てのひらの上
二 |
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居間に通されて籐の椅子に腰を下ろすと、玄武が慣れた手つきで茶を注いで差し出してきた。武骨で大きな手だが、相当器用なのだろう。それは細かい動きを見ればよく分かる。 「率直にお聞きします。昨夜、朱雀に何をおっしゃったのですか?」 「紅耀が抱いてくれとねだってきた。が、それを断った」 「それはもったいない。何故ですか?」 「紅耀はエルの相手と、天界の仕事が重なって疲労している。自覚はないようだが、俺から見れば明らかだ。今の状態で俺が抱いたら、更に体の負担を増やす。だから断った。理由も説明したのだが」 なるほど、予想どおりのすれ違い。 朱雀は疲れているからこそ、一番の本命である玄武に甘えたかったのだろう。だがそれを拒否されてしまった。 恐らく、拒否された時点で、もうその後の理由など耳に入らなかったに違いない。 「その時、彼はなんと?」 「分かった、とだけ言ってそのまま部屋を出て行った。だがその足でお前の所へ向かったようだな。これでは本末転倒だ」 小さな溜め息をついて、玄武は茶をひと啜り。 「昨夜朱雀が私のところへいらした時、酷く傷ついたご様子でした。ぼろぼろと泣き出してしまいましてね。あんな状態の朱雀は初めて見ましたよ」 泣き出したと言った途端、玄武の無表情がぴくりと動いた。 見た目には変わっていない。だが確実に彼の中が揺れたのは確か。 「お二人の日常は存じませんが、朱雀は元々あまり貴方にねだってこなかったのではないですか?」 「頻度の基準が分からんが、十日に一度くらいだった」 「それ自体、朱雀は相当自分を抑えての頻度だったと思いますよ。あまりお盛んでない傾向の貴方に頻繁にねだって、鬱陶しいと思われたくない、嫌われたくないとずっと寂しい思いをしていたのでしょう」 ―――俺が欲しいのは、ひとつだけなのに…… ―――いつも、嫌われたくなくて、好きだって言って欲しいだけなのに…… ―――わかんねえよ、俺はどうすりゃいいんだ……っ 昨日、涙と一緒に零した、とりとめもない言葉。あれは間違いなく抑えられずに溢れ出た朱雀の本心だ。 「朱雀があの強さや面倒見のよさとは裏腹に、寂しがりやで甘えん坊なのは、貴方が誰よりもご存知のはず。もう少し、構ってあげてはいかがですか」 玄武は黙ってこちらの話を聞いていた。 あともう少し。 以前から当人に面と向かって訊いてみたいと思っていたことがある。いい機会だ。 「朱雀のことは、どうお思いなのですか?」 「会ってすぐにあらゆる面で惚れた。それからずっと変わず、一番大切な存在だ」 思ったよりも、素直な反応が返ってきて内心驚いた。 しかし、言ってから玄武はやや表情を翳らせる。 「紅耀は俺と会うまで、ずっと何かをしたいと考えることもできないような境遇にいてな。だから、望むことはできる限り叶えてやりたい。しかし、望みを叶えてやることによってあいつの体に負担がかかるならば、俺は紅耀の頼みでも断る。それだけだ」 記憶している限りでは、朱雀は以前にも一度、寂しそうな顔を覗かせたことがある。 ―――玄武はただ、俺があいつに好きって言うからそれに応じてくれる。そんだけだよ。 ―――だって、あいつから俺に触れてくれたこと、一度もねえもん。 明らかに自分の一方通行だと思い込んでいる。 だからこそ、拒絶された時の打撃は鋭利な刃物と化して朱雀の心を抉ったのだろう。 これはかなり長い間、深刻なすれ違いが続いているのではないだろうか。 「あなたが朱雀をどう思っているか、朱雀が貴方に何を望んでいるのか――帰ってきたらきちんと話し合ってください。