営むことについては、他の執政の反対にもあいましたが、吉田大八は、将棋は兵法戦術にも通じるとの考えから、武士の面目を傷つけるものではないとして、その製造法を広く紹介しました。」との記述が概ね適当であると考える。
これまで天童の将棋駒の源流は水無瀬駒であるとしたこと(楷書体であり天童の草書体とは大きく異なる)や、天童書駒の草書を考案したのは明治の駒工人・山川千万蔵(基一)であるとした論調は調査・資料の裏付けのない私的な見解と思うが、今後も偏見なく調査研究を進めることが大切だと思う。

6 天童はなぜ日本一の将棋駒産地になったか

今まで述べたように、天童での将棋駒作りは江戸時代まで遡るが、その生産量はどのようなものであったか。『天童市史』別巻下には、明治に入ると卸業を営むものも発生し、東京を中心とした県外にも販路を広げた、とある。
私は既に天童織田藩の時代から江戸に販売ルートがあったと考えていたが、近年、郷土史家・大木彬氏の調査で興味深い資料が発見された。『川部家文書』の中の、嘉永期(1848〜1854)の手紙にある将棋駒の注文とみられるもの。そこには大形、間形、並駒、上駒、200組、600組、1000組などの記述がある。
『天童市史』別巻下には、天童の将棋駒生産は明治末期まではほとんど書駒だけの生産で彫駒の技術を招来したのは大正5年に三河金次郎である、としている。また大正3年には武内七三郎が上京して東京彫りを習い、帰郷後その技術を伝えたとしていて、いずれからも天童での彫駒は大正年間に始まるとしている。そのことから、もし並駒、上駒の記述が彫駒の上彫、並彫と同じ意味であれば彫駒の始まりを大きく修正することになる。またこの項冒頭の「明治に入ると卸売業を営むものも発生し…」とある点も、年代を江戸後期まで遡らせることになることから、もう少し詳しい調査が必要だ。

明治維新後、社会構造の激変は想像に絶するが、庶民の娯楽への欲求も大きな需要を呼び起こしたであろう。特に将棋というゲームは庶民の一番身近なものであったことは間違いない。
庄司屋商店(現・天童将棋梶jの明治43年の『職工支払帳』が残されている。それを見ると明治末期には毎日のように数百〜数千組単位で完成品が納入されているのが記録されており、天童全体では相当の生産量があったことが推測できる。
またこの年には結城定助、小林盛知らが足踏み式の荒切機械を考案して木地成形の機械化の端緒を開いた。大正8年には中島為三郎が電力に依る玉切りを開始、結城定助らの協力で小割り機械を完成させると駒木地の工場一貫生産をはじめた。
このように大正時代には、ガソリン動力や電気に依る様々な機械が工夫されて、木地の量産体制が整えられたことから、天童が一大生産地になっていく基盤となった。また将棋駒の用材もホオ、アオカ、ハビロ、イタヤ、マキ、といった雑木類が使われ、それらは関山などわりあい近郷から産出された。
昭和16年に日本が太平洋戦争を起こすと、兵隊は中国、東南アジア各国に出兵していった。日本から遠くはなれた戦地にいる兵隊のために慰問袋が送られた。この中に大阪産の安価な押駒(スタンプ駒)が入れられた。大阪ではその生産が追いつかず天童に下請け発注してきた。この天童製の慰問駒は楷書体で仕様材はホオであった。天童は既に駒木地の量産体制はできており、さらにそのスタンプのインクに工夫をして、大阪のものより見栄えが良く安価で出荷したことが、量産物は大阪にとってかわり天童が一大産地となっていく契機となった。
 天童の将棋駒産業の最盛期は昭和30年代で、食事の時間も惜しんで忙しく働いたという。生産量のピークは昭和40年の700万組の記録があるが、押駒が全体の7割を占め、書駒2割、彫駒は1割ほど、といった割合であった。それまでは押駒の中では将棋様のゲーム・行軍将棋(軍人将棋)が多くを占めていた。それ以降、将棋駒の高級化に従って書駒が激減し彫駒の割合が増したことにもよるが、需要の変化も重なり年々生産量は下降している。

