現し世の阿修羅


 日があるうちは上着は羽織一枚で充分だが、日が落ちると一気に寒くなる。ひとりでぶらぶら城下を散歩していたら、徐々に雲行きが怪しくなって終いには大雨に見舞われた。冷たい雨は下手をすると小降りの雪より簡単に身体を冷やされる。
 雨宿りしようと小さな居酒屋の暖簾をくぐると、なじみの店主が人柄の滲み出る笑顔をこちらに向けた。
「いらっしゃい、旦那。随分降ってきたみたいだねえ」
 御頭についてすぐ、この店を知って以来、大体週一くらいの頻度で通っている店。
「おや、ずぶ濡れじゃないか。奥で着物を乾かすといいですよ」
「すまんな」
「なんの。そのまま座布団や椅子に座られちゃあ、かないませんからな」
 他に客はおらず、店主は棚から大き目の手ぬぐいを持ち出すと奥に続く扉を開けた。
 中は薄暗いが、奥で火を炊いているようで、ゆらゆらと橙色の灯りがぼんやりと室内にうかんでいる。

「さっき、旦那と同じようにずぶ濡れでいらしたお客さんがいましてね。―――紅さん、入っていいですかい?」
 なるほど、先客も同じように着物を乾かしている最中らしい。
 店主が声をかけると、奥から声が返ってきた。

「どーぞー」

 声だけでは性別が分からない。沙霧や圭祐も声だけでは性別が分からない類だが、この声の主も同類だろうか。とりあえず、声から察するに子供ではない。おそらく二十そこそこ。
「じゃあ、適当にくつろいでくださいな。酒とつまみをお持ちしますんで」
 渡された手ぬぐいで頭を拭きながら中に入り、囲炉裏の方へ歩き―――想定外のものが視界に入ってきて不本意にも立ち止まった。

 囲炉裏の前に、こちらに背を向けて座っている先客がひとり。

 明らかに丈も幅もあっていない様子からしてここの浴衣を借りたようだが、着方が雑で、背中が半分ほど出ている。裾も寸足らずで、ひざ上から脚が出ている始末。
 後ろ姿を見て、すぐに分かった。女だ。薄桃色の肌が暗がりでもよく見える。囲炉裏の炎に照らされて、なまめかしいツヤを放っている。横に流している髪は紅色で、耳には何かの飾り。どうみても普通の町娘ではない。
 しかし、あんな肌蹴た格好の女の傍に座るのはいくらなんでもまずいだろう。店主も、そのくらい考えそうなものなのに、全く気にせずとは困ったものだ。

 やや考え、少し離れたところに腰を下ろすと、女が肩越しに振り向いた。

「どした?こっちに来いよ。あったかいぜ」

 声や後ろ姿を裏切らない、とんでもない別嬪だった。
 が。

「ったくさー夕方までぴっかぴかの晴れだったのに、いきなり土砂降りでずぶ濡れ。あんたもだろ?」
「…ぶしつけに無礼を承知で聞くが、女か?男か?」
「残念、付いてますよ。ひょっとして女だと思ったから離れて座った?優しいね」
 さらっと下世話なことを言ってのけた美人は、軽快に笑った。
「着物乾かすならそこに掛けろってさ」
 ほっそりとした指が側にある衣架を指し示した。見れば、片方の端に、紫色の着物が掛かっていた。丈が長いところからして、この美人のものだろう。
「いや、いい。そこまでずぶ濡れじゃないから、少し火に当たれば乾く」

 女でないなら遠慮は無用。向かいにどかりと腰を下ろし、冷えた手を囲炉裏に当てていると、くすりと笑う息遣いが聞こえた。
「あんた、いい身なりしてるし派手な店が好きそうなのに、ここの常連なの?」
 顔を向かいの美人に向ければ、緑を帯びた金色の目が炎を反射して猫のように光っていた。
 こんな目立つ容姿なら、長く江戸で暮らしている自分が知らぬはずもないと思う。しかし実際、うわさを聞いたこともなければ、会った事もない。

 人懐こい喋り方だが、何を考えているのか全く読み取れなかった。探る眼差しを向けても、謎めいた微笑が返ってくるのみ。

「派手な店も好きだが、こういう店でまったりしたい時もあるんだ」
「ふーん。まあ犬小屋じゃそんなとこ隊士に見せられねえだろうし、道理かね」
 こちらの素性を知っていること自体は、別段おかしくはない。
 江戸に住んでいれば隠密衆の存在はたいていの住民が知っているし、班長以上は顔と名前が一致していることも多いのだ。
 しかし、どこか引っかかる。
「俺はお前より長く江戸に住んでるが、お前を見るのは初めてだ。それだけ派手な見た目ならば噂くらい耳に入ってきて然るべきなのにな」
「人の組織の長ってのは、本人が思ってるより実際は情報に疎いもんだよ。極端な例をいえば将軍サマ。一番情報量が多いのは、上から二・三番目あたりの幹部。組織の質を左右するのも、そのへんだ」
 こちらの行動を調べた上で、先回りした暗殺者だろうか。
 あまりにもひっかかる点が多すぎる。具体的にどこ、というものではなく、長年の勘が警鐘を鳴らしているのだ。

「まだ名乗ってなかったな。俺の名は紅。初めまして、葛西浄正殿」


 酒が入れば素性が分かるようなことを喋るかと思いきや、全く変わらない。そもそも酔った様子すらなく、今もあっさり空になった徳利を店主に預けた。

「さっきから探ってるみてえだけど、俺は刺客じゃねえぞ。暗殺や用心棒やるほど金には困ってねえし、誰かに命じられて動くなんざ、真っ平御免だからな」
「お前みたいにさも好意的に近づいてきて、俺の寝首をかこうとした奴を今まで大勢見てきたんでね」
 お前のことはまだ信用しないと含ませて返すと、むっとする様子を見せるだろう―――と見れば、大きな金目をすうと細めて冷ややかな眼差しでこちらを見据えてきた。