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Hari  Raya の Malaysia
2000年12月27日〜31日

 2000年12月27日から31日にかけて、私たちにとって息子・娘でもあるようなBaijuriとMaznah夫妻を訪ねてMalaysiaへ行ってきました。

 2人に初めて会ったのは1993年6月でしたから、随分長いおつきあいになります。その時は彼らのハネムーンを兼ねた来日で、留学の最初の年でもありました。それから4年無事静岡大学(大学院)を卒業して帰国、2人とも立派な社会人(BaijuriはIntelのEngineer、MaznahはMSU(Malaysia Science Univ.)の先生)そして3人の子持ちになり今度は私たちを招待してくれたのです。具体的な計画は、Baijuriが2000年9月に出張で来日し、我家を再訪してくれた時に決めたのです。

 「今年のハリラヤは日本の年末休みの頃だからお互いに都合がいいよ」という彼の助言と私がこの年末で出向している会社へ移籍することが決まっていたこともあって「卒業旅行の敢行」で区切りもつくかなと言う気分が今回のMalaysia行きを決断させてくれたのです。
しかし、9月の時点では今年のハリラヤがいつになるか決まっておらず12月27日か28日になる見とおしだけがあったのです。出来ればフライトスケジュールからは27日出発になることから28日になることを願っていたのですが、1ヶ月後くらいに決まったのは27日でした。会社へは27日からの休暇を早めに宣言しておいたので、12/31付けの退職辞令も26日に繰り上げ交付してくれ、同時移籍先の1/1付け採用辞令も貰って安心して?旅に出ることになったのです。(別に紙切れがなくても、やはりセレモニーとして大事だった様です。)

PenangからKelantanへ

 名古屋からまずPenangへ、空港へはBaijuriと彼の弟が車で迎えに来てくれました。Penangは現在の2人の生活の根拠地でもありますが、家へはちょっと寄って、さしあたり不要な私たちの防寒衣料を置いただけで、彼らの故郷Kelantan州を目指しました。マレー半島を西から東へ横断することになり、ほぼ400Kmの道のりです。4時間で行けるよ、というのが彼らの説明でしたが、私はそれはちょっと無理と踏んでいました。途中アクシデントもありましたが、やはり5時間以上かかりました。

 Penangから約7kmの海上橋(Penang大橋?)を渡りバターワースへ、しばらくHighwayを走りますが、30分もすると途切れて街灯のない真っ暗なゴムの農園地帯へ入りました。30分ほどで農園を抜け、更に30分ほど田園地帯の町を抜けると、ここからは人家が無いという熱帯雨林のジャングル地帯へ入りました。しかし月はなく真っ暗で、道路標識がライトに不気味に浮かぶばかりで、崖崩れ注意、屈曲注意の標識がやたら目につきます。ここはジャングルだというのを印象づけたのは、「象注意」の標識でした。頻繁ではないのですが、時々は集団で道路を横切るのだそうです。

 ちょうど半島の中間くらいの山の中にダム湖があり、そこはリゾート地になっているようですが、そんなに有名ではないらしく日本で手に入る案内書には紹介されていません。ダム湖にかかる橋を2つ渡り、やっとルートの後半、更にジャングル地帯を1時間走り、更にもう1時間という所まで来て、運転手交代となり我々も車外へ出て背伸びをしました。月が無くて町の光も無くてという所ですから、星空がものすごくきれいでした。プラネタリウムを見ているような満天星空の荘厳な光景に息をのみました。短時間かつ乏しい星の知識しかありませんので、昇りかけたオリオン座を見てこちらが東だと認識するのがやっとでしたが、それは素晴らしい光景でした。