7 将棋駒の種類

天童で生産される将棋駒は大別して押駒、書駒、彫駒、彫埋駒、盛上駒がある。押駒はスタンプ駒といわれるもので主にホオの駒木地に直接に字形スタンプを押したものだ。書駒は駒木地に漆などの塗料で直接駒文字を書いたもの、字形の違いにより草書と楷書がある。用材はハビロやイタヤで上物はマキを使用した。なお草書体の駒を番太郎駒という人がいるが、天童の工人や駒屋ではその呼称はなかった。
彫駒は字形の簡略度から黒彫、並彫、中彫、上彫、とランク付けされている。中彫、上彫にはシャムツゲが使われていたが、輸入が思うようにならないため他の材が試されている。またその彫り方は印刀の切れ味を生かしたスピード感ある線で彫られていて、量産に適した天童駒の特徴でもあった。最近は見られなくなったその彫り味は、近年再評価されてきている。
  本ツゲを使うのは銘駒といい書体名のある字形で彫られる。その仕上げとしては彫駒の他、彫埋駒、盛上駒があり、特に盛上駒はプロのタイトル戦にも使われる。

8 革新的な取り組みと、これから

天童将棋駒に生きてきた人達は、これまで事業発展のために様々な革新的と思える取り組みをして、激動する経済・社会情勢の中をくぐり抜けてきた。
最初は「駒屋」の成立に見られる事業形態の確立である。駒屋とは製造卸問屋をそう呼ぶ。事業所内で工人を抱えて製造卸する事業所や、下請け工人を系列下において各工人の自宅に材料を集配する事業所など特色はあるが、いかに効率の良い分業制にして量産をし、全国の販売業者を卸先として開拓してきたか、天童が大産地となった下地でもある。
次に駒木地の大量生産に取り組んだこと。項6で述べたように、他の産地に先駆けてこの分野に取り組んだことが大量生産を可能にしたのである。

私的なことだが、私がこの世界に入ったのは昭和46年であった。直前に彫師の森山慶三氏(故人)を訪ねたことがある。狭い仕事部屋は、江戸時代に下級藩士の内職であったとされる将棋駒作りの様子を再現したかのようであった。帰り際に氏が言った「今からの若い人がする仕事でないよ。」という一言が今も忘れられない。その暫く後にNHK・TVの「新日本紀行」に天童将棋駒が紹介され、薄暗い部屋で森山氏夫妻が晩酌している姿で終了する作りだった。昭和40年代は、将棋駒はまだ比較的仕事があった時だが、その場面は、天童の将棋駒作りに対する一般的なイメージを表現するシーンであった。
昭和49年の第一次オイルショックを一つの節目にして、天童の将棋駒生産の内容・量が変化をしていくことになる。平成時代に入って起こるバブル崩壊までの間、世間はまさにバブル景気であったろうが天童の将棋駒生産量は、この間半減している。
私が天童将棋駒の歴史を調査しようと、工人や事業所を訪ねて聞き書きしたのは昭和59年であった。その調査をしていくうちに、近い将来天童の将棋駒工人は数人しかいなくなるという危機感を持った。特に彫駒の分野は'革新的'な「機械彫り」での生産が進み、需要の減退も重なり工人はリストラされていった。一方、優れた技を持つ工人がいたことも再発見できたので、残っている工人で何か出来ないかとの思いから、木地氏の山川秀夫氏(故人)と相談をして「銘駒工人会」を結成した。他に、木地師の五十嵐松雄氏、彫師の水戸常丸氏(桂山・故人)、佐藤松喜氏(天一)、書師の伊藤太郎氏、会友に盛上師の村川邦次郎氏、工芸家の吉田宏介氏が加わり、昭和60年に第一回の展示会を開き平成2年まで3回開催した。
メンバーは駒組合員もいたし非組合員もいたが、工人だけで展示会を開催したことは、当時の駒組合全体でも成し得なかった革新的な行動であった。その反響は大きく、全国から大手棋具専門店数社をはじめ多くの愛好者が訪れ賑わった。また天童将棋駒の技を天童から全国に発信しようという信条から、付随する活動にも取り組んだ。例えば展示会での資料展示による啓蒙活動や、国の伝統的工芸品の指定の可能性に向けた市職員と意見交換などもしている。
工人会は一定の役目を果たしたとして解散したが、その後「天童将棋駒」が平成8年、経済産業大臣の伝統的工芸品の指定を受けることに少なからぬ契機になったと思っている。
工人の一部は平成9年伝統工芸士の認定を受け、駒組合の需要拡大や後継者育成などの事業に取り組んでいる。現在(平成24年)山形県将棋駒協同組合の会員数は27名、内、工芸士は6名、今年10月の認定試験に2名が臨む予定だ。