朱雀は相当悪い方へ勘違いしてしまっているようですよ」 「分かった。しかし、何故橋渡しのようなことをわざわざ言いに来た?お前はずっと紅耀を隙あらば自分に靡かせようと狙っているだろう」 なるほど、こちらの野心も下心も玄武は全部分かっている上で放し飼いにしているらしい。 それも、朱雀が嫌がっていないからという理由に基づいているわけか。 「弱った朱雀もいじらしい。ですが、自由奔放で天真爛漫、色香と余裕たっぷりの朱雀が私は一番好きなのですよ」 ―――何より、今つけ込んだくらいで貴方がたの間を裂けるなどとは思っておりません。 それは口に出さず、ややぬるくなった茶を飲み干す。 少し濃い目で、ほろ苦さと深みのある、いい味だった。 自室の扉を開けると、朱雀は既に起きていた。窓枠に腕を乗せ、ぼうっと外を見ている。 「お帰り…」 「お目覚めですか、お姫様」 畳に座っている朱雀の膝もとに、小さな小さな折鶴が転がっていた。何かと思えば、さきほど枕元に置いた書置きの紙。 「お腹が空いたらおっしゃってください。簡単なものでしたら作って参りますよ」 「うん……」 心ここにあらず。 朱雀はまさにそんな体。 空を見ているようで、何も見ていない。 浴衣の後ろ襟から、昨夜咲かせた小さな紅梅が見え隠れする。 どうせ治癒の早い神の肌、もうすぐ消えてしまうのだろう。 肩に羽織をかけてやろうとすると、朱雀がようやく身動きした。 「朱雀?」 しかし、それは羽織をかけようとした自分に対するものではないようで。何か見つけたのだろうか、一点を凝視している。 朱雀がそこまで注視するようなものがあっただろうか。 視線を追ってみると、それは衛明館の塀の外で――― 「皓司、いきなり押しかけたのに構ってくれてありがとな」 ようやくこちらを振り返った朱雀は、一度ぎゅっと抱きついて礼を言うと、すぐに身体を離した。 「お帰りですか」 「うん。そんじゃ」 来た時同様、紅い鳥の姿になって勢い良く窓から飛び立った。 数度羽ばたくと、塀の外めがけて斜めに降下する。 降下点には、ひとりの男。 男は待っていたように屈強な腕を持ち上げ、鳥姿の朱雀の着地を難なく指先で受け止めた。そして反対の手でそっと朱雀の頭を撫で、肩に移し替えてから歩き出す。 同時に、軽くこちらを見て手を振った。 朱雀が嬉しそうに、男に頬ずりしているのが見える。 「さすが玄武。どうすれば朱雀が喜ぶか、本当に心得ていらっしゃる」 室内には、朱雀の甘い香りがわずかに残っていた。 この香りを次に間近で味わえるのはいつだろうかと思いながら、窓を閉めて再び部屋を後にした。 ◆ 最後に朱雀が衛明館へ来た日から、三週間が過ぎた。今までならば週に一日は少なくとも来ていたというのに、文字通りぱったり音信不通である。街中でも全くあの姿を見かけなくなっていた。朱雀がよく行く店の店員にそれとなく聞いたところ、頻度は落ちたが買い物に来てはいるらしい。となれば、引きこもっているわけではなさそうだ。 日暮れ刻、外出から戻る道すがら、川べりの草の上に寝転がっているエルを見つけて声をかけた。 街中の茶屋では目だってしまいのんびりできないから、こんなところを選んだのだろう。 「お帰りの途中ですか?エル」 「ああ」 寝転がっているエルを覗き込めば、ずいぶん不機嫌そうな返答。 「せっかくお仕事が早く終られたのに、何故油を売っていらっしゃるのです?家には麗しの君が二人もいらっしゃるでしょう」 「いるにはいるけど…」 もそりと上体を起こしたエルが、苛立ちも露に金色の髪をかき回す。 「なんだか知らねえが、最近玄武がでしゃばるようになってきやがった。俺が少しでも強引に朱雀に迫ろうとすると『無理強いするな』って朱雀を俺から遠ざけるんだよ。