 分離帯なしの2車線、登り勾配のきつい所では登坂車線があるという夜道を100Km近いスピードで走るので、少々ひやひやしていたのですが、運転手交代をして20分ほど9時30分頃に下り坂で反対の路肩が20mほどに広がったところでアクシデントに遭遇してしまいました。突然のことではっきりは覚えていませんが、雨で流れ出たと見られる砂利でタイヤがスリップして反対車線側へ入り込み路肩の深いV字型の溝に右側の前後車輪が落ちてしまったのです。幸いなことにスリップした後のハンドルさばきがうまかったので崖への正面衝突は避けられ、路肩が広かったので減速も効いたのでしょう、全員怪我はありませんでした。

 車外へ出て、どうしたものか思案しはじめると同時に通行車両が10台ほど止まってくれて、結局みんなで持ち上げて出すことになり、どうにかタイヤが溝の表面に接触したところでエンジンをかけて一気に飛び出ることができました。この間45分ほどでしょうか、警察にも修理屋さんにも通報する手段が無いところでのアクシデントでしたが、この時は心優しいマレーシアの男性達に本当に感謝、感謝でした。それぞれに成功を喜んでみんなと握手して別れました。

 右側に少し疵がついて後部ドアーが開かなくなったものの、走行系に異常はなくその後も走りつづけることができましたが、さすがに気が動転して運転続行は出来なくなったのでしょう、運転は再度Baijuriに替わり、少しスピードも落ちたようでした。怪我もなく、車も無事だったのは、おりしもハリラヤの時でありアラーの神のお陰だったのかな?と思っています。もっとも日本ではこの年になるまで一度も交通事故に遭ったことはないのに、どうしてよりによって?と事故直後には思ったものでした。ちなみに車は、Baijuriが留学を終わって帰国する時に持ちかえった日産プリメーラでした。9月の出張の折りに、部品が無いのでといってヒューズを買っていたというMalaysiaでは稀少車です。

Maznahの実家

 最初の晩はKelantan州Tanah Merah(タナメラ)の町にあるMaznahの実家へ泊りました。予定より相当遅れた到着(午後11時を過ぎていた)でしたが、主だった人は起きていてくれ、Maznahとは4年ぶりの再会をしました。その日は遅いので簡単な食事の後すぐ寝ることになりましたが、その時はそんなにたくさんの人が居るとは気がつきませんでした。

 ラマダン(断食)明けのお祭りハリラヤが今年はちょうど年末になるのでお互い休暇を取りやすいし、みんなと会えるということで楽しみに行ったのですが、普段は親しかいないという故郷の家に、子供たち(兄弟姉妹)それに近い親戚までがそれぞれ子連れで集まるのです。そこへ私たちが加わったのですから、入れ替わりはあり全員一同という時はないのですが、それでも最大30人くらいいる時があったと思います。それだけの収容力があるということは両方の家も比較的大きかったということでしう。

 家はいわゆるkampong風の家で、数十年は経っているそうです。木造(板壁)でしっかりした家でしたが、水まわりはまさしくMalaysiaの習慣どおりでした。トイレの便器は洋風でしたが、水道の蛇口につけたホースが完備!(この使い方の詳細は未だわからず) お風呂はもちろんなし、水浴びは裏庭の仕切った一角で汲み置いた水を手桶でかぶる。ただし両方とも仕切った中はタイル張りで、いつも水を使っているので清潔そのもの。換気は自然換気、壁は身長より少し高いくらいまでで、屋根との間の数十cmは開いている。)お父さんに言わせると「建替えてもいいのだけれど、私はもう歳だから愛着のある家の方がいい」ということでした。

 Maznahの家で面白い体験をしました。夜、寝ている部屋と至近距離で、キョッ、キョッ、キョッ、キョッ、キョッ とヨタカかなと言う声が聞こえたのです。しかし外に耳を澄ましても外からではない所から聞こえてくるのです。翌朝、Baijuriに確かめてみると、あれは鳥ではない、ほらそこにいる、と指差す先は壁のヤモリでした。ヤモリ、チチャの話しは聞いていました。部屋の中にチチャ バニャ バニャ だったと。たくさんはいませんでしたが、納得できました。窓の上部、天井までの数十cmはガラリになっており、風通しは良いけれどチチャも出入り自由というわけだったのです。