天童将棋駒において忘れてならない出来事がある。昭和26年、天童での初のプロ棋士のタイトル戦王将決定戦第6局木村義雄対丸田祐三戦が佛光寺で行われた。この時、地元天童の駒を提供したが、盤に並べられることなくお払い箱になったのだと、私は師匠の佐藤権七氏(故人)に聞いている。以来、発奮した駒工人はこのプロ棋士の「対局用の駒」を目指したのは当然の流れであった。 これまで記したように天童は量に置いて日本一の将棋駒生産地であること、それが日本の庶民の娯楽である将棋文化を支えてきたことは疑いのないことではあるが、駒が将棋を指す道具として見た場合、その質において高級品の東京駒ははるか遠くにあった。
佐藤静氏(天一・故人)は昭和40年代、優れた彫埋駒を作って盛上駒にも仕上げている。
伊藤孝蔵氏(久徳・故人)が作った盛上駒が、昭和55年の王将戦第5局、加藤一二三王将対大山康晴戦に使われることになった。これが天童の駒がプロのタイトル戦に使用された最初の場面である。加藤の注文が付き、2日間の内、一日目のみの使用であったがようやく天童将棋駒の新しい幕を開けたのだった。
このような時、私と兄弟子の村川邦次郎は「天童から東京に負けない駒を作ろう」と共同で研究・製作をはじめていた。私は天童での作り方を一から見直し、特に漆については漆芸の専門書を参考にしながら試行錯誤の繰り返しであった。私の駒が使われたのは昭和60年山梨県での十段戦(現・竜王戦)の米長邦雄十段対中原誠戦が最初で、その後は、羽生善治名人が史上初の7冠を達成した時の王将戦、19世永世名人の資格を獲得した天童での名人戦などを含め、様々の場面に使って頂いている。
村川邦次郎は村山市の人だが将棋駒組合に加入して天童将棋駒伝統工芸士である。天童将棋駒の高級化へ果たした役割は小さくない。
天童でのタイトル戦には掬水作、秀峰作、天竜作、月山作、淘水作など多彩な顔ぶれが登場するようになってきた。
述べてきたように、天童の将棋駒に携わってきたのは、大きな産業のなかった時代に身近な収入源とした内職の人達が多かったが、専門に取り組む人達の中には他にない革新的な取り組みをして、天童が名実共に日本一の将棋駒産地になることに大きは働きをした人も多くいる。
そしてまた今、将棋駒産業としても駒の町天童としても、一大産地へと突き進んだ過剰となっている生産体制を整理しいかに新しい体制を作っていくかが問われている。私はその一つとして手仕事の再構築にあると考えている。


【参考文献】

『天童と将棋駒』― 天童市観光物産課
『天童織田藩史』― 天童市
『天童の生い立ち』― 天童町
『天童市史』別巻下― 天童市
『天童の将棋駒と全国遺跡出土駒』― 天童市将棋資料館
『天童将棋駒のあゆみ』― 斎藤隆一 著
『嘉永期書状にみる天童将棋駒』― 大木彬 著・『天童・ひろば』より
『将棋』― 増川宏一 著・法政大学出版局
『将棋の来た道』― 大内延介 著・鰍゚こん
『銘駒大鑑』― 熊澤良尊 著
『持ち駒使用の謎』― 木村義徳 著・日本将棋連盟

2012年09月 掬水 記