ちいさな幸せ




 相模から江戸まで、と言うとかなり遠く聞こえるかもしれないが、この国の北から南までを旅してきた自分にとってはご近所同様。

 今日はひと月ぶりに朱雀と待ち合わせ。いっぱい食って歩いて遊んで、更にお泊りの許可までちゃんと取り付けた。機嫌のいい時を見計らい、朱雀の他の取り巻きたちとかぶらないようにするとなると結構俺が入り込める日は少ない。

 もうちょっと頻繁に会いたいのが本音だけど、朱雀は暇そうに見えて天界での仕事をしつつ人間界でも職人という副業を持っているからわがままを言うのはまずい。しつこくしたら誰だろうが嫌われるのは目に見えているし。


 待ち合わせ場所に思ったより早く着いてしまい、どこかの店に入って時間を潰そうかと考えていたら、知った女三人に声をかけられる。
「凌ちゃんじゃない〜こんなとこで会うなんて奇遇ねえ」
「あ、もしかしてお城で働いてるっていうお兄さんと待ち合わせ?」
「あたしたちも一緒に遊びた〜い」
 相模で遊んでくれるおねえさまがただった。買い物だろう、手に店の名が入った華やかな包みをそれぞれ持っている。
「ねえねえ、琉璃屋の新作で凌ちゃんに似合いそうなのあったわよ」
「待ち合わせまで時間あるなら、ちょっと見に行かない?」

 朱雀との待ち合わせまであと四半時ほど。琉璃屋までは距離があるから到底無理。
「ごめんね、琉璃屋まで行くほど時間がな……」
 い、といいかけた時、向こうの曲がり角に赤いものが見えた。
 朱雀が来たんだろうと思い顔をそちらに向けると、こちらに向かってくる姿ではなく――なぜかきびすを返して去っていく後ろ姿。

 甘えた声で腕に絡み付いていた女三人をほどほどにあしらってから、俺はその場から駆け出した。

 
「朱雀!」

 曲がり角を曲がって、朱雀の姿を探すと少し前方を大またで歩いている。頭の位置がいつもより低い。多分、俺がお願いしたのを聞き入れて女体化して来てくれたんだ。

 人ごみを抜けて、声をかけても振り向かない朱雀にようやく追いつき、腕を掴んだ。

「何だよ」

 耳に慣れた朱雀の声より、やや高く柔らかい女の声。

「何って、待ち合わせたのにどうして帰っちゃうの?」
「待ち合わせ場所であんなケバい年増女にへらへらしてる奴となんか、会いたくねえ」

 軽く掴んでいた腕を振りほどかれてしまう。道の端で立ち止まった朱雀は、俺のほうを向きもせず吐き捨てるように言い放った。

「ごめん朱雀、気分を害したなら何度でも謝るよ。でも地元の知り合いに声かけられて、無視するのはまずいでしょ?」
「……」

 平謝りしながらも、拗ねている朱雀が可愛くてしかたないとか思ってしまうのは、多分俺だけじゃないだろう。特に今日は女体化しているため身長が俺より小さく、組んでる腕の上に丸々と柔らかそうな胸が乗っている始末。
 いつもと変わらぬ粗暴な言葉遣いで文句を言っていようと、うるうるツヤツヤな薄紅色の唇は今すぐ食べてしまいたいくらい魅力的だ。

「お前があの女どもに声かけたんじゃねえのか」
「違うよ」
「…だってお前、よく町中で女つかまえて遊んでるだろ」
「今日は朱雀と待ち合わせてるんだから、時間を潰すにしたってそんなことしない」

 組んでいた腕を解き、ようやく朱雀が俺のほうを向いてくれた。
 でも、まだ怒ってる。目つきが怖い。

「じゃあ、俺と一緒の時ああいうのに声かけられたらどうすんだ?無視するのはまずいんだろ?」

 ……うーん、やっぱり手ごわい。

「挨拶はするけど、それで終わりだよ。大体から声かけてこないし、朱雀が一緒なら」
「なんで」
「明らかに格上の女を連れてたら声はかけられないんだと思う。今までもないでしょ?」
 
 何せ女朱雀は沙霧に並ぶ美女。高貴さでいうなら沙霧の勝ちだが、甘い色香でいうならば朱雀の勝ち。対極だが、どちらにせよ同性がおいそれと対抗しようなどと思えない手合いなのは確かだ。

「………ならいい。俺が早とちりしたのも悪かった。ごめん」
「ううん、俺の日頃の行いからしたら、そう取られても仕方ないもんね」

 たとえ相手のほうが悪い部分が多くても、朱雀は自分にも非があると気付けばすぐ認めて謝る。しかも相手が人間だろうが悪魔だろうが全然気にしない。長生きしている高位の神様なのに、こういう素直なところはすごく可愛いし、すごく尊敬できると思う。