 お父さんは初対面ではなかなかしゃべってくれなかったのですが、翌日はいろいろしゃべってくれました。Kelantan(Kota Bharu)は太平洋戦争の時、真珠湾直後に日本軍が上陸した所ですが、彼はその頃16才くらいで、日本語で勉強させられた経験があるので、日本語も知っているとBaijuriから聞いていたのですが、結局日本語は出てきませんでした。
Baijuriを介しての話しではお父さんは随分と資産家(土地持ち)のようで、10人いる子供たちに宅地(330u以上はありそう)を2区画ずつ後々もめないよう生前贈与しているそうで、図面まで見せて説明してくれました。今住んでいるところは末娘(KLで大学2年)のジャが貰うことになっていることまで決めているようでした。また、ドリアンの美味しいところを勧めてもくれました。ちょっと控えめですが、打ち解けてみると気さくな68才のお父さんでした。10人兄弟で6人まで大学を出て(1人は在学中)いるようで、きっと優秀な家系でもあるのでしょう。

 Maznahのお姉さんロスマは、Maznahが1人目の子供をMalaysiaで生んだ後、一緒に日本へ来たことがあります。独身の頃、兄弟姉妹の子供たちの面倒を良く見てくれたという話しを聞いていましたが、小さい子供たちにご飯を食べさせる時は自分の子だけでなく誰かの子供も一緒に分け隔てなく面倒をみていました。MaznahとRosmahと2人で7,8人の子供にご飯を食べさせる光景は、ほのぼのとしたものを感じる物がありました。
また、ロスマは私の誕生日(12/25)を覚えていてくれて、28日に何とバースディーケーキを持って来てくれ3日遅れのお祝いをしてくれました。

Baijuriの実家

 Baijuriの家はMaznahの家から車で20分ほどのところにあるPasir Mas(パサマス)の町にあります。2日目昼前にMaznahの実家を出発して、その日はここに泊りました。

 彼のお父さんはすでに無く、普段はお母さん1人が住んでいます。比較的新くKampong風ではなく、白い壁で2階建て、外観は洋風の趣がありました。大きさはMaznahの家と同じ位で、6人兄弟(お姉さんが1人亡くなっている)が揃っても大丈夫のようでした。お母さんは52才、一番下の娘が我家と同じ大学2年ですから、32才までに7人の子持ちになった勘定になります。Malaysiaの結婚年齢はかなり若いのでしょう。ちなみに我家では30半ばで子供は1人だけでした(-_-;)。

 Baijuriの家ではMaznahの兄弟も来て、BBQ(バーベキュー、Malaysianはこういう略号が上手)&Sushi Partyの予定でしたが、雨が強く、おまけにハリラヤで出歩く人で道路が渋滞し(交通事故もあったらしい、ハリラヤの期間、交通事故が多いようです。)来れないということでBaijuriの家族だけで、Sushi Party をしました。持っていったお米2kgを電気釜(Toshiba製)で炊いて、竹輪、かんぴょうにMalaysiaの人参を加えた煮物と、デンブ、ゴマ、キュウリも芯にしてのり巻きを作りをしました。女性は結構興味を示して面白がってやってくれました。後日メールで日本米はMalaysiaではどこで売っているか教えて欲しいと一番上のお兄さんから問い合わせがありました。
 その他、ワカメの味噌汁とお汁粉も作って好評?でした。味噌はアルコールを含んでいないものを持っていった甲斐がありました。(イスラムの人は例え保存料であってもアルコールは禁忌です。)

Hari Rayaの訪問

 この夜Baijuriのお母さんと兄さんたちの親戚訪問について行きました。ハリラヤの時はお互いに訪問するのです。そしてご馳走を振る舞って歓待する習慣のようです。そういえば昼間末娘の友達が数人来て歓待してました。