朱雀は朱雀で玄武に構ってもらえるようになったーってすんげー喜んでメロメロ」 「なるほど。ここしばらく朱雀をとんと見かけないのはそのせいですか」 「……って、お前まで蚊帳の外にされてんのか。そいつは相当だ」 膝に頬杖をついて、溜め息をつく横顔は姉である沙霧によく似ている。しかしこの、拗ねているような表情を見せるあたりはまだ十九歳といったところか。 「玄武って、朱雀を放置してるようなのに、実はあいつのことちゃんと見てんのな。だから扱いが巧いし、そんなのが一歩踏み出して来たとなればまったく取り付く島がねえ」 「朱雀の本命は玄武ですからね。当然といえば当然です」 「ちょい前に、玄武に『朱雀が火遊びしてんの、気にならねえのか』って聞いたら、即答で『気にならん。帰る場所あっての火遊びだ』ってよ」 「それほどにどっしり構えている玄武だからこそ、奔放な朱雀にとって唯一無二の帰る場所なのでしょう。あの鋭敏な観察眼と、許容量の大きさには私も太刀打ちできませんよ」 ああいうところが神様たるゆえんですかね、と言いながら川の水面を眺めていると、後ろからさくさくと草を踏む足音が近づいてきた。 「お前らが一緒にいるなんて珍しいな。雪でも降るんじゃね?」 振り向けば、片手に荷物をぶらさげた朱雀が立っていた。後ろ髪をくるんと硝子の簪でまとめ、色鮮やかな花柄が膝下に入った着物をさらりと崩した姿は、なんとも艶やか。 「朱雀。こんな時間にお買い物ですか」 「あー。白虎のバカが塩をぶちまけやがったんでね」 そうして話す様子に変化は見られない。以前同様、綺麗な見た目とは裏腹に言葉遣いは粗暴で、笑わなければ冷たい印象を与える。 しかし、そんな印象とはまるで正反対の言葉が、朱雀の口から発された。 「おいエル、あと半時くらいで飯だ。仕事終ったなら道草くってねーで早く帰って来いよ」 にこりともせずそれだけ言うと、そのまま背を向けて歩いていってしまった。 「早く帰ってこい、ですか。邪魔者扱いされていないようで、何よりです」 「……むしろ生殺しにされてる気分だ」 さきほどよりも盛大な溜め息をついたエルが、倦怠なしぐさで立ち上がってひとつ伸び。 少し先に見える朱雀の背中を追いかけて、エルの後ろ姿も遠ざかっていく。 朱雀が傷つき、甘えに来た夜が明けた朝。 初めて迎えに来た玄武の姿を見止めた朱雀は、飛び立つ前にきっちりこちらを向いて礼を言った。無論、彼なりの愛情表現である抱擁も忘れず。 そして玄武に一層近づけるようになっても、エルに対する愛情は変わっていない。「早く帰ってこい」とわざわざ声をかけるあたり、恐らく弟のように思っているだろう。もっとも、エルが求めるものとは十中八九違う。朱雀の言動が生殺しだというエルの表現は当たっている。 玄武以外を本命の位置に据える気は皆無だというのに、朱雀は他の者たちにも愛情という名の餌をばらまいている。八方美人と言ってしまえばそこまでだが、朱雀は単に自分が好意的な相手に対して面倒見が良く、優しいだけ。悪意のない純粋さが、こちらを更に駆り立てるとも知らず。 しかし餌へ露骨に食らい付けば、逃げられるのは明白。 さあ、ではこれからどういったさじ加減で朱雀に接すればよいだろうか。 もうしばらく待っても全く姿を現さないならば、こちらからそれとなく誘い出してみるべきか。 それとも、全く興味がないのをよそおい涼しい顔をしておくべきか。 いずれにせよ、次の夜にはたっぷり時間をかけ、甘く優しくいたぶって差し上げよう。 誘われるは旨し、されど焦らされるもまた旨し、である。 |
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