 ようやく朱雀の猫目の険しさがとれ、いつもの表情に戻ってくれた。
 安堵した俺は、ふと甘い香りが鼻をかすめたことに気付いて香りの出所を探す。

「今日の香り、桃…じゃない、さくらんぼ?」
「あーうん。桜桃そのままの香りにしようと作ったんだけど…ちょっと甘すぎたかな」
「美味しそうな香りで俺は好き。食べちゃいたい」

 朱雀に抱きつくと、いつもとは違う感触が伝わってくる。男の時は必要最低限の筋肉の上を柔らかい肌が覆っている感触。でも女の今は、全体的に柔らかくて華奢だ。守ってあげたいような、壊してしまいたいような、妙な感覚が沸いてくる。

「放せ。往来でいちゃつくの嫌いなの知ってるだろ」
「はい、ごめんなさい」

 個人的には、朱雀を連れていることを誰かれ構わず自慢したくて仕方がない。でもそんなことを言ったら朱雀はきっと嫌がるだろう。

「手は繋いでもいい?」

 解放してからそうねだると、朱雀は何も言わず柔らかい手を差し出した。
 
 
  朱雀と待ち合わせた後、数軒の店を回ったところで町が混んで来たので一休みしようと茶屋で一服。
 表通りからは離れた場所に席を取り、店員に注文をしてから朱雀を見ると、なんだか一瞬表情が翳ったように見えた。
 
「疲れちゃった?なんか元気ないね」
「いや大丈夫。ただ、朝っぱらから上で仕事だったからちょっと眠くて」
「え、今日空いてたんじゃないの?」
「午前中に終わらせたから、今日はもう空いてるよ」

 朱雀は沙霧同様、ものすごくよく眠る。玄武いわく、放っておくと一日のうち半分は寝ているというから、その彼が睡眠時間を削って仕事するのはかなりきついだろう。
 しかも「上で」というのは朱雀たちの本来生きる世界、天界のことだ。趣味をかねた人間界での職人仕事ならば融通が利くが、上でとなるとそうもいかないだろうし。

「無理しなくてもいいよ。眠いならここの上でひと眠りしてけばいいから」
 この茶屋の上は座敷がいくつかあり、宴会などでも使える貸し出し部屋になっている。ただの休憩に使う客、ちょっとした食事会に使う客、さまざまだ。
「いいのか?」
「うん。俺も朱雀の傍でゴロ寝する。眠らないけど」
「お前がいいならそうしたい。適当な時間に起こして」

 部屋に入って畳にころりと横になった朱雀は、すぐに寝息を立てはじめた。なんというか、本当に寝つきがいい。窓から木漏れ日が差し込むこの部屋は暖かく、寝心地も抜群だろう。
 お昼寝するならどうぞ、と店のひとが貸してくれた肌掛け布団を朱雀にそっと掛けてから、俺は少し距離を置き、窓際に寄りかかって寝顔を眺めた。



 朱雀と初めて会ったのは、五年前。
 衛明館に住む兄貴のところへ遊びにいったら、兄貴の傍に寝転がってくつろいでいる美人がひとり。

 斗上さんなら部屋にいるよ、と圭ちゃんが玄関から通してくれたのだが――誰だろう、これは。

「おや凌。遊びに来たのですか」
「うん」

 俺が返事をすると、寝転がって目を閉じていた美人が倦怠そうにあくびをしてから目を開けた。
 やや緑がかった猫のような金目にひたと見据えられ、心臓が跳ねる。

「皓司。それ何、隠し子?弟?」
「隠し子です。私にそっくりでしょう」
「あーなるほど、弟ね」
「一本取られましたね。さすがです」

 大きな白い牡丹が描かれた濃紫色の着流しを緩く着崩し、紅色の髪をかきあげる姿はものすごくあでやかだった。窓から差し込む光が逆光になっていて、髪の輪郭が明るい赤に透けて見える。

「私の友人の朱雀です。朱雀、これは私の弟で凌といいます」
 
 俺が朱雀に見ほれていると、兄貴が紹介してくれた。
 
「よろしく、凌。なんかちっちぇえ皓司みてえだな、よく似てる」

 立ち上がると、兄貴とほとんど同じくらいの上背があった。でも袖や裾から覗く手首足首なんかは華奢で、俺より細い。

「す…ざくさん、よろしくお願いします」
「朱雀でいいよ、敬語もいらねえ。兄貴に会いにきたんだろ?邪魔者は退散すっから、ゆっくりしてけ」
 柔らかい手で俺の頭を撫で、軽くぽんと叩くとそのまま朱雀は兄貴の部屋を出て行った。
 
「凌」

 含み笑いとともに兄貴に声をかけられ、朱雀の甘い残り香に放心していた俺ははたと現実にかえる。

「綺麗でしょう。口は悪いですが、とても優しい方ですよ。ここに住んでいる方ですから、会いたければまた会えます」

 悪人には見えないが、普通の町人にはもっと見えない。
 何者なんだろうと思ったら、人間ではなく神様なのだと兄貴が言う。