 行った家は、その日結婚をした若い人が居る家で、披露パーティをやったテントがまだそのままという家でした。若い夫婦が主役で歓迎してくれました。
 次に行った家は、Baijuriのお姉さんが嫁いだが2人目の子供の出産の時亡くなってしまい、父親は再婚して家を出たので子供たち(Baijuriのお母さんから見れば孫)が居るという家でした。この家の主は庭の果物の木に登っていておっこちてしまい腰を打って寝ているのでお見舞いに寄りました。この家も子供たちがたくさん来ていました。孫の上の子はおばあさんの家(つまりBaijuriの家)に泊りに行くことになりザックに着替えをつめて一緒についてきました。

 次に行った家は、孫のお父さんが再婚して別に暮らしている家でした。Baijuriのお母さんからみると、亡くなった娘の旦那さんだった人ということになります。既に寝ていたらしいのを起こしたようでしたが、ハリラヤの挨拶をしたりして談笑し辞しました。新しい奥さんは彼にとってはちょっと若い?感じで、前妻との子供との同居には多少抵抗があったのかな?と考えましたが、それはそれとして親戚付合いをしているのは、娘の夫、孫の父である関係を大事にしているからでしょう。都合3軒、いずれも何かの形でつながっている家でしたが、こうした習慣があるのを身を持って体験しました。

 どの家でも子供が行儀がいいのが目につきました。この理由は後で分かりました。ハリラヤの時期、子供たちは朝起きると水浴びをし、晴れ着を着せてもらいます。もちろん大人も同様です。晴れ着を着せてもらうからおとなしくしているのも理由の一つでしょうが、お年玉のようなものを貰えるのです。挨拶をして、お行儀よく坐っているのはそれを待っているようでした。もちろん長兄は手のひらくらいの袋に入れた「お年玉」をいっぱい用意していきました。中味はそんなに多くなく、1リンギット(35円位)だそうです。前回Malaysiaへ来た時はお正月だったので、Stayした家の子供に日本の習慣だよといって「お年玉」をあげたのですが、Malaysiaではハリラヤの時貰うのだといっていたのを思い出しました。

 またこの時期テレビやラジオはハリラヤ特集番組オンパレードで、番組の終わりのアナウンスに「・・・・・・・・・…ハリラヤ!」といっているのが耳につきました。まさに日本のお正月番組と同じ!という感じでした。ハリラヤの1週間くらい前からこんな雰囲気になりその後3,4日続くのだそうです。今回は12月27日がハリラヤで、12月21日頃から1月1日頃までがハリラヤの休暇となったようです。

Pasair Mas のマーケット

 Baijuriのお母さんとはマーケットへ買物にも行きました。家から約2kmほど離れた駅の傍にあるマーケットで、線路脇に露天の店が並び、雨の中パラソルを広げての商売は大変のようでした。値段はハリラヤ期間中はかなり高めだそうで、日本のお正月価格といったところでしょう。
果物2種(ランブータンとマンゴスチン)と家内に腰に巻くバティックの布を買ってくれました。

 気がつくとそこは駅のホームのそばで、列車が止まっていました。最後尾の扉が開いていて車掌さんらしき女性が2人いました。ビデオカメラを向けると手を振ってくれましたが、すぐに列車は動き出し行ってしまいました。列車が行ってしまうと線路は横断自由?で、私たちも渡って向こうのマーケットへ行ってみました。こちらは屋根があり、どうやらこちらが正規のマーケットのようでした。雰囲気は昔よくあった公設市場といった感じで、商品が溢れんばかりの店がいっぱい集まっていました。ここは「見るだけ」でとおりすぎました。

