名を呼べば


「まあまあ、大きな音がしたと思ったら天井の板が落ちてきたのね。お怪我はありませんでした?」
 廊下から、手ぬぐいと水を張った桶を持った真夜が心配そうに入ってきた。ちょうどいいので手ぬぐいを借り、水で濡らして軽く絞る。
「真冬に冷水濡れ布巾じゃ、冷てぇよな」
 先ほどと同じ要領で、今度は熱を意識して掌から発動させる。数秒で掌の濡れ手ぬぐいはぼんやりと湯気を上げだした。
「よし、そのまま動くなよ」
 広げてそこまで熱くないのを確かめてから、オコジョの毛の汚れを頭から拭いてやる。特に嫌がるそぶりもなく、むしろ気持ちがいいようで目を細めていた。
「あの桃を持ってきたのは、この神様だ。同じ香りがするだろう?」
 汚れが取れて真っ白い毛並みになったオコジョが、目をやたら輝かせて擦り寄ってくるので膝に乗せてやると、瀞舟がオコジョの顔を覗き込んでそう言った。
「こいつって、言葉分かるの?」
「ああ。見た目は普通の動物だが、妖だけに知能はそれなりにある」
「あの桃、俺ん家でなったもんだよ。美味かった?」
 鼻先をつついてたずねれば、コクコクと首をタテに振る。なるほど、通じているのは確からしい。


 一刻ほど後には凌と玲が帰ってきて、静かだった屋敷内がにぎやかになった。
 あのオコジョは瀞舟いわく玲のことが怖いのだそうで、彼女がいるところでは物陰に隠れてしまい、姿を見せることはなかったが……ちょこちょこと白い尻尾が見えていたので、人が嫌いというわけではないのだろう。

 夕暮れ時、そろそろ帰るべく上着を羽織ろうとすると、裾からあのオコジョがぴょこんと顔を出した。
「今日はもう帰るよ。また今度な」
 オコジョをそっと下ろしきびすを返すと、下から着物の裾をつんと引っ張られて動きを止める。
 引っ張られた場所を見ると――白い小さな、本当に小さな前足で、オコジョが必死に着物の裾を押さえていた。

「お前、ひょっとしてあの種のせいで仲間と仲違いでもしちまった?」

 オコジョを抱えあげて目線を自分と同じにすると、びっくりしたような表情で瞬きしてから大きく首を左右に何度か振った。仲間とうまくいかなくなったわけではない、ならばどうしたのだろう。
 しかし、オコジョは寂しそうに「きゅー」と鳴いてこちらに手を伸ばしてくる。
 何だろう。何かを訴えようとしているように見えるけれど、自分には分からない。

「朱雀と、一緒にいたいのではないか?」

 オコジョの言わんとすることが分からずにいると、通りがかった瀞舟がそんなことを言ってきた。
「種と同じ匂いの暖かい神様に会えたのだから、一緒にいたい。違うかな?」
 肩に乗ったオコジョは、俺の髪のひと房にしがみついて頬ずりしてくる。 
 しかし、俺がここに住むわけにもいかない。

「お前、うちの子になる?」

 少し考えて、それが無難かと結論した。
 別にここにいなければいけない理由もないだろう。特別このオコジョを斗上家の人間が寵愛している様子もない。大勢住み着いている妖の一匹、という感じだった。
「勿論、主の瀞舟が許可してくれんなら、だけど。どお?」
「私は構わんよ。朱雀が好意で引き取ってくれるならば、そやつも嬉しかろう」
 俺と瀞舟を交互に見ていたオコジョは、最後にじっと俺を見上げて首をかしげた。
「ここと俺んち、どっちの子がいい?」
 たずねると、オコジョは俺の肩に全身でしがみついた。離れたくない、といわんばかりのその必死な様がなんとも愛らしい。

「迷うまでもないようだ。まあ、当然だろうな」
「じゃあ瀞舟、こいつ貰ってくぜ。お前は今日からうちの子な」

 背中を撫でてやると、ぱっと顔を上げて目を輝かせた。


 さて、帰りはいつもなら行きと同様鳥姿に変化してひとっとびで帰るのだが。今日はオコジョをつれているので、少し考えて徒歩で帰ることにした。
 引き取るにあたって、いくつか瀞舟から伝えられたことがある。
 まず、このオコジョに限ったことではないが、この家の妖は力の弱い妖ばかりで、敷地の外にはその家の人間が許可した時でなければ出られず、無理に出れば途端に妖力を失って消滅してしまう。ただ、他の誰かが受け入れてくれれば話は別らしい。
 外へ出られない反面、よその妖が入ってくることもできないので、敷地内であれば弱い妖も捕食者に怯えず暮らせていたわけだ。

 オコジョは瀞舟や凌が連れて時々外へ出ることはあるが、単身での自由な行動までは他の妖同様許可されていなかった。
 俺が受け入れたから、斗上家以外にも俺の家敷地内も単身で自由に行動できる領域になったわけだ。これで俺が自由な行動を全面許可すれば、どこにでも行けるようになるのだろう。

 ただし人間に今まで無害だったとはいえ、一応妖怪。暫くは結界の外を自由に行動させるつもりはない。

「てん、きら……んー、何がいいかな」

 とっくに日は落ちた夜道をぼちぼち歩きながら、俺は指折りそんな単語を思いつくまま読み上げる。勿論、俺は手ぶら。袖に小さな財布が入っているだけの超軽装。俺の目は明かりひとつない暗闇だろうが関係なく見えるので、夜道で困ることもない。

 肩の上で周りをきょろきょろ見ていたオコジョは、俺の声に反応して首をかしげる。

「お前の名前だよ。今まで名なしだったんだろ?真夜は仮でシロって呼んでたみたいだけど、そのままよりは新しくつけた方がいいかと思ってさ」

 小さな妖怪に、個別の名前などないらしい。
 しかしそれでは、何だか捕食のためだけの存在のようで、あんまりだ。

「お前がこういうのがいいってのがあったら、それにするけど」

 このオコジョは、人間の字が読める。凌が教えたそうで、日常生活で目にする程度の漢字も分かるし、平仮名ならば自分で書く事もできるというから、結構賢い。
 しかし、オコジョは首を横に振ってから、俺をじっと見つめてきた。
「えーと…俺の考える名前でいい?」
 きゅー、と高い声で返事。随分、懐いてくれているようだ。

 ただ注意しなければならないのは、こいつが一緒にいるとき、どこまで神気を解放していいか分からない点。まるは上級悪魔だからそういった気遣いはいらないが、力の弱い妖など、俺が少し攻撃的な神気を解放してしまえば即お陀仏のはず。

 家で一緒に暮らすには、他の奴らにも注意してもらわねばならない。