本稿をまとめるにあたり、白井 昭氏には大変お忙しい中、多大なるご協力を頂きました。
また、白井 昭氏のご実弟であり、鉄道ファンとしても著名な白井良和氏、そして鉄道友の会名古屋支部の方々からは、いろいろなお話をお伺いいたしました。
また、大井川鐵道株式会社、財団法人博物館明治村には取材に当たりましてご協力を頂きました。
この場をお借り致しまして、皆様に御礼申し上げます。
白井 昭氏のことを文章にまとめるきっかけは、1988年、白井氏と名古屋工業専門学校(現・名古屋工業大学)の機械工学科の同期で長年の友人であった故・天野金昭氏からの「白井君から話を聞きなさい」との助言であったということを最後に付け加えておきます。
白井 昭
鉄道友の会名古屋支部員であり、支部幹事をお願いし、例会にもよく出席していた天野金昭氏が6月21日、亡くなられた。
昨年より病を得て入院と自宅闘病を続け、5月中旬自宅へ見舞ったときは元気だった。
天野君と私は学校の同級生で、彼はまた根っからの鉄道ファンであったが、友の会活動はゆとりのでた昭和60年頃から活発になった。
昔から多くの組織の世話役を引き受け、名工大機械工学の同人的な名古屋工業会(名古屋工業大学の後援会組織)などの役員として力を尽くされた。
当支部の中学生会員の親が進学の心配をしたところ、彼は早速その子に付き添って鉄道見学をやった。口で言ってもなかなかできることではない。そしてスタンドプレーをきらい、立派な男であった。
戦火を生き残っただけに厳しさもあり、要領第一やスタンドプレー人間には恐るべき存在でもあった。鉄道の見識も相当なもので、私に電車の流しノッチ(発車時にノッチを切って流し、様子を見る)について尋ねるなど専門的であった。
終戦後はアメリカ軍関係の仕事をしたので、英語は私と違って達者であり、いつも物静かであるが強い、立派な男だった。
昭和21年頃、日本車輌でC11形SL新造の見学会(注:このときに見学したSLが現在大井川鐵道で動態保存されているC11312である)、広小路でアメリカ兵と遊んだこと、母校、鶴舞公園の思い出、お互い20代であった若き日の思い出。
食糧も物も何も無い時代の青春は、校歌と同期の桜を歌うしかなかった。
泣くまいと思っても酒を飲めば涙がわいてくる。
奥さんは新しい金山駅の写真を供え、お経の代わりに本人の好きだったSLのテープを流している。
名古屋支部の大切な人物を失ったというべきか。
(鉄道友の会名古屋支部報 パノラマ 1989年7月号(通巻71号)掲載)
白井 昭
経営でも個人でも、こう定めたから良いとしたときから退歩が始まる。
固定した哲学が出来たために、世の中から取り残されたのは国鉄の組合を始め、多々の例がある。
鉄道でも昔から、新型車両、新しい客車、路線が次々と現れ、もてはやされたが、列車ダイヤ、車両など「最新」のものをこれで良いと考えたら、大きな誤りであり、絶えず発想の転換を繰り返し実行すべきである。
今の時点では、鉄道は大戦でも起きない限り、だんだんとデラックスに、アイデア豊かなものに向かってゆくだろう。
さらに長期的には情報時代化により輸送としての鉄道は減り、出会いのため、レジャー、文化としての乗車が増える。
とにかく最も大切なことは、固定観念の排除である。
(鉄道友の会名古屋支部報 パノラマ 1984年7月号(通巻41号)掲載)