 市場の外で携帯で家に連絡して迎えの車を待っている時、先にジュースの缶くらいのものをつけた傘を持つ人がおり、面白いなと思い、「イニアプー?」と数少ないマレー語で聞いてみました。傘のおじさんは自慢げに、こうやって使うのさとばかり実演をしてくれました。傘をすぼめて缶の外をもって引っ張り上げると、何とするすると伸びてきて傘のカバーになってしまいました。なるほどなるほどと感心し「テリマカシー」とお礼を言いました。マレー語は発音が悪くて通じないなんてことはなさそうです。覚えた言葉をどんどん使ってみることが大事という気がしました。

 Baijuriの家に居るうちに雨が上がる時があったので、双眼鏡を持って近くを散歩がてら鳥を探してみましたが、これは別のページに書きましたのでそちらをご覧ください。
       マレーシアのあおい鳥
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再びPenangへ

 29日はBaijuriの家からMaznahの家に戻りまたまたみんなに会って、お昼を食べてから午後2時30分にPenangへの帰途につきました。来た時と逆コースですが、昼間なので熱帯雨林の眺めを期待したのですが、雨と霧で視界は悪くちょっと残念でした。

 でも面白い体験がありました。そろそろ熱帯雨林にかかり、人家が無くなるという直前に道路がタイとの国境に接触するところがあるのです。Baijuriの説明によれば道路の右肩が国境だというのです。確かに平地なのにガードレールがしてありました。道の両側には掘っ建て小屋のような店が並び(正式の建築はできないのか?)Baijuriも感心する安い価格で食品から雑貨までが売られていました。我々は雨が強かったのでマレーシア側の店に入っただけで、マレーシア人の店で、ナンプラーが欲しかった家内の質問には「分からない」という答えでした。

 雨が弱ければタイ側に行ってみたかったのに残念でした。出入国管理事務所があるわけではありません。ガードレールの切れ目を通るだけのことで、その辺りは一種の自由貿易地帯?となっているようでした。しかしその地域以上に自由な往来が許されているわけではなく、少し行くと軍隊の駐屯地があり道路では兵隊がチェックをしていました。Malaysiaナンバーの車は速度を落とすだけで良く、厳格というものではありませんでした。そういえばくる時は夜だったからか、そんな検問はありませんでしたし、夜間閉店だったのでしょう、店にも気づきませんでした。

 熱帯雨林の地帯を抜けるとパーキングエリアと言ってもいい所があります。路肩を少し切り開いて、飲食する店、土産物屋のような店など10軒くらいが広場の片側にある所へ入りました。目的はトイレです。トイレは有料で、20セント(7円)だそうで、入り口のおじさんに払って入ります。でも本当は外国人はただでも良いのだそうです。

Penangの夜

 Penangに入る前に行きに給油に寄ったサービスエリアへ寄りました。今回は彼らのお祈りと子供たちに夕食をさせるためです。日に5回のお祈りはモスリムである彼らの日常ですが、多分ずっと走っていてできなかったのでここでまとめて?することにしたようです。こうしたhighwayや空港には必ずお祈りをする場所が設けられていて、お祈りする機会がなかったは理由にならないようになっています。(KLIA;Kuala Lumpur International Airport にもちゃんとありました。私はトイレを探しにいって、男女の識別があったのでここかなと思ってのぞいたらお祈りの場所でした(~_~;)。)

 彼らが子供たち3人を私たちに預けお祈りに行っている間に、ニナとアフナンにマグドナルドのハンバーガーの夕食を食べさせました。(一番下のナニはまだミルクです)孫の面倒を見るじいさんばあさんをやってきたわけです。

 Penangに入るには橋を渡らなければなりませんが、出る時は無料で入る時は有料だそうで、今度は料金所をがありました。確かに出て行った車はいずれ帰ってくるし、入ってきた車はいずれ出て行く、片方で往復分取っておけば料金徴収事務は半分で済む合理的な考えです。

 大人はPenangに入ってから食べることになり、何がいいかと聞くので「Penangらしいものがいいな」と言ったら街中の屋台を大きくしたような店で、Char Koay Teon チャー・クォーイ・テオンを食べさせてくれました。これは他所には無いそうで、ちょっと辛い具の焼きそばと言った感じでした。タイ人が作っているようで、タイ風焼きそばと言ってもいいような味でした。持ち帰りもOKで、その時はちょっと防水した紙で器用に包んでくれます。

 次に行ったのは翌日の朝食用の買い出しで、24時間営業で、焼きそば、タンドリーチキンとナン、カレー、ロティチャナイの4種類をその場で作っているインド人のやっている店でした。店先で食べることもでき、美味しい店には人が集まるのはここでも同じで、おおにぎわいでした。タンドリーチキンとナンそれにロティチャナイを頼んで待つこと30分はかかったでしょうか。タンドリーチキンとナンを作るのが面白くて釜のそばで見ていましたが、カレーの方へもビデオカメラを向けるとインド人のちょっとひょうきんなお兄さんは得意がって、盛付けのスピードぶりを見せてくれました。

 Penangの夜は遅くまで起きているようで食事をするには事欠かない様ですが、ハリラヤの今はマレー系の人の店は休業が多く、やっている店はちょっと少ないようです。

Penang観光

 Penangの人種割合は中国系7割、マレー系2割、インド系1割で、中国系の顔が多かったのが目につきました。
 Baijuri達の家も(分譲のアパート)、住人は中国系の人ばかりだそうです。日本風にいえば3LDKですがトイレは2つあり、ゆったりと作られたマンションが彼らの家です。普段はインドネシア人のメードさんもいるのですが、ハリラヤで里帰り中でした。

 30日は、極楽寺、イギリス時代の要塞跡をぐるっとまわる人力車、北部の海岸リゾート地、バティックの店(私だけシャツを買いました)どPenang観光をしました。

 極楽寺では、2人はナニの世話で忙しく、ニナとアフナンを連れて上の方まで行ってきました。Maznahの職場でもあるMSU(Malaysia Science Univ.)構内へも行きました。広大な芝生の広場には植込みでMSUと書かれ、ブーゲンビリアの咲く高台からは本土へ渡る橋が見えて観光ルートとしても良いところです。併設のモスクがあるのはやはりMalaysiaです。


帰途

 30日夕方にはもう帰り支度です。少々物足りなさを感じながらPenang 空港へ向いました。空港ビルは目下増築中で分かりにくくなっていますが、こじんまりした空港で、いとも簡単にチェックインを終わってBaijuri、Maznah一家に別れをつげました。長女ニナは年が明けるとすぐ小学校1年生。今度会う時は子供たちも大きくなっているだろうな、ひょっとすると子供たちが日本へくるかもしれないと思いながらサヨナラを言いました。

 Penangから名古屋へ帰るには、一旦KLへ行って乗換えをしなければなりませんが荷物はPenangでKL経由名古屋行きにしてもらえます。PenangからKLIAへは1時間足らずです。新しく出来たKLIAはその大きなことで有名ですが、着陸する頃はもう暗くなっており実感が湧きませんでした。黒川紀章設計になる建物はうわさに聞くより大きかったのですが、深夜で閑散としており冷房効き過ぎで、4時間のトランジットはちょっと苦痛でした。

 機上の人となってからは、しばらく忘れていたアルコール(ウイスキー)をリクエストし、出された薄い薄いプラスチックのコップになみなみと注がれた液体を飲み干すと、着陸2時間前に出る朝食に起こされるまでぐっすり寝てしまいました。

 とても慌ただしかった訪問でしたが、久々になつかしい顔にも、親戚一同に一度に会えてハリラヤの時に行って良かったなと言うのが実感です。Baijuriは多分これからも仕事で名古屋へ来るでしょう。またMaznahも学会で来ることでしょう。近々福岡であると言っていました。彼らとの交流はこれからも長く続くことを願っています。

                                     以  上
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